オキクルミは困惑した。目の前の女に、どう言葉を投げてやればいいのか分からない。なんとなく、仮面で覆われている頬を指先でかく。

「ナマエ。俺は、お前になにかしたのか?」
「……なにもしていないです」

 オキクルミはもう一度「ナマエ」と呼んだ。ナマエはそっぽを向いたままだった。何も言わないまま、寒さで赤くなった鼻を襟巻きに埋めた。
 表情が読めない。なんだか拒否をされたようで、オキクルミは一層戸惑う。宿の外に呼び出してから、ずっとこうだ。無視を決め込まれている。
 このような態度を取られたことは、生まれて初めてだ。大抵、何かを拒絶するときにはどこが悪いだの、ただ漠然と嫌いだのと口にするものだが、このナマエという女は沈黙を守る。落ち着かないのか、ナマエは腰に携えた刀の柄を縁取るように撫でた。その指先は、鼻と同じように寒さで赤くなり、わずかに痙攣していた。


 ナマエと会ったのは、これで六回目である。
 最初は旅人である彼女がこのカムイに訪れた時だ。カムイと神州平原をつなぐ洞窟の周囲にうろつくナマエにオキクルミが声をかけたのだ。
 不審な輩だと最初は思っていたのだが、絵巻を片手にきょろきょろとする人間―加えて剣を携えているオキクルミが近寄れば、逃げずに気軽に声をかけてくる程度の無防備さを有している―をある意味放って置けなかったのだ(後で聞いたが、自分が彼女の持つ絵巻に出ていたらしい)。
 まず、ナマエはウエペケレまでの道さえ分かっていなかった。村の入り口まで送ってやるつもりが、「滞在の許可を取れるように仲介してやる」とこじつけて、サマイクルの元まで送ってやったのを覚えている。実際には、あの狭い村の中でさえ迷いそうで、不安だったのだが。

 二回目は、偶然だった。村に用事があったオキクルミが、その道中で、ナマエを見かけたのだ。自分の身長よりも高く、厚い岩をナマエが一閃した姿に、たまらず声をかけた。切り口が美しいだけではなかった。無防備で、頼りなさそうな女の横顔が刀を握った瞬間に武人然としたものとなり、強く心惹かれるものがあったのだ。
 聞けば、剣技に関しては幼い頃から武術道場を開いている祖父に叩き込まれていたらしい。本人曰く、「護身術程度」のものらしいが、おかしいとオキクルミは思った。

 三、四回目はろくな防寒をせずに鼻をすすっていたナマエを見かねて、オキクルミが襟巻きやらの防寒着を届けてやった。そしてその後に、礼として家の手伝いをしにナマエからオキクルミの小屋に転がり込んできた。「恩は返しますから」と頼んでもないのに薪割りを始めた時に、彼女の強引さを知った。
 二人きりの空間は嫌でも退屈である。だが二人だからこそ、話がより深められた。自然とお互いの故郷やら、経歴やら、好物やらを知った。そのまま四日ほど居座られたときにようやく宿へと追い返すことに成功した。
 ナマエと居る空間は悪い気はしなかったが、周囲の目がどうしても気になったからだ。狭い村だから、噂が回るのが早い。妙な話が出てきたら、お互い都合が悪いと思ったのだ。

 オキクルミからナマエの元を訪れたので五回目だ。戦士として、ナマエの剣技に興味があった。ちょうど宿にいたナマエに「一戦交えないか」と誘ったのだ。

「私には、できません。私が学んだのは、せいぜい護身程度のもので、襲ってくる相手をいなして逃げることを目的としています。これが、戦士の貴方の期待には沿えるなんて、思えません」
「護身術というのは、岩を斬れるほどの技術を要求するのか?」
「それは……私に教え込んだおじいちゃんのせいで……」

 ナマエ自体乗り気ではなかったようだが、家事の手伝いよりも此方が嬉しいとオキクルミが言えば不承不承といった様子で引き受けた。
 結果から言えば、オキクルミに軍配が上がった。カムイがナマエにとって不慣れな地であったのもあるだろうが、それよりもナマエの剣筋が引き気味だったのが原因だろう。ナマエは、対人の経験がないようだった。オキクルミの刃をただひたすらいなすだけで、攻撃に転じることができていなかった。


 そして六回目だ。今回も、オキクルミからナマエの元に訪れた。単純に経験のないナマエに剣戟を持ちかけたことに対する謝罪をしに来たのだ。
 しかし当のナマエはこの調子で、やはり、不快な気持ちにさせていたのだろうか、と不安ばかりが募っていく。

「オキクルミさんが、」
「俺が?」

 ナマエがようやく口火を切った。布越しに聞こえる湿った言葉を、聞き逃すまいとオキクルミは耳をそばだてる。

「オキクルミさんが、もう、私のとこに来ないかと思って…」

 ナマエの呟きに「は?」と間抜けな声を出る。どうしてそんなこと、と尋ねる前にナマエは続けた。

「昨日、私が呆気なく負けてしまったから、オキクルミさんに、手応えがない剣士って、失望されたかなって」
「お前は、元より剣士ではなくて旅人だろう。此処に来たのだって、腕試しではないはずだ」

 「絵巻に沿って旅をするのが目的なんです。たぶん、此処が終着点」と囲炉裏で温まりつつ、自分に話したことを、オキクルミは覚えている。

「そ、だけど」

 ナマエは手の甲を擦る。寒さか、不安定な気持ちによるものか、あるいは両方なのかもしれない。指先の痙攣は止まっていなかった。鼻柱が赤い原因も、同じものなのだろう。
 その上ずった声にオキクルミは胸が締め付けられる。罪悪感だろうか。この気持ちは。

