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足音というものは存外、その人間の調子を表す。まあ珍しく、何ならその単純な一言で済ませてしまうのはあまりに言葉足らずだろうと断言出来るくらい珍しく喜びに満ちた若かりし少佐殿の足音は、迷いなく一人の女性へと向かっていく。


「姉さんっ!」


ふわりと、甘えるような子供らしい声色。若かりしと言っても士官学校の卒業は果たしている少佐殿であるから、本人の体から出たこの声は随分と幼い印象を受ける。青年という枠組みに踏み入れたはずの少佐殿がただの少年に戻ったかのような、少佐殿――ジン=キサラギ――の持つ愛らしさというものを有らん限り詰め込んで差し出したかのような、そんな響きだ。


「まあっ、ジン!どうかしたの?」


一方、姉と呼ばれた女もまた、胸に募る愛おしさだけでは足りないと主張するようにたっぷりと熱を込め、振り返る。少佐殿の声が持つ甘さを容易く覆ってしまえるような、他者の耳をなぞれば吐き気すら覚えてしまいそうな甘ったるさを持って。


「別にどうもしないけど、姉さんの姿が見えたから」
「それで声をかけてくれたの?…ああっ、嬉しいわ、ジン。何て可愛くて優しい子なのかしら!」
「大袈裟だよ、姉さん」


まるで馬鹿な恋人同士の会話である。例えばこれが恋人同士の脳のとけた会話であっても鬱陶しいことこの上ないというのに、そこに付加されるのは姉と弟という関係。異常性も合わさって、何とも酷い有り様ではないか。極めつけに、大袈裟だと宣ったはずのジンは冷徹と囁かれる能面をこれでもかと和らげ微笑んでいるのだから、ゾッとする。


「ジンが姉さんを想ってくれるのは嬉しいのだけど、仕事は平気なの?ヴァーミリオン少尉が慌てているのを見たわよ?」
「ああ、それは僕の案件じゃないから。ハザマ大尉の用事らしくてね」
「そう。ハザマ大尉がヴァーミリオン少尉に…」
「……姉さん」


囁くように漏れた姉の声に実に不満そうに眉を寄せた少佐殿は、これまた甘えるように姉の袖を引く。
こんな声を出しながら、元来嫉妬深く独占欲の強い子供の胸に宿っているのは悪臭のする感情だ。そして、一見愛らしくも思える行動を甘受する姉は、強烈な悪臭を放つ情にさえその顔を蕩けさせ悦ぶのである。

弟の、ジン=キサラギの欲を一途に向けられているとして、これ以上の幸せは存在しないとでも言いたげに。


「ジン?」
「姉さん。姉さんは、僕のことが好き?」
「当たり前じゃない!何よりも誰よりも、あなたを一番愛しているわ、ジン」
「……うんっ」


姉の言葉は正しくもあり、間違いでもある。何よりも誰よりも一番愛している。確かにそうなのだが、彼女は少佐殿以外に興味がないのだ。彼女の世界の中心は少佐殿であり、それ以外を思考の範疇に入れる気など微塵もない。少佐殿の愛が自分に向けられていれば、それだけで正しい世界なのだから。


「そうだ姉さん!僕これから休憩なんだけど、一緒にご飯に行けたりする?」
「二人で?…ああっ、本当に可愛いジン!そうね、構わな――…」
「ちょっと中尉、勝手に休憩にしないでくださいよ」


そう声を張り会話に割って入れば、場の空気が一瞬にして凍りついたような心地を味わうこととなった。先程までの幼い愛らしさに溢れた表情はどこへやら、少佐殿の瞳は鋭く、氷のように冷たい。


「――ハザマ大尉。貴様がヴァーミリオン少尉に用だと言うから、僕は退出する羽目になったんだが?」
「ああ、その節はどうも。用事は終わりましたので…ま、少佐もお姉様とお話が出来たようで、よかったんじゃないですか?」
「…貴様が軽々しく姉などと口にするな」
「これは失礼」


