「ふぅ……」
眼鏡をかけた少女はパタリと厚いとも薄いともいえないノートパソコンを閉じる。キーボードの音で充満していたこの部屋は、虚しく少女の吐息だけが響き渡っていた。
彼女はゆっくりと机に向けていた身体をベッドの上まで移した。ゆっくり、ゆっくりと。時間の流れにとらわれず、自分の時間を動いているこの少女は何を考えているのだろう。
ボフン。昼に干しておいた布団が少女を包み込む。彼女は胸の上くらいまである髪を背中側に払いながら、まるでパントマイムをするかのように空中に手を伸ばした。
それはまるで、本を読んでいるかのようで。
ペラリ。ペラリとめくるような動作まできめ細やかに。ちらり。ちらりと動かすその動作さえも、読書をしているように見える。
「田中、……太郎さん」
少女は名を呼んだ。
ネットの世界で通じあった話し相手の一人の名を呼んだ。池袋にやって来たと言う人の名を呼んだ。折原臨也の事や、ドタチンという存在の事を聞きまわっていた人の名を呼んだ。
「明日、会うんだ……。彼に………、」
今まで無表情だった彼女は、いつの間にか柔らかい笑みを天井に向けていた。楽しみ。楽しみ。ごく普通の出逢いではないこの出逢い。
「明日。私はどこの席なんだろう。前の方かな、後ろかな。………あ、でもA組じゃない危険性もあるか」
少女は静かに眼鏡を外す。藍色がかっていた彼女の瞳は日本人特有の茶色に変わったのだが、それは気のせいなのだろうか。それはカラーコンタクトか何かだったのだろうか。そして、一瞬のうちに外せるものだろうか。そんな疑問が浮かんでしまうだろう。だが、本人は気にしていない。
気づいていないとも言うのが本当の事なのだが。
「だけど、気をつけなきゃ。田中太郎さんの周りに近づきすぎたら私までもが余計なことに巻き込まれちゃう」
特に、折原臨也!指を真上に向けたまま、言う少女は折原臨也の何を知っているのだろう。噂程度のものだろうか。それとも、実物を見たことがあるだろうか。
この池袋の地に生まれ、早十五年。
私が折原臨也という存在を視界に入れたのは義務教育七年目の夏だった。
あの時は、陸上部に入ってごく普通に夜の七時まで足をならすことから走ることまでをこなし、それまたごく普通に人気の余りあるとは思えない電柱すら少ない細い道を通っていた。呑気に音楽を聴きながら歩いていた私は案の定、人に体当たりをしたことから視界に入れてしまったのだ。ニッコリと微笑む黒髪の青年を。
「やぁ、俺に何か用?」
だなんて言い出す彼に何と返してやれば普通の対応なのだろうか。あ、あれか。イヤホンをしてるからとかなんだとか理由をつけて無視をしてあげるとか。いや、なんだかそんなことをしたら危ない気がする。
「あー……、」
私は思い付いた。この前にクラスメイトから借りて読んだ本も確かこんなシチュエーションだったはず。
私は微笑んだ。ぎこちないが、彼に負けないくらいニッコリと。
「ナ、ナンパかな?」
「あの時の私に帰れるなら帰ってやりたい!何が…、ナンパかな?よ。この言葉のせいで思いっきり目をつけられちゃったんだから!」
少女はベッドの上で叫ぶように声を荒げた。ギシギシと揺れ動く可哀想に見えるベッドに八つ当たりをしている彼女は、何を思い、何を考え、何を口にしているのか。
それは本人にしか分からない話なのである。
───後に落ち着きを取り戻した彼女は部屋の電気を消してもうすぐ来る明日へと進む準備を整えた。
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