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頭のなかはごちゃごちゃだ。
 誰しもがそうなのではないのかもしれないが、少なからず同じ人間といういきものであるのならば変化しやすいものなのではないかと私は思っている。
 それでも私は人より変わりやすい質なのだとされてもしかたない。感化されやすいことも自覚している。私の本質はどこにあるのだろう。なにが正しいのかなにが正しくないのかということがわからない人間というのは家庭環境に恵まれず育った子どもに多いと聞いたことがあるが、私はそうではなかった。ならば私は環境如何関わりなくそういう性質であるというだけなのか。つまり本質がどこにあるのかわからないような本質が私ということになる。生まれもった私の中身。
 確かに、昔はテレビで人が血を流すのを見るのはこわかった。他人が怪我をしているのを見ただけでドキドキしたし、こけて膝を擦りむいたときに血がうっすら滲んだだけでたいして痛くもないのにわんわん泣いたものだった。祖母が信仰心の強い人で、神様は悪いことをしたら見ていて罰を与えると聞かされていたから、嘘もろくにつかなかったし、毎晩神棚に祈りを捧げた。
 最初はちゃんとこわかった。そうして恐怖が私の正義をかたちづくっていた。けれど恐怖というものは慣れに凌駕されていくものだとやがて知ったとき、ある程度生きた私に残ったのは善悪の区別や道徳心ではなくやはり慣れだったようだ。
 頭のなかがぐるぐるしている。
 輪郭がおぼろで端から崩れていく思考の屑は、鳥のように旋回して同じところを回りながらもやはりその端から変質していく。
 頬を切った風でにわかに我に返る。
 隣に立った女が私を見ていつもの呆れたような辟易したような顔をするのを認識する。一瞥ののち、無関心な声でいわれる。
「また考えごとかい」
 興味もないことをなぜ人はその場しのぎに聞くのだろう。といいつつ私だって興味もないことをその場しのぎに聞くのだ。
「団長は無事かな」
「馬鹿げてる」
 彼女は唾を吐き捨てるようにいった。私をじろりと見てまたそらす。「さっさと撤収するよ」
 彼女の背中についていきながら、高揚している心臓とそれの早い拍動はどちらのものなのだろうかと思う。この現場の状況に興奮しているの。それとも目の前の彼女がかわいいからなの。
「実は」と私は唐突に話をはじめたが彼女は横顔で聞き流しているのだろう。かまわない。「私は蜘蛛にはいるまで人なんて殺したことがなかったよ」私の声は夜に吸い込まれていく。
 別段衝撃的な事実でもないうえに退屈な話題で、彼女はもう一瞥もくれなかった。
「でも、蜘蛛にはいってはじめて人を殺した瞬間から、殺人に抱いていた恐怖はちんけなものだったって気づいたの。慣れちゃったら、何事もたわいないんだねえ……」
 博物館の塀を飛び越えて、無惨に倒れた警備員たちの群れを見下ろしつつ駆ける脚を止めやしない。他人だからよけいに心に響かないのだろう。死体なんかもう玩具にしか見えなかった。悪質な子どものお遊び人形みたいに。
「マチちゃんは、はじめて人を殺したとき、殺す前と変化はあった?」
「くっだらない」
 答えをくれないのは変化があったからなのだろうなと私は勝手に推測した。人間を殺してよくも悪くも変化のない人間などたぶんいないのだろう。だから確かに私の質問はくだらなかった。
「まさかいつもそんなこと考えてんのかい」
「違うよ。いまたまたま思っただけ」
 しかし、人を殺したこともなかったような人間がなぜほぼ殺人集団といって差し支えないような旅団にはいったのか、ということを彼女は聞かない。それも「くっだらない」と思っているに違いない。彼女は微塵も私に興味なんか持ち合わせちゃいないからだ。それは悲しい。
