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「#エロ」のBL小説を読む
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∴男主

 ベランダから飛ばした紙飛行機は、あまり飛ばず、すぐに地面に落ちていった。ヒラヒラと風にもてあそばれながら落下していく白い鳥。下にいた子どもが気付き、地面に落ちた紙飛行機を掴むと、こちらを見上げた。
 手を振ると、紙飛行機を持ったまま、こちらへ駆け寄ってくる。一階の居間のガラス戸からなかに入ると、パタパタと音を立てて、二階に上がってくるのが聞こえた。
 彼はおれがいる部屋まで迷わずにやって来ると、開け放たれた窓をくぐり、ベランダに立つおれの隣に並んだ。
 彼はおれの隣から、柵から身を乗り出して、興奮した様子で紙飛行機を飛ばした。
 空に向かって放たれた紙飛行機が、一瞬高く舞い上がる。それからすぐに風に乗れずに下に曲がり、あとは重力に従ってユラユラと落ちていくだけだった。
 それでもそれが気に入ったようで、彼はおれのほうを見て、キラキラした目をして笑う。おれが笑って応えると、子犬のようにはしゃぐ。もう一度走り出し、外へ紙飛行機を取りに行く。
 おれは彼を黙って見守りながら、次に下を見下ろしたとき、施設の外に男がいるのに気付いた。
 とある小国の田舎にあるこの施設は、いつもたいてい門を開け放してあって、よく老人や、近くに住む保育所の子どもたちが遊びに来る。
 ここに住む人たちはみんな、例外なく良い人ばかりだ。おれはまだこの町で、施設の子どもたちを馬鹿にするような人間に、会ったことはない。
 男は見慣れない恰好をしていた。黒のスーツを着込み、脱いだコートを左腕にかかえている。頭には同じく黒の帽子を被っていた。
 最初は誰かわからず、少し警戒した。過去に一度だけ、この土地を買い取りたいという企業の人間の話を聞いたことがあったからだ。
 けれども男がふと立ち止まり、地面に屈み、落ちた紙飛行機を拾っておれのいるほうを見上げたとき、おれは驚きと同時に警戒を解いた。
 出てきた子どもが、先に紙飛行機を拾い上げてしまった男を見付けて、ポカンとしている。
 おれが黙って見下ろしていると、男は子どもに紙飛行機を渡した。そして嬉しそうに紙飛行機で遊ぶ彼を置いて、なかに入っていく。
 おれは少し悩んで、それからベランダから部屋に戻ると、屋上を目指した。
 屋上に出て、五分もしないうちに、男は来た。
「久しぶり」
 おれが柵にもたれて待っていると、男は帽子を脱いでそういった。
「久しぶり」
 同じ言葉を返した。それ以外、なんていったらいいかわからなかった。
「いい眺めだ。まさか、こんなところにナマエがいるとは思わなかった」
 おれのそばまでは来ずに、男は屋上の半ばで立ち止まった。
「おれもこんなところまで、クロロが来るとは思わなかった」
 男は古い友人だった。昔同じ街で育って、その頃は仲良くしていた。おれたちは二人ともあるグループに属していたが、やがておれだけがそのグループを抜けた。それ以来、会っていなかった。もう十年以上前の話だ。
「わざわざ会いに来たんじゃないぞ。偶然、ここの前を通りがかったのさ。こんな偶然があるもんなんだな。ふと見たらおまえがいた。おれも驚いた」
「なんだ、そうなのか。それで、そんな妙な恰好をしてんのか」
「ああ。ここにいると知ってたなら、手土産の一つでも持ってきたんだがな」
「いいよ。久しぶりにおまえを見れただけでも、十分だよ。珍しい恰好もしてるし」
「なんだ。変か?」
「いーや。よく似合ってるよ。とても悪党には見えない」
 クロロは軽快に笑った。
 おれの隣まで来ると、脱いだ帽子をおれの頭に無造作に被せた。
「その言葉、そのままそっくり返す」
「なんだよ。おれは悪党じゃねえよ」
「よくいう。それとも改心でもしたのか?それでこんなところに?」
「そんなんじゃない。ただ、ここが好きなんだ」
