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それは要らないものだった。私達が酸素を取り込むように、巨人が人間を見つけては迫ってくるように、太陽が昇れば朝になるように、当たり前にその感情はあった。木が己の枯れた葉を必要がないと落としていくように、オタマジャクシが成長するにつれてその尻尾を無くしてしまうように、私にはその感情が必要ないものだった――勝手に、気づかぬうちに――…消えてしまえばいい。


「兵長、いますか」

扉を三回ノックする。返事が来ない室内には確かに人の気配があって、それが誰のものなのか知っている私は特に気にすることもなく扉を開けた。仕事中かと思いきや、忙しい合間に貴重な休憩を挟んでいたらしい。ソファに座った彼が、ちらりとこちらを見遣った。ぴくりと反応しそうになる肩を隠すように足音を鳴らす。

「リヴァイ兵長。ハンジ分隊長から書類です」
「ああ、そこに置いておけ」
「はい」

リヴァイ兵長はいつも仏頂面――いや、凶悪人の顔をしている。それは本人も分かっているのかいないのか、その顔の造りを存分に発揮しながら厳しい訓練をつけるのだから性質が悪い。まあ、そんなもの、こちらが慣れてしまえばいいのだけれど。

「それじゃ私は失礼します」
「待て」

まるで産まれたての馬の脚みたいな震えた敬礼…あまりに下手だと同期にそう揶揄される敬礼が嫌いだった。身体が硬くって仕様がない。だから私は、いくら目上だろうが雲の上だろうが偉い人にだって敬礼はしない。それじゃあ、怖い上司に目ぇつけられちまうぞ。そう心配そうに忠告する同期の連中は先の壁外調査で半分も生きていない。

「何でしょうか」
「これから時間はあるか…いや、あるだろう」
「ハンジ分隊長の実験の手伝いがあります」
「どうでもいいな」
「そうでしょうか」

凶悪人面の兵長が、少しだけ口元を上げる…それは、微笑んでいると受け取っていいのでしょうか。そう問えば、チッと舌打ちがして身構える。やばい、ちょっと生意気過ぎただろうか。目上の人間にも敬礼をしない私に真っ先に目をつけたのはリヴァイ兵長だ――こりゃ後の訓練でみっちり絞られちゃうかもしれない。溜め息をひとつ、視線をリヴァイ兵長に寄越せばぱちりと目が合った。

「なんでしょうか?
「その口調、やめろ」
「何故です?兵長」
「その敬語が気色悪いんだよ」
「貴方のその悪いお口を直していただけたら」
「チッ、相変わらずだな…お前は」
「そう簡単に人は変われませんよ」
「そのようだな」
「立場はすっかり変わってしまいましたが」

二年振りに再会したように思う。あの頃はリヴァイ兵長も私も互いに対等な立場だった。彼に対して畏まった口調なんて虫唾が走るけれど、けどそれも仕方がない。彼は地下でゴロツキをしていた頃の彼とは違うのだ。その背が重いモノを背負っていくにつれて、自然と失っていくものがある。それは仕方のないことで、私はそれをすんなり受け入れた――彼と私は、昔のように過ちなんて犯せないのだから。

「俺を追い来た…そうだったなら笑えるな」
「馬鹿言わないで。この道を見つけたのは私が先よ」
「戻ったな」
「……戻ってません。私と貴方とじゃもう立場が違いますから」

次期団長から直接スカウトされた貴方と一緒にしないでよね。私は自分でこの道を見つけて飛び込んだのだ。年下ばかりの訓練兵団で辛抱強く三年を耐え、晴れて調査兵団の一員になれたこと数ヶ月。強さには自信があった――ただ、慣れない、否…慣れる気もない敬礼だけが下手なままで、私はきっとあの三年間で何もかもを変えてみせた。口調だって、立ち振る舞いだって、誰がかつて地下街を我が物顔で歩いていたゴロツキと言えよう。

ふと、細められた瞳――その鋭さと、反するように湛えられた柔さに息が詰まる。急激に変化した彼のその様子に、頭のなかで警報が鳴っていた。扉の前に立ったままの私に、座っていたソファから立ち上がったリヴァイが近寄ってきた。