 会話をするのもくだらないと考えたのかそれきり彼女は黙った。話しかけても適当な相槌しか返してくれず、会話は続かないままアジトに着いた。ほどなくして今回盗みに参加したメンバーが全員戻ると、恒例の酒を飲むだけの宴会がはじまって私は早々に退出した。盗みも人殺しも宴会もすべてどうでもいい。途中から入団した私は団員に思いいれのある人間もいないしそれこそ「くっだらな」かった。
 ヒソカという奇怪な男がはいってからは彼がいる限り、マチはパクノダ等とともに団長のそばをなんとなく離れようとしなくなった。だからよけいに退屈で私は自室に逃亡するのだ。
 博物館から個人的に持ち出した壁画の欠片だというどちらかというと絵画より装飾的な土でできたそれを肴に、一人で酒を飲んだ。強化系三人が集まると騒ぎは翌朝までやまないことが多い。それがけっこう騒がしいので酒を飲み終えたらアジトから出て街ですごす。ふらふら歩きながらやっぱり考えるのだ。私ってばなにをしているのだろう。なにがしたいのだろう。パトカーのサイレンが聞こえていた。ウー……ウー…… 赤いライトが夜をあわただしく照らしている。明日の朝にはニュースになっているのだろう。
 二十四時間営業のコンビニエンスストアの駐車場で地元の不良みたいに座ってぼんやりする。パトカーの明かりはさっき私たちがいた博物館のほうに向かっている。ああいや、よくよく考えたら私が高揚していたのはどうにも彼女のために違いないとここらへんで突然気づくのだ。遅効性の毒みたいにじわじわと胸が苦しくなる。昔っから私は意志薄弱で愚図なのだ。コンビニにはいったら板チョコレートを一つ盗賊らしからず金を払って購入して、駐車場で座って齧る。祖父母と両親と姉と弟のいた家で十五まで幸せに育ってある日急に好奇心から家出して犯罪者と出会ってわけもなく憧れて惹かれてついていって気づけば念を覚えていて二十歳になって家に戻ったらみんな死んでいてそれを殺したのは家にあった骨董品を盗みに来たという旅団の彼らで……つまるところそこで出会ったマチのために私は入団したのだ。地獄みたいな屋敷のなかで見た彼女に惹かれたのは好奇心と憧れと本能みたいなもんだったろう。もしかしたら数年後にはこの感情もさっぱり消え去っている可能性だってあるがとにかくいまはこれだ。
 そう、そう。それで最近夢を見る。前に会った人が殺した人間の肉を食べて念を強くするとかで、それの影響に違いないのだが、私はそれにしてもおかしいと思っている。夢で私はたいていどこかわからぬ荒野にいるのだが、目の前にはあの人の死体があって、隣には息も絶え絶えの彼女がいて、……、…………
 目の前に奇妙なかたちの鞜があらわれ、見上げたらヒソカだった。私はチョコレートを齧る途中で怪訝な顔をした。思考を中断せざるをえなくなって、無意識に不機嫌になる。
「キミ、チョコ好きなのかい」
 神出鬼没のうえに藪から棒だと思った。互いに関心もないことをわかりきったうえでするのは無意味な質問だとおそらく彼のほうもわかっているのにうわべというのはどうしてこうもコミュニケーションや交渉において面倒なほど必要なのだろう。
「お酒よりはね」
「ふうん」
 彼は会いにきたにもかかわらず、退屈そうにトランプをいじりはじめた。わざわざアジトから出て私に会いにきたのはなにかしら用があってに違いないというのに、話し出す気配はなかった。
「まだみんな騒いでる?」
「ああ。彼ら案外無邪気だねえ」
「無邪気っていうか」
「ていうか?」
「……食べる?」だしぬけにチョコレートを差し出したらヒソカは「いらない」と断った。
「脈絡がないよね」
「よくいわれる」
 次から次からいろんなことを考えるけれど、どれも纏まりもしなければ解決もしないまま流れていく。解決しようとしても、すぐに厭きてやめてしまうのだ。