「ふーん」
 クロロは屋上から町を見渡した。屋上といっても、建物の三階。さほど高い眺めではないが、それでもここは小高い丘の上にあって、町がよく見える。
 おれは適当に被せられて視界を邪魔する帽子を、手で軽く直した。手触りのいい生地。ずいぶん高価なものなのだろう。相変わらず荒稼ぎしているらしい。当たり前か、今やこの男は世界一有名な盗賊の頭だ。
「この国でも、盗みを?」
 しばしの沈黙のあと、先に口を開いた。
「いや。観光に立ち寄っただけ」
「だろうな。ここにはなにもない」
「ああ。暇潰しにあちこち歩いてみたが、本当になにもない。一体、ここのなにを気に入ったんだ?」
「なんとなくだよ。平和だし、住人も良い人間ばかりさ。善良っていうのは、ここのやつらみたいな人間のことをいうんだよ。それが実感できる」
「はは、カタギみたいなことをいうんだな」
「そうだ。おれはカタギになったんだ」
 クロロがおれを見たので、おれもクロロを見た。一秒後、二人で同時に吹き出した。男二人ぶんの笑い声が屋上に響く。
「昔から、とんでもないことをいうよな。ナマエは」
「うるせえ。おれはけっこう真面目だ」
「生計は?どうやって金を稼いでる」
「なんだよ急に」
「カタギになったっていうなら、真面目に働いてるのかと思って」
 おれが黙ると、クロロはもう一度おかしそうに笑った。
「じゃ、ここはボランティアか?」
「ああ。週に三回、手伝いに来てる。ここの院長に世話になってさ。そのお礼なんだ」
「へえ」
 クロロがまじまじとおれのことを見るので、おれは居たたまれなくなって遠くを見つめた。
 確かにおれは真面目なほうじゃないし、ここにボランティアに来る以外では、それなりに悪いことをして生きている。今さらまともに働くといっても無理がある。おれはそんなに器用な人間ではない。
「院長に会いたくなるな。一体どんな人格者なのか」
「ただのジイサンだよ。特別なことはなにもない」
「そのわりにはやけに惚れ込んでるじゃないか」
「おまえと正反対のような性格の人だよ」
 つまらない嫌みのつもりだったが、クロロはそれすらも吟味しているようだった。この男は少し機械じみたところがあって、なにより自分の感情に無頓着で鈍い。だから、いつもなにを考えているかわからない。この男自身、自分のことをあまりわかっていないのだ。
「なおさら気になるな。どんな性格だ?」
「自分のことには興味がなかったんじゃないのか?」
「まあね。でも前におれの本質を問うような質問をされたことがあるんだ。そのときもおれの本質について考えてみたんだが、結局よくわからなかった。それがきっかけで、今でも時々考えてみることにしている」
「相変わらず変なやつ」
 おれたちが昔住んでいた街は、変なやつが大勢いた。そのなかでも飛び抜けて、この男は変だ。今でもそれは健在らしい。
「楽しそうだな」
 下で遊ぶ子どもたちを見て、クロロはいった。子どもたちはみんなそれぞれ、いろんな遊びに耽っている。さっき紙飛行機を渡した子どもは、まだそれで一人で遊んでいた。彼らの症状は様々だが、彼らはみな一様に、自分の世界を持っている。揺るぎなく、誰からも干渉されない、完璧な世界だ。そういう意味では、クロロも彼らと同じのように思えた。あの街にいた子どもたちはみんな、自分の世界を持っていた。
「いつも楽しそうにしてる。だから見てるだけで癒されるよ」
 おれが肯定すると、クロロは「いや」とおれの言葉尻で口を挟んだ。
「おまえさ。外から見ていたが、楽しそうにしていた」
 面食らってクロロのことを見た。横目でおれを見るクロロの眼差しが至って真面目なので、おれは言葉を詰めた。
 おれは照れたのか、悔しかったのか、わからなかった。一つ確実だったのは、淋しかったことだけだった。
 横目でおれを見たクロロは、もうおれの知らない人間だった。
「楽しいよ。みんな純粋で、無垢だ。心が洗われるような気持ちになる」
 おれは臆面もなくハッキリと口にした。クロロはもう茶化さなかった。おれは茶化してほしくて、気まずくて唇を舐めた。恥ずかしくなった。
