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∴捏造注意


〈わびしきは哀れか。世なり、この世なり。アアレ、マア。あきらめこそすべて。孤独こそまこと。時は病。天のみただひとつの常なり──イヤシカシ?〉

 目蓋をおろしている。格好つけて頬杖をつき、皮肉に口元をゆがませた。ふいに、腰の低い給仕に声をかけられる。ふぅむ、相席?
 そこでようやく覚醒する。ここはセントラルの街中に佇むカフェーのテラス席。椅子は三つ。テーブルの上には飲みかけの紅茶と手のつけられていないサンドウィッチ。紅茶が注がれた背の高いグラスには洒落た黒のストローが居座り、しかし氷がいくぶん溶けすぎて、外見には水滴ばかりが集まっていた。コースターの紙片はすっかり湿り気をおびて、テーブルまでもを浸蝕している。机の上はさながら薄い水溜まり。そうだ、夏の日だった。
 昼時なのだろう、振りかえると店内は人ばかり、来たころには一人きりだったテラスも、いまはすべてが埋まっていた。ここは軽食も扱っている、これがなかなかにおいしい。
 私は古びた本から顔をあげると、給仕を見上げてほほえみを作った。給仕は一礼して去っていった。次にやってきたのは少年と鎧。彼らは私の姿を瞳に映すと一言二言話しかけ、向かいに並ぶ椅子を引いて腰かけた。しかしおかしな組合せ。さすが給仕は心得ているが、客たちはこの二人組にちらちらと奇怪な視線を送った。慣れているのか、性分なのか、彼らはまったく気にする素振りをみせない。私は黙して目を伏せた。そのとき。
「賢者の石」
 その単語を耳が拾った。顔を上げ、目前の二人をうかがい見る。
 一人は大きな鎧。一人は赤いコートに長い金髪、うしろでひとつに編んである。
 何者だ、と思案して眉をひそめた少女になど気を留めず、彼らは会話を続けている。「賢者の石」「はずれ」「イーストシティに」「大佐」声を落としているため切れ切れとしかわからぬが、ただ、年齢に似つかわしくない、眉間に刻まれた深いしわに意識は吸い寄せられようとしていた。
「なにか」
 と。
 機嫌を損ねたような、むっとした声が右耳の奥へ飛びこんできたのはそのときだった。焦点を合わせて、見えたのはこちらをみつめる二組の双眸。先ほどから一ページも進んでいない開いたままの本へ沿わせた手のひらへ、私はそっと視線を落とした。
「いえ。すみません」
「兄さん」
 すぐ謝罪を述べた私とほぼ同時に、鎧がとつぜん責めるような声を上げた。が、聞き間違いだろうか。耳が病んでいなければその口は兄さんと言ったような。
「睨むことないだろ」
「……けど、あんな、じろじろ見られてたら気分悪いだろうが」