「なにしに来たの」
 本題にふれると彼はぷつりと黙った。にやけた顔で勝手に愉しそうに何事かを考えている素振りだ。彼の頬のペイントを交互に見つめてなぜピエロでいたがるのか私は考える。彼についてなにも知らないに等しいながらもこうもさまざまな憶測をこちら側に与える彼の個性は目が痛いほどだ。そういえば、彼は私と似たような感じで旅団にはいったはずだと思い出した。彼は団長に関心を抱いている。それはもう周囲に隠すこともない熱い視線でわかるので、間違えようがなかった。
「団長のこと?」
「おや、わかるかい」
「わかるよう。だってほかにないじゃん……」
 にわかに厭な予感がしだしたけれど、同時に期待もしていた。なぜ私は期待しているのだろう。今度はそれを頭の隅で考えはじめる。彼の趣味の悪い笑顔は好きじゃあないが、最初からそれになにか希望を見いだしていた私がいた。きっと彼が戦闘狂で異常性癖のピエロであって、団長のために入団したからだったのだといま理解する。なるほどと私は内心で納得した。「ヒソカってほんと、団長、好きだよね」鬱屈とした笑みが溢れた。吐息が糸を引くように空気になじんでいく。
「取り引きしないかい」
 サイレンの音が不思議と艶かしく耳に響いていた。赤々としたあの光はチープで馬鹿らしいというのに人々はあれに怯え頼るのだ。そんなふうに私は他人に頼っている。私という人間が曖昧である以上、確立された他人という存在の人間は意外にもときに頼もしい。むろん責任のなさも価値を付与しているのだろう。
 チョコレートを持っていた指先の熱でそのあたりだけ溶け出していた。残りを口に放って溶けたチョコに汚れた指を舌でなめて、チョコの甘さと皮膚のしょっぱさにげんなりする。胸は緊迫と期待で混乱していた。無理もない無理もない。私はそういう人間だ。すぐに期待する。すぐに諦める。すぐにいやけがさす。すぐに落胆する。突飛なものに憧れて、周りにいやというほど感化されて、そのわりに溶け込めずに右往左往して魚みたいに狭い水槽をひらひら泳ぐのが唯一の能だ。
 自己嫌悪すらはかない。
「いいよ」
 答えは確信していたのだろうに、ヒソカは目を軽く見開いてみせた。
「意外だな。本気かい」
「いいよ。だってどうせ、どうだっていいし。要は利害の一致だよね」
「そういうことになるのかな」
「なるよ。ちゃんとヒソカがやってくれるんなら……」
 彼は気狂いな目をひん曲げて微笑んだ。問題ないって顔だけど、信用だけはできない顔だった。ああ、夢にも見そう。
 起きぬけの私は抜群に機嫌が悪い。覚醒しないままの脳を引きずってベッドから上体をしかなたく起こして床に降り立ったら、ぐらりとからだがバランスを崩して揺らいだ。困惑しつつ部屋の壁に釘で打ちつけられた鏡を見た。ぼさぼさの頭髪に色の悪い顔が写った。なにがどうなってこうなったのか思い出そうとする気力もなくてトイレに駆け込んだ。便器に盛大に嘔吐して、それだけで体力をすべて削り取られたような気分になりつつ洗面所で顔を洗う。部屋に戻ったらベッドの上にヒソカが寝ていて頓狂な声が出た。自分を見下ろしたら下は下着をつけていたが上は裸で、ヒソカもたぶんシーツに隠れているがそんな感じなのだろう。酩酊するほど酒は飲んだこともないはずなのに、きのうはどうにもそうらしい。が、驚いているのもなんだかふいに馬鹿馬鹿しくなって髪をくしゃくしゃ掻いて終わりにした。ひとまずテーブルに脱ぎ散らかしたセーターをそのまま着て、「おはよう」といってみる。「おはよう」とヒソカにのんびり返されて非現実を感じる。「キミずいぶん魘されてたよ」なにも覚えちゃいないが彼の夢でも見ていたに違いなかった。他人事でのたまう彼に殺意どころか感動を覚えて「したの?」と頬の引き攣りを隠さないで聞いた。「でもキミ途中で寝ちゃったんだよ。だから」そういって私の下半身を見るので、さすがにそこまで痴女じゃない。私はとっさにセーターを引っ張ってパンツを隠してみた……が、あまり意味もなさそうだ。つまり、だから下を穿いたままだということだ。安堵するにはするが、途中までした実感もなくて気分は奇妙だった。悲しくもないが、当然嬉しくもない。