「そうか。よかったな」
 まるで父親か母親かのような、遠くから離れて見ている人間のように、クロロは笑った。もちろんそこに父性も母性も微塵も紛れてはいない。愛情とか優しさからは遠いところで育った人間だった、おれもクロロも。だからわかった。クロロは今のおれのことが一ミリも理解できていないことと、おれもクロロのことがほとんどわからないことが。
「楽しいか? おまえも」
 おれが尋ねると、クロロは短くああと答えた。
 気持ちのこもらない声だったが、彼はいつも気持ちのこもらない反応をするので、そこに他意はないのだろう。楽しいのだろう。
「そうか。よかったな」
 別に真似をしたいわけではないが、ほかになんていったらいいかわからなかった。
「なあ、また会いに来るか?」
 おれはふと、そんなことを訊いていた。訊くつもりなんかなかったのに、口をついて出ていた。
「そうだな。近くに来れば、また顔を見に来るよ」
 居たたまれなくなって、顔を伏せた。下で遊ぶ子どもたちを見つめて気を紛らそうとしてみる。
「まだあの街にいるのか?」
「ずっと、おれたちのホームはあそこだよ」
 クロロに帰る場所があることが不思議だった。きっとこの男にはそこに大した拘りはないのだろうが、おれには羨ましかった。
「ドラマみたいな言い方をするんだな」
 おれが茶化すが、クロロは笑わなかった。
 それから少しして、クロロは「そろそろ行くよ」といっておれの頭から帽子を取り、施設を去った。行き先は聞かなかった。それについてはおれも気にならなかった。
「なあ、また会いに来るか?」
 それでも、女々しくもおれはもう一度訊いていた。
「ああ、また」
 クロロは振り返りもせず、あっさりとそういって去っていった。

 下で遊んでいた子どもが、一人だけ興味深そうに門をくぐるクロロの背中を見送っていた。おれが紙飛行機をあげた彼だった。
 その子が屋上にいるおれに気付いたので、手を振った。
 彼は一瞬だけこちらに反応を寄越すと、また紙飛行機で遊ぶのに集中し始めた。
 おれはポケットから煙草を出すと、ライターで火を点けてふかした。
 本当は禁煙なので、バレたら咎められるだろう。でも屋上にはほとんど人が来ないからいい。
 五分ほど静かに煙草をふかしていたところで、おれは自分の手が震えていることに気が付いた。くそ、と一人悪態をついて、足下に煙草を落として潰した。
 どうして昔、おれは一人であの街を出たのか考えた。
 心から後悔していた。
 本当はクロロたちと一緒に生きたかった。
 おれはクロロがすごく好きだった。おれは昔から不器用で、気が小さくて、そして嫉妬深い男だった。
 クロロは人気者で、けれど本人には他者への拘りがない。そんな人間を心底信頼し、好意を持つことが、どれほどの苦痛か。
 おれはクロロたちの少しあとに、あの街を出た。クロロが仲間を連れて街を出るときには、一緒に行かなかった。なぜかわからない。どうしてもいやだったのだ。それからは、今まで、それなりにうまく一人で生きてきた。
 はずだった。
 ずっと淋しかった。クロロたちのことは忘れようとして生きてきた。
 ほかに大事なものを作って、自分の居場所も見付けた。
 それでも、自分のことだからわかる。おれが一番大事で、居心地がよくて、生きるも死ぬも共にしたい連中は、ここにはいないこと。おれが生きて、そしてやがて死ぬときにいたい場所は、ここではないこと。
 淋しい。
 クロロは偶然だといった。おれのことを探してここへ来てくれたわけではないのだ。
 それがただ淋しい。そこには悲しみも怒りもない。好きだからだ。おれは自分が情けなくなって、終いにはなにもかもが虚しく思えた。
 きっとクロロは、もう会いに来ないだろう。
 いつかもう一度会える日が来るとしても、それはきっと何十年も先の話だ。
 淋しい。おれは淋しい。
 ずっとクロロが好きだった。その気持ちのままクロロと共にあの街を出ていたら、今はなにかが違っていたのか?