へらりと笑ってみれば酷いもので、返されたのは舌打ちだ。

さてこのように、姉の世界の中心は少佐殿であるが少佐殿の世界の中心もまた姉なのである。多少の例外はいるとは言え、姉以外のものはゴミと同義なのか(事実、その部下がゴミだ障害だと呼ばれるのを何度も目に、耳にした)とても誉められた態度ではない。まず間違いなく、人間という認識で接してはいないのだろう。


「で、申し訳ないのですが。中尉にはまだ片付けなければならない仕事がありまして…お食事、またの機会にしていただけます?」
「ハザマ大尉、私に言い渡された任は終えたはずですが」
「ちょっとお話が。いいですよね?」
「………」
「えっ。少佐も中尉もそんな怖い顔しないでくださいよ」
「――仕方ない。…姉さん、また後で顔を出しに行ってもいい?」
「勿論よジン。寧ろ、私から会いに行くわ」
「うん。ありがとう、姉さん」


最後に、姉に向けて極上の笑みを浮かべるとそれ以外に関心はないと言いたげに少佐殿は踵を返す。遠ざかる背を何の気なしに見詰めていると、感じる視線。馬鹿にする意味も含め口許を緩めて応じれば、上機嫌など見当たりもしない顔がそこにあった。


「何?」
「虚しくないもんかなァと思いまして」
「は?」
「確定しもしない世界なのに。そもそも、ジン=キサラギの大切な人って貴女じゃないでしょ」
「ここではそうだわ」


ハザマと言葉を交わす姉は不機嫌で、何もそれは今回に限った話ではない。彼女の最上はジン=キサラギ。いつでもどこでも、変わることはないのだ。


「まあそうですけど。イレギュラーな世界が稀に生まれるってだけで、ジン=キサラギの愛するきょうだいはラグナ=ザ=ブラッドエッジだってことは忘れないように。あ、姉ではなく兄だ、ということも」


ラグナ=ザ=ブラッドエッジ。兄。言えば殺意の滲んだ瞳と交差する。

正しい世界の正しい人間関係において、この姉、中尉がジン=キサラギの縁者であることはない。彼の幼馴染みや障害と蔑む少女がそれぞれ秘書官という立場になるように、歪みによって何の関係もない女が姉という繋がりを手に入れるのだ。常から少佐殿に愛を捧げる女に同等の愛が返ってくるのは、捨てるしかない何万と溢れた世界のごく一部なのである。

一人上手なものですねと、そういえばどこでか告げたことがあったような気もするが。


「…ほんっとうに邪魔。ラグナ=ザ=ブラッドエッジって」
「あ?馬鹿言ってんじゃねェよ。アレの感情があるから俺はここにいんの。テメェのおままごとなんざ何万回に一回でも胸焼け起こすわ」
「私はずーっとこの世界にいたいくらい!だって可愛い可愛い私のジンがあんなに可愛い顔で、愛しい声で姉さんと呼んでくれる…こんなに素晴らしいことってないわ。私にとってジンはいつだって最上で最愛だけど、弟のジンにとっても私が最上で最愛なの!」
「そいつはようございましたァ。俺としちゃ、さっさとこんな世界終わってほしいけどな」


姿などとうに見えないはずなのに、女はそこにジン=キサラギが存在していると言いたげに視線を送り溜め息を吐く。女が理から外れた経緯など知らないが、ひょっとするとジン=キサラギを手に入れるために自ら飛び出したのかもしれない。そう思わせる執念を、この女は持っている。


「…ここでなら二人で食事をすることも、出掛けることもおかしくないのに。私がどれだけジンを愛していても、ジンが私を愛していても当たり前。意識さえしてもらえないなんてあんまりだわ」
「ならいっそ憎まれてみれば?殺意の方で執着されるけど、俺みたいに」
「――…」
「何だよ」


愛しいジン=キサラギしか映さぬ瞳が、何がしかの感情の揺らめきをもって色付く。ついに幻覚まで見るようになってしまったのだろうか。憐れというより、それすら当然と思えてしまうのが何とも、だ。


「確かにそれでもジンは私を常に意識して執着してくれる!姉として愛されて、敵として執着される…そうね、それはそれでいいのかも!」
「…あっそ」


幸せなようで何よりです。

言えば女は聞こえていないのか、ただうっとりと目を細め、囁くように、愛しい弟の名を溢すのだった。