「ごめんね」わけもなく謝罪しておく。ヒソカのほうはそれで収まったのだろうかと聞きたいところだが聞きたくないという矛盾した気持ちに口を塞ぐ。
「気にしなくていいよ」
 紳士的態度になぜか閉口したくなった。 しかし彼は突如立ち上がると素っ裸で近寄ってくるので思わず顔を青くして部屋の隅に飛び退いたら、「キミって失礼だよねえ」とあのにやけた顔でいう。浴室に消えた。
 見渡すとプライベートホテルだった。そういうことをする場所なのだから、酔っていたのか知らないが私もそういう気でヒソカとここにはいったのだろうか。奇天烈すぎてにわかには信じがたいが、事実は事実だ。
「ところで」
 ぼけっとしているとすぐに浴室から出てきた彼がにゅっと入り口から顔を覗かせたのでまた飛び退く。「キミゆうべのこと覚えてるかい」
「覚えてない」
 彼はわざとらしく肩をすくめた。私だってそうしたい。
「どうするって話だよ。キミのほうにはちょっとデメリットもあるだろう」
「ああ……」
 漠然と話を理解した。でもこの適当な頭は深く考えるのを嫌って「まあいい」という回答をいつも導き出す。
「いいよ。どっちに転ぼうが、私には……まあ問題ない……」
「そう。じゃ、いいね」
「うん……」
 彼が浴室に引っ込んで今度こそシャワーの音を立てはじめると、もう一度鏡を見て、私は耳の下にキスマークがあるのを目にして今世紀最大の大発見をした考古学者かなにかのように仰天した。当惑なんて生易しいものでない。優に一分はそれを眺めたあと……、…………
 どうでもよくなって、服を着た。金を払うかどうか悩んでから、払わないことにしてヒソカを置いてホテルを出た。おそらく洒落た(といっていいのかどうか)彼のつけていたのだろう香水のにおいに微妙な気分にさせられながら街を歩き、アジトに戻った頃には昼だった。メンバーの数人がゆうべ宴会をしていた広間で寝ていて、団長たちはいなかった。
 マチもいなくなっていた。自室に行くときのうの壁画の欠片がベッドで佇んでいたのでそれを拾って外に捨てた。街に出て博物館に見学に行くと警官が配備されておりそこはすでに厳重に封鎖されていた。マスコミと野次馬でごった返す博物館前広場で店で買ったフライドトルティーヤを朝食に、しばらく傍観していた。まるで無関係で煩雑な人混みというものの妙な安心感と浮わついた感じは癖になるのだった。無理もない無理もない。私はそういう人間だ。
 帰る必要はないけれどなにも考えずにいたら気づくと日暮れにはアジトに帰っていて、そこには盗みに参加したメンバーがヒソカを除いて揃っていた。「おまえきのうどこ行ってたんだよ。酒残ってるぞ酒」と陽気に、しかし私にすれば押しつけがましく巨漢が話しかけてくるのを笑って流す。彼らは思いがけずに気さくで愉快な連中だが私には正味合わない。辟易しながらも自室に行こうとしたところを引き止められたので渋々つき合うことになる。
 椅子にもたれながらつまらない会話にまじっていたらやたら視線を感じてそちらを見た。団長がじっと黒い目玉で私を遠慮もせずに見つめていて椅子の背もたれにかけていた腕がずり落ちそうになった。明らかになにか意図のある目差しなのに、彼は目が合うと軽く微笑んでみせた。そして何事もなかったかのようにそらす。「……」彼は私なんかが逆立ちしたってかなわない賢い男だ。しかも頭だけじゃない。彼が目をそらしたあとも彼のほうを見たままいたら、ノブナガが目敏くも私の耳の下の痕に気づいて指摘する。