 いつの間にか日が暮れ始めていた。
 夕焼けが、音もなく町の向こうに沈んでいく。



 あれからまた数十年が経って、おれはそれでもまだ密かに諦めきれずにいた。結局クロロは一度も会いに来てくれなかったが、それはおれが居所を変えたせいだと思うことにしている。
 クロロの真似をしたのか、クロロと同じ視点で世界を見たかったのか、ただ、同じ場所で同じ日々を送ることが耐えられなかったのか、わからない。恐らく、そのすべてなのだろう。
 おれは数年ごとに色んな国に移動し、長くても三年しか滞在することはなかった。拠点とでもいうべきか、買い取ったアパートの一室は売りに出さないまま、クロロと再会した、あの小国の田舎町に今もある。
 それで未練がましく、数年に一度あの田舎町に戻っている。部屋の管理を口実に、もしかしたらクロロが来るかもしれないと様子見に行っているのだ。
 しかし、それももはや、ままならなくなった。
 歳を重ね、ほぼ日がな一日中寝たきりになったおれを世話してくれる友人は、三年ほど前にチンピラに絡まれているところを助けてやった、若い男だ。
 この若い男は運が悪かったのだと思う。この男は、少し容姿がクロロに似ていた。基調となる色合いが同じだった。当たり前だが顔立ちは違う。あんなに奇麗な顔をした男などそうそういないものだ。
 この男の律儀で健気な性分につけこんで、有り難く世話になっている。聞けば家族がいるそうなのに、毎日おれのところへ来て、朝から晩までおれの世話をしている。炊事に洗濯、買い物はもちろん、風呂の世話も。
 ある日ふと、若い男が尋ねた。あまり自分を出さない控えめなこの男が尋ねたことは、ずいぶんとおれの人生に首を突っ込んだ内容だった。
 ナマエさんは、人を殺したことがあるんですか?
 男の話によると、自分なりにおれの情報を集めたらしい。その執念が一体どこから来るのかわからなかったが、きっとクロロもおれの気持ちを知れば同じことを思うのだろう。自分に他人が固執する意味も、自分が他人に固執する意味も、当人にしか理解できないものだ。
「ああ。あるよ」
 おれの肯定に対し、それ以上の言及はなかった。若い男は朴訥そうに見えて意外にも聡明だった。
 それでおれのほうから、どうしてそんなことを知りたいのか訊いた。男は、初めて会ったときからおれがどんな人間なのか気になっていたそうだ。ほかの人間とは違う空気を感じていたらしい。きっと生まれや育ちのせいだろう。しかしおれがまったく自分のことを話さないので、勝手に調べたらしかった。なにか昔話の一つでも聞きたいと本音をこぼしたので、おれはクロロの話をしてやった。ずっとおれのなかで凝りのように残っている男の話だ。その男に会わなければ、おれは生きることの苦悩など知らずにいたのだろう。
 おれが赤裸々に思いを語り、今も彼がまだ会いに来てくれるのを待っているというと、若い男はしばらく黙りこんだまま、複雑そうな顔をしていた。
「おれが探してきます」
 沈黙のあと、男がいった。絶対に無理だとわかっていたのでおれはわざと「頼む」といった。
 多分クロロはもう死んでいる。もしも生きていたとしても、おれのことは忘れている。
「見付からなくても自分の責任だと思うなよ」とだけ、付け足しておいた。そうでなくてはこの若い男は、おれが死んだあとも探し続けそうだからだ。
 それにクロロのことを話したのは、もうすぐ死ぬ自覚があったからだった。それなりに波乱万丈に生きてきて、死ぬか生きるかの瀬戸際に立ったこともあるから、死期も手に取るようにわかる。
 おれはクロロにもう二度と会えないまま死ぬのだ。





 雨の日だった。この街の雨は酸性雨のように目に見えて危険ではないものの、そこに含まれた有毒な物質の量は世界一に違いない。この雨が降った次の日には、よく小動物が道端で死んでいる。
 息をするのも憚られるような悪質な空気のなか、それでも生まれつき丈夫な子どもたちは、しっかり生きている。おれも、そんな子どもの一人だ。
 おれは人の世話をするのがけっこう好きだったので、いつも年下を連れていた。そのうちにおれをリーダーとするグループのようなものもできていたが、ある日街の大人が現れて、おれたちを彼らの生活圏に引き抜いた。おれたちがいた区域には、まだ幼い子どもがたくさんいた。誰かが面倒をみてやらなければ、一人では生きられず死んでしまうだろう。
 だからおれはそこに残ることにした。
 子どもは本当に簡単に死ぬ。なにか手を講じる前に生から逃げるように死んでいく子どもたちを見て、おれは自分の逞しさを感じていた。だからこの世は不平等で、悲しいものだと思っていた。
 ある程度育った頃に、おれが子どもを助けたり世話をしたりするのは、おれ自身への不安や孤独を紛らすためなのだと、ぼんやりとわかった。
 流星街に雨が一週間降り続いたことがある。
 食べ物をさがして一人で街を探索していたおれは、崩れた建物の瓦礫の上で同じくらいの年齢の少年と出会った。
 おれが瓦礫をひっくり返して歩いていると、後ろから声をかけられた。
「なあ。それ、おれにくれ」
 振り返ると、おれが手にしていた本を指さして立つ、黒髪の少年がいた。お互い雨に濡れていて、おまけに喋ると白い息が立つというのに、貧相な恰好だった。それでもずいぶんと慣れた様子で、それでいてまともな怪我もしていなければ、この街の空気に害されてなにかしらの病気を患っているわけでもない、ごく健康体の姿だった。一目で同じ人間だと思った。生まれつき、丈夫で、そして生きる力を持った人間だ。
 その瞬間、おれは彼を仲間にしたいと思った。
「これ? でもこれ、ミーシャたちに見せてあげようと思ってるんだけど」
 おれが拾った本は、子どもたちに見せてあげようと思ったものだった。みんな字など読めないが、挿し絵があると興味を示す子が多い。かくいうおれも字など読めない。でも、物珍しいものには興味があった。
「仲間がいるのか?」
「ああ。まだみんな、小さくて、おれが食べ物をさがしてやらないと駄目なんだ。今食べ物をさがしてるところ」
「じゃあ、あとで貸してくれ。おれは向こうにいる」
 少年は西のほうを指さした。広大なゴミの大地のなかにも、所々に人がかろうじて雨風を凌げる、手作りのテントのような住居や、瓦礫で作ったそれなりの成りをした建物なんかがある。少年がさしたほうにもそれらが見えた。もっとも、雨で悪い視界のなか、それが見える視力を持つという時点で、おれたちは互いが同じ人種であることを言外に確認しあってもいた。
「わかった。でも、タダじゃ駄目だ。かわりに食料を分けてくれ。少しでいい。こっちは十七人も子どもがいるんだ」
「おれは自分のぶんしか持ってない。向こうの連中はみんなそうだ。自分で食べるぶんは、自分で取ってくる。分けられるほどにない」
「……わかった。いいよ、タダで」
 おれは交渉することで一つの関係を築ければと思っていっただけで、本当は本などすぐに少年にあげてよかった。
「本ならたくさん持ってる。それと交換でどうだ?」
 けれども少年は対価を求めることには賛成のようで、代わりのものを提示した。おれはもちろんそれに賛成した。
 そしてこの関係を続けるために、おれも食べ物を集めると同時に書物をさがすようになった。そうやって少年とのやり取りを続けて半年もすれば、おれは立派に彼らの仲間入りを果たしていた。相変わらずおれの生活圏は子どもたちと共にあったが、向こうの住人は縄張り意識もないようで、おれが彼らの生活圏に出入りすることも案外すんなり受け入れた。
 その一番大きな理由は、おれが彼らと同じ人種だったからだろう。この世界は理不尽で、冷たい。だからおれが彼らが旅団を立ち上げて、盗賊として生きることを決めたとき、ついていかないことをハッキリと断言すると、彼らは簡単におれを置いていった。もともと、おれは中途半端な存在ではあった。おれたちは同じ人種だったが、選んだものが全然違っていた。生き方が違ったのだ。
 彼らが陽気で、存外親しみやすい連中だと知っていたからよけいに、おれは淋しかった。

 クロロは流星街にいながら色んなことを知っていたし、頭もよかった。頭がよくて冷たいので取っ付きにくいかと思えば、そうでもない。気さくで普通に笑うし時には怒って見せる。基本的にはなにを考えているのかわからない難しい人間だったが、自然と周りに人が集まる不思議な魅力があった。
 おれはよく、クロロのことをおれが世話をしている子どもたちに話した。クロロの存在が会ったこともない街の人間にまで知れ渡っているのを指摘されたこともある。クロロの仲間はみんなクロロを素直に慕っていたので、外から来たはずなのに我が物顔でクロロを自慢して回っているおれに少しは嫉妬したりもしたようだ。おれはそれさえ嬉しかった。
 クロロには、読み書きも教えてもらった。クロロの仲間にも字が読めても書けないやつや、言葉そのものが違っているやつなどもいた。彼らと一緒にクロロに字を習っている間、おれは楽しくて仕方がなかった。
 字が奇麗だとか汚いとか、左右の向きが逆だったり、何度習っても覚えられない単語などをお互いに指摘して、揚げ足を取り合って遊ぶ。
 なかには年の離れたやつもいたし、最初から字が書けるやつもいて、そいつらには馬鹿にされた。クロロはおれたちがはしゃいでいるとき、遊ぶというよりは愉しむといった様子で参加していたけれど、それでよかった。
 いくつもの同じ時間を共有した。クロロたちと会ってからは、あの街が楽園のようで、世話をしていた子どもたちが甲斐なく死んでいっても、あまり淋しくなかった。
 それなのに、クロロが仲間を連れて街を出るとき、なぜおれは彼についていかなかったのか。クロロが蜘蛛のものになって、けっして未来永劫誰のものにもならないことがわかったからだ。それを認めたくなかった。

「ここがおれたちのホームだ。ナマエもたまには来いよ。団員じゃないが、おまえなら歓迎だ」
 まだ初めて会ったときと変わらぬ少年だったクロロは、旅団を結成したあともそういった。
 それから二年ほどおれは流星街にいたが、その間にクロロたちと会うことはなく、やがておれも街を出た。
 クロロのいないあの街は、なにもなかった。がらくただけが山のように連なっているだけだった。
 世界を旅していたらまたクロロに会える。そう思って、おれは荷物の一つも持たずに街をあとにした。



「そうか。おれはいいよ。おれは……あいつらがいるから」
 旅団の話を聞いたとき、子どもたちを口実にした。そのときにはもう、ほとんど世話などしていなかった。食べ物なら集めてきて分け与えていたが、それ以外の交流もなくなっていた。ある程度元気になって今後も育つ見込みがあるとわかると、街の大人たちが引き抜いていく。それを見ているだけ。
「ほかの連中ともおまえはここに残るだろうと話してたよ」
 そういうと思っていた、とクロロはいった。
「クロロはこの街が好きか?」
 おれは薄暗い霧のなか、遠くを見ていった。クロロが他人のような顔をしていたので、なるべく彼を見ないでいた。
「どうだろう。外に出たらわかるかもしれない」
 実にクロロらしい答えだった。おれはわかる。外に出なくてもわかるよ。クロロのいないこの街は、ただの掃き溜めだ。
 おれは、クロロのいるこの街が好きだよ。





 死を間近に控えて、夢をみる。似たような夢を、日に何度もみる。内容は昔の知り合いが出てくるものだ。深層心理に関係しているのか、ただ事務的に記憶の整理を行っているのかわからないが、おれはあの頃のことを思い出す。
 枕が濡れていることが一度だけあった。その情けなさといったら、口にするのも憚るほどだ。
 孤独はいつか癒える、慣れるものだと思っていたが、歳をとってわかったことは、時が経つほど孤独が深まることだった。
 おれの世話をする若い男に、時々クロロについて尋ねてみる。暇な老人のちょっとした悪戯で、意地悪だった。案の定、若い男はクロロについてはまだなんの情報も掴めていないようで、苦い顔をしておれを見る。
「クロロという男は、ただの男ではないんだ」
 誰にも話したことのなかったおれの最大の秘密を話したことで、この若い男に対する羞恥心がなくなっていた。そして同時に話すことに味をしめたおれは、度々、クロロについて語るようになった。少々脚色された思出話でもあれば、クロロについてのしょうもない分析であったり、果ては思いの丈をのろけのように語る。
 若い男は、いつも決まって同じ顔をしている。おれを見る目は、心からの同情と悲しみに満ちている。恐らくおれも、同じ目をしている。おれはおれ自身が、たまらなく哀れだった。
「なあ、エディ。別に恋愛感情ではなかったんだ。ただ、クロロが特別だった。おまけにおれは嫉妬深かったから、おれの特別な男がほかの人間にちやほやされているのがたまらなかったんだ。そのうえおれは小心者で、臆病だったから、クロロからわざと距離を取るようなことしかできなかった。本当はクロロのそばにいても、会えなくなってからも、同じだけ苦しかったよ。クロロという男が生きていようが、死んでいようが、もうおれは苦しむしかなかったんだ。クロロを好きになってしまったからには」
 若い男は相槌も打てず、固まって聞いていた。
「人をこんなに好きになれてよかったと、おまえは思うか? おれは思わない。こうなるくらいならば、おれはクロロに出会わなければよかったと心の底から思う。あれからずっと苦しいんだ。生きることの苦悩をおれに教えたあの男が、許せなくて」
 おれが煙草に手を伸ばすと、若い男が制した。何度体によくないといわれても、おれは構わず吸い続けた。
「おれがクロロを連れてきたら、どうするんですか」
 若い男は無理やり絞り出したような声で訊いた。
「昔みたいに、話をするよ」
 たわいない話を。
 それから、若い男は家事をしに部屋を出た。隣の部屋から料理をする音が聞こえる。一人で死なずに済むおれは、きっと少しは幸福者なのだろう。でもおれの気持ちは不幸なままだ。
 本当はわかっていた。クロロのことを諦めることができないのであれば、別の方法を選ぶしかないことも。素直にクロロについていけばいいのだ。そしてクロロに会える場所にいればいい。あの街に帰れば、おれは必ずクロロに会えただろう。でもできない。あの街には帰らなかった。今力があったら、あの街に帰るのに。でもわかる。今力があっても、おれはあの街には帰らないのだ。だからおれは、もう二度とクロロに会えないまま死ぬ。

 わかっていた。だからこの苦しみは、死ぬまで続く。