 声を落としているつもりなのだろう、しかし聞き取れてしまうのだからしかたない。面倒事は好きではないので、潔く椅子の背から鞄を取り去り、テーブルの上のサンドウィッチを手に腰をあげた。
「あっ。ま、待って」
 あわてて引き留めたのは鎧のほうだ。私は椅子に腰かける奇妙な二人組を見据えた。
「兄弟なのですか」
「えっ」
「さっき、兄さんと」
 唇を閉じてなお首を倒したまま、彼らの反応を待った。やはり最初に口を開いたのは鎧であった。外見とは相反する幼い声が、鎧に包まれているためこもりがちに響く。
「あ、あぁ、うん、そうなんだ。僕、アルフォンス・エルリック。で、こっちが兄の……」
「エドワードだ」
 と言って、依然不機嫌顔の少年は挑むようにこちらを睨んだ。鎧がまた心配そうに兄のほうへ顔を向けている。
「どうも」
 その名はたしか最年少で錬金術師の国家資格を取得したとかで最近の新聞に載っていたなと思いつつ、私は親愛に満ちた笑みを浮かべて目礼した。にわかに金色の瞳へ不愉快げな影がさし、削りたての宝石のように荒々しく輝いた。わかりやすい子供だ。鎧はもうなにも言わない。
「賢者の石を探しているのですか」
 私は奇妙に浮き足立つのを感じて、ふたたび腰をおろして尋ねた。とたんに空気に稲妻が走る。はっとした顔の少年は目を鋭くさせて慎重に口を開いた。
「知ってるのか」
「いえ、知人が」
「会わせてくれ」
「お願いします」
 彼らは身を乗り出して私につめ寄った。喧騒のなか、応酬を気にかける者はすでに一人もいない。ふと油のにおいが鼻をかすめた。鎧のためだろうと思ったが、いや、それは右方向から。いよいよ内心ほくそえんで、だが悟られまいと咳払いをする。
「賢者の石。または大エリクシル、第五実体、鮮血の星。錬金術における等価交換の法則をまるきり無視した奇跡の石。その存在自体現実なのか空想なのか、聞こえてくるのは本当ともつかない噂ばかり……そんなものをお探しなんて。余程の暇人か酔狂かとばかり思っていましたが」
「ご託はいいからさっさと教えてくれ」
「いることにはいます。けれど皆さん性格がひどい。あなたたちならばまず死ぬことはないかと思いますが、意識だけの肉塊にされるかもしれませんよ」
「あんた、俺たちがガキだからってからかってんのか」
「まさか」
 そこで手にしたままだったサンドウィッチをおもむろに口へ運んだ。挟まれていたレタスはとうに萎びてしまっていた。咀嚼はするが、なんとも寝ぼけた味である。飽きずにこちらを睨む少年を横目で見やり、
「黒」
「は?」
「頭の片隅にでもその色を置いておけば、いずれ会えます。遠からず」
 それきり、口を結んで席を立った。荷物は小さな革のショルダーバッグ一つきり。と、なぜか鎧があわてた様子で瞳を覗きこむと、
「あの、名前を教えてくれないかな」
 私は答えず、その場を去った。

          ≡

 大陸に円形をかたどる、アメストリス国。大総統キング・ブラッドレイが治める軍事国家。その実、この国を支えているのは錬金術である。
 錬金術とは、理解、分解、再構築を前提とし錬成陣により有から有を成す学問。その技術は割れた皿を直し、平坦な土地へ一瞬にして塀をつくり、血の滴る傷口を塞いだ。
 しかしそれらすべてが等価交換を条件とする現象でなければならない。
 破片をなくせば欠いた分を差し引いた体積の復元しかできず、塀の足元には削ぎ取られた窪みが残り、切れた腕は戻らない。つまり質量保存の法則を無視することはできず。
――いや。いや、例外が。賢者の石。かの石こそ錬金術師の欲望である。それ一つで無から有を存在せしめる。まさに奇跡。この世の理から外れた所業はもはや神への冒涜だ。とは言え生憎、およそ信仰心と呼べるようなものを持ちあわせてはいないのだ。例え賢者の石がなにでできていようとも、私はもはやなにも言うまい。

          ≡

 数年が経ったらしい。
 なるほど都市は発展する。しかし人はなかなかそうもいかないらしい。
 カフェーのテラス席から眺める雑踏は忙しなく大きな通りを行き交っている。評判だったサンドウィッチはいささか塩気を増したか。はさまれたレタスを食みながら、手のひらにある本のページをめくる。
「あの」
 と、ふいに紙の上へ落ちた影に目を細め、やがて顔を上げると目前には一体の鎧があった。
「相席ですか。どうぞ」
 答えつつ、おやっと思う。この鎧には見覚えがあるな。
 とにかく大きな鎧である。なかに入っているのは筋骨隆々の大男かと思わせる逞しさ、ただ頭頂部から長く垂れる白い毛はどこか尻尾のようで可愛らしい。気になるのがきゅっと締められた真白なふんどしだが、おかげでどうにも間の抜けた感じがする。
 鎧は丁寧にも礼を言って向いの席へ腰かけた。本を読み進める私を眼下に尻の位置を正す。かすかに椅子が軋んだが、その一度きり。やってきた給仕にコーヒーを注文した。次に気まずそうにもじもじ巨体を揺らすので、そのいかつい鎧の下に例えばどんな表情があるのだろうとつい想像してしまう。
「あの、ぼく、アルフォンスです。……覚えてる?」
 とうとう、彼はまっすぐこちらをみつめて上目遣いに尋ねた。
 私は少しのあいだ無言でいた。眼下の文字が途切れ、次の議題に移るまで待たせて、それでもなお彼が待っているのならば尊敬と親愛をもって応じようと考えた。はたして、いまだ視線はここにある。私はそっと本を置く。
「ええ、アルフォンスくん。アルフォンス・エルリック」
「アルでいいよ」
 と、安心が滲んだ声で言った。
「今日は一人なのね」
「そう。ええと、兄さんは別行動なんだ。ちょっと心配だけどね」
「そんなこと言われてしまったら立つ瀬がないでしょうに」
「いいんだ。兄さんってば考えなしの猪突猛進だから」
「仲がいいのね」
「そうかな。……そうだね」
 給仕がソーサーにカップを乗せてコーヒーを運んできた。鎧は一礼するが、手を伸ばす気配はない。
「ここがお気に入りの場所?」
「……えっ」
 とつぜんの問いかけに、私はまばたきをした。先日もそうだっだが、この少年の言葉は親和性をもって空気とまじわり耳まで届いてしまう。なかなか厄介だと思う。
 自分の問いが相手を戸惑わせたと思ったのか、彼は軽やかな声で、今度はいささか速度を落として言った。
「いつもこの店に来てるでしょう。実は、話しかけるタイミングを探ってたんだ」
「まあ」反面、私の返事はぽとりとテーブルへ落ちる。「いつだって暇なのよ。私」
「本を読んでるから。邪魔しちゃ悪いだろ」
「だって、なにかをしていないと退屈すぎて死んじゃいそう」
 あどけない笑顔を浮かべて、少女らしく嘆いてみせた。鎧は首をかしげ、すると何百年の時を経たようなぎこちない音が、どこかの継ぎ目から鳴った。
 テーブルの間を滑るように給仕が歩く。間違っても自分が騒音になってはいけないとでもいうように、ただ静かなほほえみだけを携えて客たちの間を漂っている。
 ふと、斜向こうのテーブルで一人、スーツ姿の紳士がカップを傾ける姿が目に入った。食後のコーヒーだろうか。脇には空いた丸皿が置かれていた。その紳士が、脚を組み、カーテンのように新聞を広げて悠然と読んでいる。残されたページは薄い。私は紳士の肩越しから厳めしい文字列をなんの気なしに見やった。すると隅のほうに小さく、『軍施設元第五研究所、謎の倒壊』という見出しが……。
「探し物はどうですか」
 私はコーヒーに角砂糖を落としつつ尋ねた。ミルクと混じったコーヒーの奥では、白い底の気配がもうすぐそばに潜んでいた。彼ははっと息を呑んだ――とは言え鎧を着ているのだから、という気がした、とつけ加えるべきだろうが。やがて吐息をこぼし、彼は小さく首を振った。
「残念だけど」
 ええ、とうなずきながら、私はカップのなかの角砂糖を潰している。安心と落胆が胸にはあった。角砂糖は、溶けるには液体が足りず、温すぎる。
 彼は続ける。
「でもすこしだけ、ほんのすこし、深い穴の先を覗いた気がする。君の言っていたことが、どういうことなのか……」
 つぶやきは途切れた。目をあげると、鎧の両目の部分が考え深くじっとどこかをみつめていた。ぽっかりと口を開けたその二つこそ、深く底のない穴ではないのか。
「……どうしてその石をさがしているの」手を止めて私はささやく。「と、聞いても」
 彼がどこからか帰ってくる。秘密を打ち明けるときに等しく、声を落として、
「どうしても取り戻したいものがあるんだ。でも、」
「でも」
「それが本当に正しいことなのか、わからなくなった」
「まあ」
 相づちはやはりどこまでも平板で、現実味を欠いている。
「これ、よかったら」
 コーヒーがなみなみと注がれたカップを、彼はソーサーごとさしだした。大きすぎる鎧の無骨な指先には似合わず、彼の食器の扱い方はひどく繊細だった。
「ありがとう」
 飲めませんものね、とうっかり口が滑りそうになったのであわててカップを受け取った。自分のものへと注げば、崩れかけた角砂糖があっという間に姿を消した。器のなかは中途半端に濁ったブラックコーヒーという様子。そこへいささか多すぎるミルクと砂糖を。
「お兄さんと喧嘩でもした」
「……え?」
「方向性の違いとか」
 カップの中身をぐるぐるとかき混ぜながら首をかしげる。
「う、ううん。……ちょっと多すぎやしないかい」
 彼がぎこちなく答えた。目は私の手元を注視している。
「大丈夫」
 私はうなずいて中身を飲み干した。眉をしかめ、口元を拭って、正面に座っている鎧を見た。
「けれど積年求めていたのに悩んでいるのだから。なにかあったのでしょう。そうして、お兄さんと」
「君は……」すこしのあいだ目前を見据えたまま静止していたかと思うと、彼はかすれた声を絞り出してつぶやいた。「いや」とたん、悩ましげに首を横に振り、
「君は、いままで当然だと思っていたことが実は真実じゃないかもしれないとわかったら、どうする?」
「それはずいぶん……曖昧な言い方ね」私は目を細め、しかし相手が再び口を開く前に続けた。「高尚なことはいくらでも言えるわ。当然なんて無数にある、二つをイコールで結ぼうとすること自体が傲慢、真実は一つしかないのだから――なんて。私なんかより錬金術師であるあなたのほうがそれはもう嫌というくらいわかっているのでしょうけれど」
 一旦言葉を切って、テーブルの上で沈黙している本の表紙を芝居がかった素振りで指差す。
「悪魔のささやきに心惑わされる人を無数に見たの。罪によって破滅の暗やみへ身を投げる人がたくさんいたわ。あなたもそうなる? 私はいつも憂鬱に眺めているだけ。助けることはできないわ」
「僕は。僕はそんなのはいやだ」
 それはなにに対する否定なのか。まだ幼さの残る声にはかつての力強さがある。
「なら、あなたが最も信頼しているものはなに」
 語尾を上げ、私はため息をつく。カップのなかを見やってから通りかかった給仕に水をと頼んだ。
 彼は依然こちらをみつめている。その顔を覗きこむように首をかしげ、
「先日おもしろいものをみつけたの」
 そうささやきかけた。椅子の背にかけていた鞄を漁り、ようやく一つの四角い箱を取りだした。金属と硝子で作られた、手のひらにちょうど収まるほどの小さな箱。側面と後面の三方向、それから上面とに細工を施した金属板が包み、正面にだけ透明な硝子がはめこまれてなかの様子が覗けるようになっている。箱の内側は黒く塗られ、ただ中央に宝石を模した硝子玉が浮かぶだけだった。上部には細長い穴が開けられている。
「寒い日でした。露天商と出会って、これを。すごく魅力的だと思って」
 手のひらで支えながら、正面とちょうど目が合うようにその箱を彼へ掲げた。
「本当だ。すごくきれいだね」
 と彼も賞賛を送る。
「貯金箱なの」
 私は真面目な表情をして、小銭入れから取りだした五十センズを上部の穴に落としてみせた。小銭は滑らかに穴を潜って、ことん、とすぐに底へたどり着いた合図を送った。そのとき、正面からえっという息を呑んだ声が聞こえた。
 そう、そこから見えるのは、変わらず暗やみに浮かぶ丸い玉のみ。小銭など影さえ現してはいない。
 彼は私の手から受けとると、箱をくるくる回して仔細をみつめた。その様子を私は膝に両手を乗せてうかがう。やがて感嘆の息をもらした彼が、やはり繊細な手つきで持ち主へとその小さすぎる箱を返した。
「つまり、こういうことなんだ」言うなり紙ナフキンへ四角を、ついで四角のなかを遮るように斜めに線を走らせた。「こうやって、手前から奥に向かって斜めに鏡を置く。そうすることで僕たちが背景だと思って見ている景色は実は鏡に映った底の様子で、上半分には隠された空間が生まれる――コインの行方は、ここだ」
「ええ」
 私はペンが指す四角のなかで斜めに区切られた空間をみつめてうなずいた。彼の熱のこもった声がいまだ耳の奥で楽しげに踊っている。彼が指先をみつめたまま、うなずく。
「そうしてつまり、君が言いたいことは、これだったんだ」
 音もなく私の傍らにグラスがさしだされた。水が入っている。見上げると給仕が上品な笑顔を浮かべ、去っていった。背中を見送って、グラスの隣に小箱をそっと置いた。
「あるとき私はこの中身を夜だと思うことにしたの。暗やみのなかにただ蒼白い月だけが佇んでいるんだわ。入れたコインはたちまち闇に溶けてしまう。月以外のすべてを食べてしまう。私はお金を貯めていると思っているのに、実はすこしずつなくしているのよ」
「けれど真実はどこまでも現実的だ」
「ええ。でも私は錬金術師ではないもの」
「僕は錬金術師だ」
「なら、わかっているでしょう」
「あぁ……」と、彼は吐息した。「わかってるんだ。ちゃんと……頭では」目を伏せる。
 私は水を飲み干した。手の甲で口元を拭っていると、呼びかける声が遠慮深げに耳朶を打った。
「ねぇ、名前、教えてくれない」
「ごめんなさい」
 あくまでも、申し訳なく答えた。下げた眉尻とほほえみを前にして、しかし彼は静かに食い下がる。じっと私の目をみつめると、
「また会える?」
「もう来ないかもしれない……」
「どうして」
「お店の人に顔を覚えられてしまったの。もう、ここへは来ません」
 彼は悲しんだのだろうか。鎧がかたりと小さく鳴った。そう……とつぶやいて、両方の手を膝の上へ置いた。
「残念だな」
 それは本当に寂しげな声だった。
「ええ」
 私は自身を見下ろしながらうなずいた。灰色のワンピースを着た、どこにでもいる平凡な少女。それから、伝票と本、鞄を手に席を立つ。
「私が飲んだのだし、お金は払わせて」
 あっと小さく言った彼を省みず、快活に笑んで顎を引いてみせる。
「さようなら」

          ≡

 エドワード・エルリック。アルフォンス・エルリック。
 彼らが賢者の石を求めるのは、自らを取り戻すためである。
 兄は右腕と左脚を。弟は体を。
 いま。鋼の義肢が兄をふたたび立たせ、魂のみが住む空の鎧が弟をこの世につなぎとめている。
 すべては病で死んだ母を冥界から連れ戻さんとしたがための咎だった。
 人体錬成は禁忌である。人体の構成要素など、水に始まりその他容易に手に入るものばかり。しかしそれではまだ足らぬ。まだまだ足らぬ。錬金術師に命は創造しえないのだ。信じまいとする馬鹿者どもは、やがて甚大すぎる術に呑みこまれ、果てで待つのが真理であった。彼らはみなやつに出会い、奪われる。
 罪には罰を。
 それこそが、延々変わらぬ世の理だ。

          ≡

 今日も今日とて街は安穏すぎると思わないか。
 あれきり定住の地を一つなくした私はセントラルを転々としていた。悩ましくも、一つが切り捨てられるとすべてが怪しく思えてくる。例えば公園の日陰で休む老人に、図書館の自習席で勉学に励む学生に、やあまた会いましたねなどとまたぞろ声をかけられたら……。それは大変困ったことだ。私の望みはなにより空気に溶けこむことだった。そうして暇を潰したい。欲張りはしない、それだけ……。
 云々、考えごとをしながら、がやがやと賑わう大衆食堂にて注文した皿が運ばれてくるのを待っていると、とつぜん目の前の椅子が引かれ何者かが腰かけた。艶やかな黒髪の、ひどく美しい女だった。露出はすくないにもかかわらず、ぴたりと張りつくような黒のドレスは女の体の線をあらわにしていた。豊かな胸と尻のあいだで均整を取るようにくびれた腰。波うつ髪はヴェールのように女を包み、彼女をより悪魔的に美しく際だたせていた。頬はほの白く、瞳は淋しげな夜のようで、ただ唇に塗られた赤い口紅だけが運命の果実のように毒々しく輝いている。そうして服の下に眠る肌もまた、雪のように白く冷ややかなのだろうと誰しもが思った。私はつい店のなかにいる男たちと同じように感嘆のため息をもらしそうになる。
「久しぶりね」
 女は蠱惑的にほほえんで私を見据えた。そのあまりの恐ろしさにテーブルの下では膝に乗せられた両手がふるりと震えたが、私はあくまで無表情を徹する。厨房と繋がる出入り口を一瞥し、落胆しながら、
「あなたたちが図書館を壊してくれたおかげで、読む本が減って困っています」
「ずいぶん昔のことを持ちだしてくるのね」
 女はつまらなそうに頬杖をついた。
「期待はしていなかったけれど、あなたってやっぱり理屈っぽくて暗い子だわ。そう、絶望の影をいつまでも背負っているみたいに」
「そんなの、嫌味だわ……」
 思わず情けない声が口からもれて、歯噛みしたい気分になった。眉をしかめて目を伏せた私へ、無情にも女はふたたび話しかけてくる。
「安心して。逃げたあなたに今更だれも興味はないわ。好きになさいな」口調は慈しみ深く優しいのに、声はどこまでも冷淡だ。
「しているわ。好きしています。いつでも」
「あら、じゃあ、セントラルを離れないのはどうして?」
「…………」
「不器用ね」
 女が首をかしいでくすくす笑った。けれど黒い瞳は鋭いまま、こちらを制している。「わかっているのでしょうけれど」そう前置きして、
「じきここは地獄になるわ。と言っても、あなたには関係のないことかしら。なにか目論んでいるのかもしれないけれど、いまのうちに逃げたほうが賢明だと思うわよ」
「私なんかがなにをするって言うの」
「いやらしいほどになんでも知っているじゃない」
「暇なだけよ」
 逃れるように首を横に振った私の瞳を数秒覗きこんで、やがて女は席を立った。と、甘いかおりが鼻をかすめ、とっさに彼女を仰ぎみた。
「香水をつけているの?」
 そのとき、悠然とはりつけられた表情が虚をつかれたように崩れたのを、私は見逃さなかった。けれど一つまたたけばすでに美しいほほえみが浮かんでいるのだ。女優にでもなれそうなものを。頭の片隅で思っていると、
「恋人ができたの」
 驚くべき言葉にまばたきをした。恋を語った瞳には、しかし情念に囚われる者らしき炎などすこしも揺れていないのではないか。はて。まじまじと顎を引く私を、女は奇妙な目つきで睨んだ。
「お父様の邪魔だけはしないでちょうだい」
 それだけ言い捨ていよいよきびすを返そうとする。あっと思ったときにはすでに、形のいい尻へ声をかけていた。
「あなた、じき死にますよ」
 女は笑みを深めるだけだった。
 遠ざかっていく背中をじっと見送る。扉が開いたとき、忘れていた陽射しが食堂のなかへ遠慮がちに射しこんだ。外の賑わいが一瞬だけ耳に届く。車のエンジン音がうるさく響いて去っていった。目を細めた先で、女の姿が白い光に掻き消えた。テーブルには私が注文した皿が無骨に置かれていた。

          ≡

 お父様。
 とは、その名のとおり父である。
 フラスコでうまれた、淋しがりな、黒い彼らの父である。
 東の聖地でうまれ、アメストリスにてすべての王とならんと欲した。長い長い歳月だった。この国を建て、地下に脈々と巨大な錬成陣を描き、地上を手にいれ、そうして神こそを手中に収めようとした。人間よりも人間らしい愚かなお父様。真理によってふたたびフラスコのなかへ閉じこめられた、七人の子どもの愛すべき小人。
 罪には罰を。
 罪、には、罰、を……。

 ところで、彼の大きな野望は二人の子供によって見事打ち砕かれたのだったが、それはここで特筆すべきことでもないだろう。
 英雄譚など放っておいても語り継がれるものである。

          ≡

 セントラルに佇む、カフェーのテラス席。私はそこで紅茶を飲んでいた。肌寒くなってきたこの頃、秋色のカーディガンを羽織り、手にはやはり古びた文庫本を持っていた。給仕は今日も飽きることなくほほえみながらテーブル間の往復をくりかえしている。客がすくないのは少し離れた場所に洒落た店ができたからだろう。なるほど、きれいに磨きあげられたテーブルもチェアも、よく見れば使いこまれた跡が浮かぶ。
 視線を戻しページをめくろうとした瞬間、紙の上に影が落ちた。眼下で半透明な人の形がゆらりと揺れる。
「やあ」
 と、若々しい声が耳に届いた。私はゆっくり顔をあげた。金色の双眸と目があうと、持ち主が照れたようにはにかんで、ふたたび「やあ」と言って首を傾けた。短い金髪がひとまたたきのあいだ風に持ちあがった。
「アルフォンスくん」
 名前を呼ぶと、彼は歯を見せて笑った。少年と青年の中間のような、そんな笑みだった。形のいい唇を開いて、
「そう。僕だ」
「驚いた」
「とてもそんな風には見えないけどね」
「いつセントラルに」
 尋ねる声に、うなずきながら椅子を引き、
「つい先日さ。お世話になった人たちにあいさつをしに」
「お兄さんは」
「別行動。兄さんももう子供じゃないからね」
「相変わらず」
 通りすぎる給仕に飲み物と軽食を頼んで、彼は薄いコートを脱いだ。整えて椅子の背にかける。さっぱりとした清潔感があって、温かみの漂う色味の服装は彼の人柄をよく表していた。私は滑らかにこなされる一連の動作を見守ってから、
「人間のあなたもハンサムだったのね」
 彼は少しだけ意外そうな顔をして、私の顔をじっと見た。一度、かすかに息をもらしたかと思うと、すぐに誇らしげに胸を張った。
「だろ」
 コーヒーとサンドウィッチがやってくる。
 興奮に頬を赤らめて、瞳を輝かせながらそれらを眺める青年を、私もしげしげと観察する。「君が食べているのを見て、ずっと食べたかったんだ」と、ささやいて、長く美しい指を伸ばした。
 鎧を拠りどころとしていた、かつての心優しき少年。アルフォンス・エルリック。淑女のようにサンドウィッチを咀嚼する彼へ、乾いた陽の光が祝福を送る。
 彼は、精悍な青年になってこの世界に帰ってきたのだ。
 彼は体を取りもどした。彼らは真理に勝利した。私はその事実を意外に思いながら、鼓動の高鳴りも正しく認めている。
「おいしいですか」
「おいしいよ。とても」
 私はあごを引いてうなずいた。テーブルに放られていた文庫に手探りでいきつく。いつのまにかページはめくれ裏表紙が所在なさげに肩をすくめていた。手にとってぱらぱらと目を通していく。けれどなかなか文字を処理できず、思考が浮遊していることに気づく。ふいに、ささやき声が耳朶を打った。
「実を言うと、」目の前の青年は目を伏せている。「僕はさよならを言わなかった。だから、会えると思ってたんだ」
「ロマンチストですね」
 ついほほえみを作って応えた。彼が顔をあげる。若々しさに輝く瞳が糾弾するようにじっとみつめてくる。
「どうしてここに」
「お気に入りの場所だから」
「もう来ないと。顔を覚えられたから」
「そうだったかしら」
 と、紅茶を傾ける。彼の視線は未だこちらにそそがれたままで、テーブルの上には湯気をくゆらせるコーヒーと、歯形のついたサンドウィッチが行儀よく待機している。
 私は指先でカーディガンの襟元をなでた。一番目のボタンを外し、また掛け、そのつるりと陶器じみた手触りをしばし感じた。
「……あなたの言葉を借りると、あいさつをしにきたのよ。待っていたの。ここで」
 すると彼が口を開き、唇を噛んだ。一瞬、迷うように睫毛を震わせると、
「古い文献を読んだんだ」
 そうして白くなった唇から懐かしい名の数々を紡いでいく。
「エンヴィー。ラスト。グラトニー。グリード。ラース。プライド。それから、スロウス」
 私は黙したきりだ。彼は続ける。
「それが罪の根源とされる七つの欲望だと書かれていた。だけど七つじゃない。かつては八つあったんだ。バニティーとメランコリー。やがてそれぞれは既存の罪に吸収された。虚飾は傲慢に、憂鬱は怠惰に。そうして新たに嫉妬が加えられて、現代の様式をとっている……」
 そこで一呼吸置くと、確認するようにこちらを一瞥した。どうぞ、と瞳で先を促す。彼は唇をちらりと舐める。
「君は……」
 けれどその瞬間、心臓を撃たれた人のように表情をゆがめた。かすかなうめき声がして、
「どうしてなんだい。君は、はじめて会ったときからちっとも歳を取っていない」
 やっとのことでそう訴えると、彼はコーヒーカップをいっきに傾けた。磨きあげられたテーブルを一滴さえ汚すことなくコーヒーは飲み干された。私はやはりただそれを見ているだけだ。間違いなどない。その言葉こそがすべてなのだ。
 彼を眼前に思考は遠のいていく。代わるように、いつもそばに寄り添う感覚がふいに主張を増した。時が刻々と磨耗して手足の先からこぼれ落ちていく感覚が。どうにも親しくはなれない。背筋に氷をあてがわれた気分になるのだ。ようやく口を開いた私は、つい早口になる。
「私は私にさえなれなかった」
 彼がはっと視線を送る。みつめかえして、努めて唇をゆがめてみせた。
「それが自由の果て」
「一緒に行こう」
 言葉尻を噛むように、彼はとつぜんそう言った。手のひらをテーブルに這わせ身を乗りだして、瞳を覗きこんできた。彼に気圧されて私はえっと小さくつぶやくことしかできない。あごを引き、背もたれにぴたりと体を寄せた。彼は言う。
「僕は世界を旅する。たくさんの町へ行って、人と出会って、別れるんだ。そうしてもっともっと学ぶんだ。力になりたいんだ。一人でも多くの人の……そう兄さんと約束した。けれど僕は同じくらい、君を世界中に連れていきたい。きっと退屈とは無縁になる。そう思わないかい」
 語る瞳は酸欠に潤み、金色に輝いている。声は力強く、それでいてこのカフェーに降りそそぐ陽射しのようだった。私はデジャ・ヴに襲われる。思い至ったとき、椅子の背にかけた鞄を漁り、底のほうからようやく四角の箱を取りだした。金属板と硝子とが美しい立方体を形作り、なかに夜を閉じこめている。テーブルの上にそうっと置いた。彼がかすかに息を呑んだ。私たちは過ぎ去った日のことをしばし鮮明に思いだす。興味深げに小箱をみつめた鎧の繊細な指の動きが、この網膜に焼きついている。
 目覚めるように、指先が小さく震えた。それをテーブルの下に隠して握りしめた。彼はさいわい気づかない。私は声を絞りだす。気丈に。
「ありがとう」
 その一言で、彼はすべてを理解したようだった。脱力した顔で寂しくほほえんだ。
 私はゆっくりと椅子から立ちあがった。
 まるでホールにただ一人の観客のように、彼はじっと見守っている。
 眼差しに包まれながら、粛々とワンピースの左右をつまみあげる。左足を引いて、右の脚と交差させ、甲で地面をこつんと叩く。頭をすこしだけ前に傾ける。幕引きの合図。
 私はかつて栄えた子ども。名もなき罪。
 死に至るまでもない病。