「おいおいきのうはお楽しみだったってか」
「あっ、なんだそりゃあ……オレたちと飲む酒より男を取ったってのか!?」
 まだ酔っ払っているのだろうかと思うほど大声でわめく。少し離れて見ていたシャルナークも珍しく興味ありげに私を見るので、気持ち悪くなって矢も盾もたまらず私は席を立った。
「見たぞ」
 響いた声は静かなのに騒がしいなかでもすんなりと耳にはいってきた。「えっ?」私は思わず振り返って立ち止まっていた。急激にその場が静まり返るのだ。
「ヒソカとおまえがそういう仲だったとは思わなかったな」
 この男がこの場でその発言をするとは到底思えなかったのに彼はした。瞬時場は騒然となって、私は呆然とした。賢明な彼がする発言には思えなかったがさっきの視線といい見透かされているようでぞっとした。
「冗談さ。たまたま一緒にいただけだろ?」
 しかし団長はそういうと、おかしそうに笑った。私も笑顔だけは得意で、あははと愚直な笑い声で応えた。
 その後部屋にいるとマチが訪ねてきた。前触れのない訪問に戸惑いつつもかすかに高揚していたのはしかたないだろう。
「あんた、本気かい」
 本気なのか、という意味の質問。私は二十年強生きてきたなかでしばしばその質問をされる。そんなに私は冗談っぽいだろうか。あるいは、本気なのかと問わなければ不安になるほど愚かしく見えるか。ああ、だけど、少しの自覚があった。私も私に問いたいものだ。おまえ、本気か?
「なにが。マチちゃん」
「アイツといたのアタシも見たよ」
「ああ……」
 もうその話はよそう。でも他人って面倒なことに突っかかるものだ。
「心配をしてくれてるの。それとも危惧してるの」
「後者に決まってるだろ」
 部屋の入り口から彼女は一歩もなかにはいろうとせずいった。蜘蛛にはいって三年は経つだろうか……私のようなふらふらした人間はいつだってこの立ち位置だ。けれども当たり前だ。
「焼きもちなんかじゃないんだね」
 睨まれる。彼女の大きくてつり上がった目の奇麗なこと。たまらなく。
「嘘だよ。ヒソカはさあ……変な人だね。マチちゃんの話をしてたんだよ。私も彼も、あなたに興味があるから」
 嘘じゃない。彼女は最高に最悪だという顔をした。清々しい彼女のキツさが私はまれに見るもので好きだ。こんなにきっぱりした女はいない。
「あのね」
 私は息を詰めた。
「なんだい」彼女が不審げに見る。
 私はなにもいえなかった。寝起きみたいな鬱屈とした気持ちに吐き気がまざる。
 あわててトイレに駆け込むと、彼女は殊勝にもついてくるのだった。ついてこなくていい。私たちは仲間じゃないんだ。私のような愚図は、唐突に自己嫌悪に陥る。自己批判を繰り返す。望んだものが手にはいると、突然手のひらを返したように、要らないいらないとわめくのだ。捨てようとして捨てきれないのだ。
「もったいないよ……」
 ぽとりと呟くと、胃液のにおいにしかめた顔で、鏡越しに彼女と目が合った。彼女は単純に心配とどうでもよさをまぜた顔でいて、その小さすぎるが私には多大すぎるやさしさに泣けた。本当にもったいない。
「もったいないって、なにがだい」
「……今日、食べたもの」
 彼女は呆れた顔で私を見た。

 空漠とした荒野だった。風は土と緑のまじったにおいで髪を掻きまぜてはパサパサにしていくので私は始終顔をしかめずにはおれなかった。
 太陽がいやに眩しく、青い空さえ眩む鮮烈な日差しが私の前方で燦然としていた。意味もなく私は太陽のほうばかりを見ていて、眩暈がしそうなのにたえながらなにかを待っていた。なにか。なにか。なにか。いったいなにを。と、疑問を抱いたところで俄然、巨大な岩がそばにあるのを見た。そこから誰かが出てくるのだ。逆光で影しか見えない。陰になったその人を捉えようと必死になるけれど顔はわからず、長身と逆立った頭髪で「ああ……」と思う。
「キミの望みのものだよ」
 私は見蕩れていた。見えずともヒソカだと理解すると非現実を感じて夢だと認識するのだ。だのに心臓の震えが止まらなかった。
 抜き差しならない感情の波が頭のなかで渦を巻き激しく立っていた。
 逃げ出したい気持ちと、どうしようもない恍惚に緊張していた。私は叫びたい。ありがとう。でもごめん。許して。許さないでいい。救われたい。地獄に堕ちるべきだ。神様。
 彼は腕に抱きかかえていた。どこかの絵画に見たことのあるような場面に思えた。
 腕から荒野の地面に落とされたのはマチだった。死んでいた。気づけば隣には団長がいた。こちらも死んでいた。明らかに殺されていた。
「感謝しよう」
 彼はそんなことをいった。私はそして、大地の彼女に跪くようにして近寄り、歯を立てるのだ……こういうのを、カニバリズムと呼ぶのだっけ……考えてもわからなかった。なにか違う気もしていた。
 目が覚めたら、吐かずにはおれなかった。ベッドを散々に汚した。私は喉から血が出るまで吐き続けた。吐瀉物とともに、私の中身すら吐けてしまえばいいのに。ないようであるようなないような……中身。

 心理学の本を読んだり精神科に通ったりして自分の心を理解してみたところで虚しいのが手にした事実だ。感情の構造や感情が生まれるまでの過程を理解したってそれを操れるようにはなれないのだ。理解は理解のままで操作にも制御にもいたらず我慢とか忍耐とかの強化には貢献されるがそれもまた虚しい。人間は繰り返すのだなと私は他人事のように考えるようにする。あるいは、人類は繰り返されているのだな。でなければ、世界は無限に廻ることで成り立っているのだな。だから私も繰り返すのだ。
 食べかけのパニーニを皿に置いてオレンジジュースを啜っていたら浴室からヒソカが出てきて腰にバスタオルを巻いただけの恰好で、「泣いているのかい」と聞いた。私は泣いていなかったのにそのような質問をされる理由がわからずまの抜けた顔で彼を見た。椅子の上で抱えた骨っぽくて色気のない膝小僧は冷えていた。「なんで」「目が赤いから」そもそも彼がそのようなことを気にかける人間だとは思いもしなかったために私は困惑を隠せなかったのだろう。「泣いてないよ」そしたら彼は興味なさげにあ、そうといって終いだ。やっぱり人は興味のないことをわざわざ聞く。
 私もシャワーを浴びて生産性のない行為に耽ったあとには食べかけのパニーニはパサパサに乾いていてガラスコップの底にはオレンジジュースのオレンジ色がこびりついていた。ベッドの上で悲しみに暮れる。しかし私という人間は倦怠と憂鬱に苛むこのときが愛しかった。都合のよいことも好む私は不自然すぎてかえって自然かもしれないという逆説的なヒソカとの関係も悪くないのだった。「情緒不安定なんだ」私はいいわけのようにいった。急に泣いたからだ。彼は相変わらずにやけた顔をやめないので、普段通りのそれがちっとも哀れっぽくなくって快いようだ。「生理なのかい」「違うよ。ていうかわかってるでしょ」それからすぐに着替えると金だけ置いて「じゃあね」と去っていくそのうしろ姿のおかしいこと。私はプライベートホテルの一室でさめざめと泣く。泣く女を気取る。

 年に一回、多いときには三回、ないときはない。盗みで召集をかけられるのはその程度だった。偶然近くにいたら必ず呼ばれるが互いにどこにいるかわかっていない場合はさがすのが面倒なので連絡を取らないことのほうが多かったりする。たいていシャルナークがそういう役目なので彼のたまの気紛れで厄介だと思われたら無視されるわけだ。私としてはかまわなくて、連絡があろうがなかろうが、必要のない場合にはほとんどアジトには赴かなかった。
 一年以上は団員の誰とも会わずにすごして、さらに一年。もう一年。借りたホテルの一室のキングサイズのベッドで大の字になって寝ていたら、フロントから連絡があった。マチと名乗る女性が会いにきているというので、私は驚いた。急いでフロントへ行くと、会ってすぐ右頬をすごい力で撲られた。べつに油断しちゃいなかったがとっさにガードするのをよしたのは、私のしょうもない罪悪感からだったのだろう。もちろんそこにいた人はみな動きを止め私たちを見た。従業員が駆け寄ってきてマチを取り押さえようとするが無理だ。私は呆然としながら考え続けていた。死ぬまで終わらない問いなのだ。私ってばなにをしてるのだろう。なにがしたいのだろう。
「お客様大丈夫ですか」と床に倒れこんだ私を従業員が手助けしようとするのを無視して立ち上がって、止まらない鼻血にうんざりした。念を制御して無理やり止めたら、怒っている彼女にどうすべきかわからず悩んだ。
「ここじゃまずいよ」
 出たのはそんな言葉だった。
 彼女を連れて外に出ると足早に適当な路地に向かって、しかしそこだって人通りの多い道のそばなので 屋上に上ることにした。彼女はいくらか落ちついたようで、屋上に着くと開口一番「ヒソカの居場所を吐きな」といった。まだわかっていないのだと思うと私はやるせなかった。そしてヒソカは想像以上の働きをしたのだと理解して彼に感謝しなければならないと思った。夢での彼はなぜだか私に感謝していたがあれは私のわけのわからない脳味噌のせいなのだろう。私は感謝される人間じゃあない。
「知らない」
 彼女の殺気が増幅するが、私は冷静だった。おいたがバレた子どものような気持ちで、神様なんかいないのに祈っていた頃のことを思って少しだけ笑いたかった。祖母のおかげで私はいまでも癖で神様に心のなかだけで祈りを捧げることがある。しかし必ず「神様お願いします……」のあとに続くのは利己的な欲望の充足だ。
「力ずくじゃなきゃダメかい」
「本当に知らない……ごめんね、期待にそえなくって」
 私をしばし見つめ続けたあと、彼女もまた冷静になったのか諦めて殺気はそのままに、しかし臨戦態勢を取りやめた。
「ねえなにがあったの」
「本当になにも知らないんだな」
 彼女にとって私は少なからず仲間だったのだと感じて不思議でたまらなかった。私は一度だって仲間だと思ったことなどなかったというのに。むろん、旅団のメンバー全員をだ。彼女のことは好きで、たぶんこれはおかしくたって恋情だが、それでも仲間だと思ったことなどなかったのに。
「団長と連絡がつかない」
 ヒソカが蜘蛛の刺青を虚偽していたことや、団長が念をかけられて厄介な状況にあったことなどについては知っていた。すべてヒソカから聞いていたが、彼女の説明を黙って聞いた。かけられた念を解除したあと無事に合流できたが、その後再び連絡がつかなくなったそうだ。団長と連絡がつかないことなどこれまでもざらにあったが長くて半年ほどで、年に一度程度は誰かと連絡を取り合っていたはずだった。
 私は彼女とともに団長をさがすことになった。私が書いた脚本ということになるのだろうか、だとしたら陳腐がすぎる芝居だった。
「アイツと最後に連絡を取ったのはいつだい」
「一年くらい前……かな」
 一年前に会ったヒソカのことを思い出す。馬鹿みたいに同じベッドのなかでしらけもせずに私は枕に顔をうずめて、彼は隣でただじっとしていた。彼も人間で男で、私も人間で女で、それをいったい確かめ合っていたとでもいえばなんだか全人類を敵にでもまわしそうな気持ちになる。彼がまともに性行為を行うことが可能だというのはいまのいまでも懐疑的だが結局人間なんてそんなもんだ。
 久しぶりに会えたマチの殺気に満ちた横顔の強さに感服したかった。ちゃんとまだ好きだと確かめられたら少しだけ安堵しながらも彼女の見つめるものも変わっていないことに感動と辟易を覚えるのだ。
 団長と連絡がつかなくなったのもちょうど一年ほど前らしい。そういえば最後に会ったヒソカと最後の取り引きをしたのだったっけと思い返す。なにより大切なことのはずなのに覚えているのはメイクを取ったつるりと端正な細目の男の顔がいつも通りにやけていたことだけだった。ともかくたぶん彼は結果を出してこの取り引きはかなりの成功を収めることができたのだ。
 アジトに行くと三年ほど見ていなかった蜘蛛の顔触れが揃っていてみんな一様に私をたいそう警戒と疑惑と殺気のこもった目差しで迎えた。殺気を向けるには早いと思ったがいっそ清々しくて不快ではなかった。最悪に居場所のない空気に味をしめたらやさしい場所になんかいられないのだ。その場しのぎの弁解は私という嘘つきの得意分野としてもよいだろう、功を奏したようで彼らは詰るのをやめた。
 それから一週間が経って私への疑いが晴れた頃にヒソカが連絡を寄越したのだった。
 携帯電話を取ってすぐその後どうと尋ねられた。一年と少しぶりに聞いた彼の声は想像していたよりも明るくはなくて拍子抜けしつつ、私は返答に悩んだ。曖昧な返事を寄越せば果たしてそうという気のない答え。だから私もそっちはどうと聞くのだ。興味なんかないくせに。
「死体は……」
 もしもヒソカから連絡があれば聞こうと思っていたことだった。
「場所を教えてあげるから、好きにしな」
 彼の語尾は甘ったるくも軽薄に私をいつも突き放す。
 教えられた場所に出向いたらそこは大陸の国どうしを繋ぐハイウェイのある荒野で、涼しい風にまじって雨が降っていた。冬のにおいが鼻腔を土の香とともに擽った。私だったら一級の美術品にするのになと思った。死体には彼は興味ないのだからしかたないが、どう見たってその死体は美しかった。存外に奇麗に原型を留めた死体に私はゆるやかに息を吐き出し睫毛に引っかかる細い雨粒の感触に感傷を呼び起こされそうになる。けれども感動はなくて味気のないリアルがまざまざと私の皮膚をなぶっているのだった。虚しさを迎えるにはまだ早いと思うのだがもはや予期していた自分に呆れる。
 携帯電話を開いてマチに連絡をする。折り返しかかってきた電話で団長を見つけたといえば彼女は電話越しでもわかる変化を見せた。もちろん疑念だらけだったようだが二時間ほどして荒野に赴いた彼女の目を突き刺した現実によって彼女は認めるしかない。雨を恨んだ。彼女が泣いているのかどうかまるでわからなかったからだ。
 彼女を慰める役はどんなに気持ちいいのだろう。
 変わり果てたといえるわけがない端正な死体はまだ虫も這っていなくていささか不自然ではあった。それを弔う役目は私ではないのにそこに当然のように私も参加させられて、ただ四六時中恋について考えていた。私という人間の恋。昔読んだ小説のように純真無垢でもなければ昔観たドラマのように熱く高尚でもない。けれど恋と呼びたかった。神様じゃなくてたぶん全人類に謝罪しながら乞うているのだろう。恋と呼ばせてくれ。

「気狂いピエロを観に行こう」たまに彼女と会って彼女にも弱さがあることを知って感激しながら私は呆然と誘う。同じコーヒーや紅茶を飲もう。好きなケーキを食べて映画を観よう。それがサイコスリラーでもスプラッターでもかまわない。冷めるまで観よう。冷めるまでいよう。
 確定された犯人さがしと復讐は実際素敵だ。しかし私ならしない。私はできないだろう。「気狂いピエロ?」ピエロという単語に反応して彼女は眉をひそめて極端にいえば吐きそうな顔をした。
「映画だよ」
 誰が殺されても誰を殺しても思うように私は動けない。私はふぬけだ。彼女のために殺人に加担したという事実で自身を確かめる。あのさ、いまは少しだけそれっぽくいられてる?