novel | ナノ

僕を満たす音 壱

 道場の稽古に参加するようになって間もない頃の話であったろうか。男として生きることも道場の次期当主として強くあることも拒絶していた僕は、稽古が始まってしまう前に柳生邸内をこっそり抜け出して家からそう離れていない神社の境内に潜み時間を潰すということがしばしばあった。
 その当時の僕にとって稽古とは痛くて辛くて尚且つ自分を追い詰めるもの以外の何物でもなく、敷地を囲うあの高い塀を越えることで自分は自由であると思い込もうとしたのかもしれない。勿論それは単なる錯覚に過ぎないのだけれど。
 とにかく誰にも会いたくないとき、僕は静かなその場所を逃げ場所に選んでいた。

 僕がいなくなる度に道場内は上へ下への大騒ぎ、…だったらしい。当然その場にいるはずがないのだから知る由もないのだが、後に東城らが目を細めて(東城の目は元々細いが)語るにはそうらしいのだ。彼らはまさか小さくひ弱な子供が塀を越えて外の世界に飛び出したとは考えもせず、邸内を隅々まで探したという。今更ながら申し訳ないことをした。
 その為か、未だに東城は「あの時若はどこに隠れていたのですか」と時折思い出したように尋ねる。過ぎたことなのだから言っても問題は無いはずなのに、何故か僕はその答えを教えてやらない。意地悪するつもりはないのだが、何となくその過ごした時間の全てを秘密にしておきたいのだ。

 けれど一人だけ、僕以外にその答えを知っている者がいる。――それが北大路だった。

 どうして僕が外に出たのだと分かったのだろう。何となく見やっていた視界に彼の姿を捉えたとき、僕の心は驚きに跳ね上がった。見つかってしまったという無念と見つけて貰えたという喜びが混じり合った奇妙な気分に、とりあえず短い脱走劇は終わりを迎えたのだという諦めだけは確信した。
 北大路は僕の傍へと歩み寄る。その両足はかなりの距離を駆け回ったのか所々砂埃や小さな傷がついていて僕ははっと息を飲んだ。いくら柳生邸外に見当をつけても、子供が隠れられる場所は少なくない。きっとあちこち探し回ったのだろう。彼一人だけで。

 慰め諭すことで連れ戻す気だろうか、それとも有無を言わせず引っ張って行くつもりなのだろうか、それなりの覚悟をもって彼を見上げる。四角く縁取られたレンズの奥の目はじっとこちらを見据え確かに何らかの感情を抱いているようだったが、それが具体的にどのようなものなのかは判断出来なかった。
 二つの視線が交錯する中彼が口を開くことは遂になかった。境内の石段に一人座る僕に一礼すると北大路は隣りに腰を下ろしてただじっとそこに座った。控えた、といった方が正しいかもしれない。その意外な行動に再び目を見開く。彼はというと既に僕から視線を外し、何処という訳でもなくじっと前を見ていた。先ほど僕がそうしていたように。

 そうして僕らは実に奇妙な一時を過ごすこととなったのだ。不思議なことに僕の逃げ場所を突き止めたにも関わらず北大路がそれを父達に口外することはなかった。そうでなければ脱走はこの始めの一回きりで終わっていたであろう。しかしそうはならずに僕の脱走劇はこの後も数回に渡って繰り広げられる。そしてその度に北大路は僕の前に現れじっと傍に控えるのだった。
 彼がその唯一の逃げ場所について他言しなかったのは、そうしてしまうことで僕が遂に逃げることすら許されなくなってしまうと案じたからなのかもしれない。今でもその真意は掴みかねるが、とにかくそのお陰で僕は安らかな時を過ごせたのである。

 静かな境内である程度一人きりを満喫すると、その後に僕の心を襲うのは稽古から逃げ出した罪悪感と子供じみた孤独感だった。そしてそうした不安が湧き上がってくる頃合に現れるのが北大路で、彼が諫めることもなくまた慰めることもなくただそこに一緒にいてくれるだけで、そのような不安から幾分解放されるような気がした。それは幼さ故の狡い安息感なのだけれど、それでも当時の僕にしてみれば貴重な安らぎであったことには違いない。

 寡黙な彼と同様に、僕からも特別何か言うということはしなかった。本当のところ聞いて欲しいことも聞きたいこともあるにはあったのだけど、あえて言葉にはせずそのまま鳥の声や風が葉を揺らす音や虫の羽音なんかを聞き続ける。音を聞くということはそれだけ時間が流れていくということで、そんな自分なりの時間経過を以て僕は一日が終わりゆく漠然とした安心感を得ていた。
 そして時折耳を澄まして捉えるのは北大路の気配。よほど注意して拾わないと分からない位に控えめなそれは、けれども確かに彼が隣りに存在していることを示す。隣りといっても僕と彼の間には人一人分以上の間が取られていて、並ぶというには親密さがやや欠けていたような気がする。まだ少年の域を脱していないにも関わらず、彼はその幼い次期当主に対して礼儀を怠らなかったということだろうか。
 唯ひたすらに時を過ごし、やがて幼い子供は待つことに飽きてしまう。僕は暮れなずむ空を見上げるのを止めて今道場に帰るとどうなるだろうと考えを巡らせた。
 まず父上に怒られる、それは間違いない。板張りの床に直に正座させられお前は柳生の次期当主だ、強い男としてあるべきだと頭ごなしに言い聞かされる。その後で東城が悼むような笑顔で慰めてくれるのだろうけど、彼の優しさすら情けない僕の心にはチクチクと突き刺さるのだ。
 結局練習で負けようが逃げ出そうが待ち受けるのは同じことなのだと暗い気持ちになった。帰りたくない。でもここにいても仕方のないことはよく分かっている。叱られる恐怖か永遠に家に帰れない恐怖か、二種類の恐怖が心の中で鬩ぎあった。

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