novel | ナノ

僕を満たす音 弐

 どちらを選ぶべきか、気付けば縋るような思いで北大路を見ていた。すると彼はすぐに僕の視線に反応し、どうしたのかと聞くこともせずにすっと立ち上がる。体をこちらに向け僕の反応を伺うようだった。
 一緒に道場へ戻りましょう。――言葉無くそう語りかけているのだ。
 僕は逡巡する。帰りたくない帰りたくない。でも帰らなくてはいけない。それに皆もきっと心配している、謝らなくっちゃ…。
 北大路はじっと待った。もしも彼が弱い僕に譲って再び隣りに腰を下ろしたなら、それこそ僕は救われなかったに違いない。しかしこれからどうするかを僕自身に選ばせ、彼はその身を以て道場へ向かう選択肢となったのだ。
 遂に僕は怒られる方の恐怖を選び立ち上がる。怖くても惨めな思いをしても行かなくては――そう覚悟を決めて。
 僕が歩き出したのを確認して北大路も後に続く。けして連れ戻されるのではなく、僕自ら進む道だった。ときどき足が竦んだように何度か立ち止まってしまう。それでも彼は急かしたり声をかけたりせずに僕が再び歩き出すのを待ってくれた。
 大した距離ではない道のりをゆっくりゆっくり進んでいく。道中も会話はなされなかった。僕は僕で道場に帰った後のことを想像するので手一杯だったので、後ろで歩く北大路がどんな面立ちでいたのかは分からない。喩え見たところでいつもの無表情があるだけで、その真意は掴めなかっただろう。

 ようやく見慣れた柳生道場の門の前に立つ。なのに僕は家にたどり着いたという安堵感と叱られるという恐怖からか、最後の最後で急に泣き出してしまった。ここまで来たのにめそめそ泣くなんて我ながら情けなかったけれど、堰をきったように溢れ出る涙は止まりそうもなくて僕はどうしてもそれ以上前に進むことが出来ない。ただ突っ立って流れるままに涙を流した。
 すると、今まで決して自分からは働きかけなかった北大路が僕に手を差し延べる。涙で歪む視界に確かに差し出された右手と彼の顔を見た。いつもの何を考えているのか分からない無感動な顔ではなく、柔らかな表情に多分ほんの少しだけほほ笑みを浮かべている。
 初めて見る北大路の笑顔に驚いた為か発作的に流れていた涙が止まった。それに気付くとはっとして涙を乱暴に拭い、そして彼の手をとる。存外に、熱い。 手を繋ぐと不思議と心は落ち着いて、竦んでいた足も力を取り戻したようだ。そしてそのまま二人で門をくぐった。
 稽古が終わり多くの門下生が引けた為か柳生邸内は閑散としている。僕達が連れ立って帰ってきたところは誰も見ていないようだ。
 父上のところに行かなくては。怖いのは相変わらずだったけれど、反省もしていた。ちゃんと謝りたい。けれどそれには僕一人だけの力で行かなくてはいけない。これまでずっと傍についていてくれた北大路を見上げる。見返す彼の目は少年らしからぬ確かな重みと普段は見せないような暖かみを帯びていて、全てを心得たように落ち着いていた。
 もう一人で大丈夫。――そう伝えるつもりで繋いでいた手をやんわりと緩めると、北大路も抗うことなく握っていた手を放す。この手に掴んでいた体温を失って心にぽっかりと穴があいたような感覚だったけれど、悲しくなった訳ではなかった。それは恐らく僕が自分で選んだ喪失だと分かっていたからだ。

 「ありがとう。」

 このときになって初めて僕は言葉を口にする。思えばこの日は随分一緒に過ごしたものだが、二人の間で成された会話はこれ一回きりだった。
 北大路はその言葉に境内で会ったときと同じような黙礼で応える。結局最後まで彼の方から何か言うということはなかったのだなと不思議な気持ちで北大路を見た。
 彼が面を上げたあと僕は踵を返して父上がいるであろう屋敷へと向かう。新たな芯が一本、すっと僕の体を支えてくれている気がして、足取りはしっかりしていた。

 これで、僕の脱走劇はお終い。この後は予想通り父上にしこたま説教されて、終わったところを東城が宥めてくれるという展開になるのだけど以前ほどの惨めさは感じなかった。逃げ出したという己の非を認めていた為だろうか。

 この出来事をきっかけに僕が成長したかといえば実はそうでもないのだが、自分を取り囲むものが苦痛ばかりではないことは少しだけ理解できたような気がする。幼い僕は柳生の世界を抜け出したいと思いながらそこに居場所を求めているのも確かだった。その矛盾に気付き結局は帰ることを選んだのがまさにあの日の葛藤なのである。そしてそれを導いてくれたのは確かに北大路であった。
 あの日聞いた鳥の声も風が葉を揺らす音も虫の羽音も、北大路が傍に居るという感覚も、僕は今でも鮮明に思い出せる。正確に言えばそれはもう完璧な形ではなく長い年月の中で繰り返し想起するうちに具体化されたものなのかもしれないが、思い起こす度に感じる温かな感覚は確かに当時と変わらない。
 心に平穏をもたらすこの記憶の中の音は、きっと北大路が与えてくれたものなのだ。最後まで発することのなかったその言葉の代わりに安らぎと沈黙の優しさを、あの日の僕は彼から貰い受けたのである。

 そしてそれは今も尚、この心を温かく満たす。



――了――

御題元:SNOW STORM

prev / next

[ back ]


「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -