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士郎の目が真剣なものだったので、あたしはこれは冗談ではなく、本当の話なんだなと思った。思えば、士郎は冗談も言わないような真面目な人だ。
それは駅前に新しくできた、ものすごくおいしいドーナツ屋さんのドーナツを士郎が買ってきたことから始まった。いや、それよりも前から、たぶん、始まっていたのかもしれない。あたしはそのドーナツを大いに喜び、はしたなく大口をあけて頬張った。おいしいねえ、なんてだらしなく頬を緩め、士郎もそうだな、なんて笑っていたから油断していたのだ。
「好きな人ができたんだ」
ドーナツを手に取って、士郎は「あそこの醤油取って」と言うぐらい簡単に、そう言った。付き合ってから6年が経ち、同棲してから3年が経っていた。なんとなくこのまま、結婚するんだろうなあ、なんて思っていたのに。士郎は何事もなかったかのようにドーナツをかじり、「おいしいな」と呟いた。あたしも「うん」とひとつ相槌をうつ。あんなにおいしかったドーナツが、粘土のように思えた。
「どんな子なの?」
聞きたくないのに、口が勝手に動く。士郎は唸って、あさっての方を向いた。
「目が離せないというか……、俺がついてなきゃ、って思っちゃうような子」
なんだそれ。そんなことを思ったけれど、口にするのは憚られた。あたしも似たようなものだ。できるのに、わざとできないふりをして何度も士郎に助けてもらった。士郎は正義感が強いから、大抵のことは「しょうがないなあ」ってやってくれたのだ。あたしはそこにつけ込み、今に至る。
「それ、絶対計算だよ。士郎騙されてるよ」
「ん〜〜。……でもナマエも同じようなもんだろ」
「……。……そうだけどさあ」
食べかけのドーナツの、口をつけた部分をもぐ。もいだドーナツ片を口に押しこみ、残りを士郎に押しつけた。士郎は不思議そうに首を傾げたけれど、何も言わずに食べかけのドーナツに口をつける。味のしなくなったドーナツを無理やりお茶で流し込んで、空になったコップをテーブルに置いた。ゴン! と重い音が部屋に響く。
「……怒るのも無理はないと思う。勝手だし」
「うん。……あたしは、別れたくない」
大人しく、「うん、そう、分かった」なんて頷けばいいのかもしれない。でもあいにく、そこまで人間がよくできていなかった。手に入れてしまったのだ。そこに執着が生まれてしまった。執着が生まれてしまったら、手放すのは困難だ。さらに、長いとも言える年月を過ごしてしまったら、なおさら。
「ナマエの言い分も分かるよ。……ゆっくり、別々の道に行けたらいいなって考えてる」
「………………」
士郎は、1度こうと決めたら固い。絶対に揺らがないのだ。あたしは、それをよく知っていたはずだった。少しでも情があるなら、揺らいでくれればいいのに。そんなことを思う。無理な話だったとしても。
鼻の奥がツンと痛んだ。それを合図にしたように、じわじわと涙が浮かんでくる。泣きたくなかった。面倒くさい女には、なりたくないのに。
「別れたくない」
「うん。……ごめんな」
士郎の手が伸びてきて、ぼろぼろとこぼれる涙を拭った。やめてよ、なんて言えるはずもない。結局あたしは、最後の最後まで、士郎に甘えっぱなしだった。優しい手つきが憎い。いっそのこと、嫌いになれたらいいのに。嫌なところはたくさんある。でも、それすらも愛おしいと思っていたのだ。
「ばか」
あたし、士郎の好きな女の子になりたい。