「何もかもを、か」
「………」
「それじゃあ、試してみるか」
「な、あ…っん、!」
「…噛み付くんじゃねえ」

噛み付いてきたのは貴方でしょう。塞がれた唇に、口内へ侵入してくる舌。生温い温度を拒否するように歯で舌を噛めば、引っ込むどころか更に犯してくる。崩れていく身体に、しっかりと支えてくる彼の腕が恨めしい。躍起になっていればそのうち酸素が足りなくなって、震えそうになる足を無理やり動かしてリヴァイの足の甲を踏んでやった。途端に唇が離れていく。互いの唇から厭らしい銀色の糸がひいて、顔を顰めた。こんなに積極的なリヴァイは…久しぶりに見る。


「痛ぇな」
「…ハァ、…っ急に変なことしてくるからでしょ」
「ほう。昔はお前から強請ってきたくせに」
「…っ、うるさい」

セクハラ野郎!そんな幼稚で乱暴な言葉しか並べられない脳味噌にも悪態を吐く。ソファに再び腰を下ろした彼を真似るように舌打ちをひとつ。酸素が足りなくてくらくらする――嗚呼、身体中が心臓になったみたいにどくどくと波打って、紅く染まっているだろう頬を触れば案の定あつくて苛立った。

「むかつく」
「せいぜい悪態でも吐いていろ。勝手に俺の前から消えた罰だとでも思えばいい」
「………ふん」

それは、この男なりの"寂しかった"という意思表示だろうか。その言葉は凶悪面の兵士長様には似合わない言葉だった。

「勝手に消えたも何も、私は貴方のものじゃない」
「………」
「昔も今も」

キスを何度強請っても、何度身体を重ねても、私と彼はひとつにはなれなかった。いくら隣にいようと、腐敗した臭いが漂う荒れた地で生きるには互いが足枷になるのだ。朝日の昇らない、暗い地下から抜け出したとしても。

「そうか」

満足そうに笑う彼に、首を傾ける。どうにも私の言葉が通じていないようで、余裕を含んだその頷きに馬鹿じゃないかと叫びたくなった。馬鹿じゃないの、そんなんじゃいつか死んじゃうよ。折角私という足枷が外れた今を、馬鹿みたいな感情に振り回されて潰してほしくはないのだから。人類最強、そう揶揄される貴方の背負うそれは、足枷が外れたくらいじゃどうにかできるようなものじゃないのだけれど。

「次の壁外調査…巨人に食われないように気をつけろ」
「貴方こそ」

少しくらい、優しくしてみてもいいだろうか。そうふと脳裏に言葉が過り、微かに口元を上げてみせる。そんな私に特に反応を示すわけでもなく、リヴァイは右手を胸元まで上げ、それから人差し指を立てた。

「ひとつ、賭けでもしておくか」
「賭け?」
「次の壁外調査で、誰が死んで誰が生きるか」
「…上等じゃない」
「"お前が死んで俺が生きる"に賭けよう」
「じゃあ、私はその逆で」

きっと賭けに勝つのはリヴァイだ。どうしてか確信があった。確か昔、似たような賭けをしたことがあったな……確かあの時は、私がボコボコに負けて、私を叩きのめしたリヴァイが満足そうに踏ん反り返ってたっけ。あの時の褒美はなんだったか――遠くない過去を思い浮かべれば、嗚呼、何かが緩んでいく感覚。

「俺が勝ったらお前を――」
死んでしまったら意味のない褒美を、彼はせがむ。緩んだ何かに抗えず、私はそれを受け入れる。どうせ叶いもしないのならば、幼稚な賭けに胸を躍らせていたい。

私の人生に、必要のないモノを上げるのならば、彼と彼の感情だ。私へと矛先を向けるその感情を、甘んじて受け入れようとする私の感情を、切り捨てて粉々に砕いてしまいたい。賭けに負けた私が、貴方の隣にずっといたように、互いを足枷に絡み合って解けないように繋がり合うなんて、こんな腐臭の漂う荒れた地じゃ、くるしいだけだ。



木が己の枯れた葉を落とすように、オタマジャクシが成長するにつれて尻尾を失くしてしまうように、私が無骨な振る舞いや口調を排除したように――この感情を根本から排除して、最初から無かったみたいに失くしてしまえればいいのに。