「お前は、刀は振るえるが、その剣先に向けていたのは、恐らく妖怪(けむらむ)か、木石だったのだろう。人に向けるのには慣れていないようだった。無理に誘った俺が悪い」

 精一杯、言葉を慎重に選んだつもりだった。オキクルミはナマエの様子を伺えば、わずかに緊張が解れているような気がする。

「…何故、俺が失望してると思った」

 ナマエの発言を思い出して、手っ取り早く核に触れることにした。そう、ナマエの勘違いだ。どうして自分に負けた程度で、彼女はそこまで思ったのか。
 そもそも、オキクルミはナマエに負ける気は無かった。自分の方が場数を踏んでいると確信していたし、誘った時だって、気兼ねないように頼んだつもりだった。
 それに、自分たちは、数日を共に過ごした仲である。刃を交えずに育んだそれは、勝負の勝敗で簡単に裂けるようなものでもないはずだ。少なくともオキクルミはそう思っている。

「だって」と、ナマエは、おそるおそるとオキクルミを指差した。「ソレのせいでオキクルミさんの気持ちがよくわからないんです。私が負けてから、ずっと、怒っているように見えて、……っ」

 言い切る前に「ひっく」と小さくナマエの嗚咽を漏らした。
 オキクルミは、ナマエに差された“ソレ”ーもとい仮面に、思わず手を滑らせる。青い毛並みの狼を模した仮面。狼とは、オキクルミの守護神であり、眷属でもある。
 人の姿でいるときは、自らの守護神を象った仮面で顔を覆うというのがオイナ族の習わしだ。その守護神は、自分たちの生活の営みを支えてくれるという。実際には信仰心を守るというより、防寒の目的が強いのかもしれないが。
 ともかく、それに則って、オキクルミ以外のオイナ族も老若男女問わず、みんなつけている。オイナ族をオイナ族たらしめるもの、と言ってもいい。

「……コレ、か」

 あまりの意外さに全身に走っていた緊張感が緩みかけた。
 オキクルミは、感情が表に出にくい性質であるものの、カイポクなどの身内なら雰囲気で感情の機微を掴める。この獣をかたどった仮面のせいで、意思疎通の不備を感じることはなかった。
 だが、部外者であるナマエはどうだろうか。無機質な眼差しを宿す仮面越しに、果たしてオキクルミの真意は汲み取れるのか。
 むしろナマエなりに汲み取ろうとした結果、オキクルミから不穏なものを感じ取り、勘違いが生じたのではないのか。
 オキクルミは背筋を伸ばして、ナマエを仮面越しに見据えた。

「ナマエ」

 努めて、声色を柔らかくしてみる。変に低い声を出さないようにしているせいか、裏返った。恐らくこの声を聞いたら、自分を知っている者みんなに笑われるだろうな、と自嘲する。

「怒っているようにみえたのならば、それは勘違いだ。さっきも言ったが、俺はお前に悪いことをしたと思っていたのだから」

 ナマエは無言で続きを促した。

「それに、俺がお前に挑んだのは単純にお前が岩を斬っている姿に惹かれたからだ」
「…ひかれた?」

 ナマエは反芻するように口元でつぶやいた。ナマエを取り巻く悲哀に満ちた空気が薄くなっていく。
 オキクルミは手ごたえを感じつつ、「ああ」と首肯した。嘘ではない。剣技にも興味あるが、自分から声をかけるきっかけとなったその横顔を眺めていたいと思ったのは本心だ。

「鬼神の如き、というと大袈裟かもしれないが、お前は刀を抜くと豹変する。その顔をもっと見たくて、つい勝負を持ちかけた。勝敗は、気にならないし、どんな結果でも、俺からお前に対する感情は悪い方に向くことはない」

 ナマエの表情を伺えば、彼女は意外そうに目を丸くさせつつ、口元を僅かに歪ませた。

「それ、おじいちゃん譲りなんです」と、視線を足元に落とす。ナマエがどう受け取ったか分からないが、先ほどのように薄暗い顔ではないように見えた。

「周りの人から、何かを斬り倒す時の私が近寄りがたいって言われちゃうから、あんまり好きじゃなかったけど、オキクルミさんがそういうのなら、その……嬉しいかも」

 襟巻きで埋めていた顔を上げ、ナマエはオキクルミを見据えた。無防備に顔を綻ばせる顔に、じんわりと胸の奥が温かくなる。
 指先の痙攣は止まっているようだった。オキクルミはそっとナマエの目の前に足を進めた。

「オキクルミさん?」

 ナマエが、急にオキクルミに近づかれて、思わず一歩後退すれば、それよりも広い歩幅でオキクルミは一歩進んだ。お互いの息遣いが耳をくすぐる。二人の隙間が、腕を伸ばすとすぐに相手に触れられるほどの距離にまで詰まった。
 不思議そうにオキクルミを見上げるナマエは白い息を吐く。鼻から耳に至る顔の皮膚が、寒さで赤らんだままである。目の中には溢れそうなほど涙は溜まっていたせいで、痛々しく見えた。襟巻きを整えてやってから、オキクルミは手甲で目の端を軽く拭った。

「今度からは、出来る限り気をつけよう」
「すみません、私が変な勘違いをしてしまったから……」
「いや、いい。……それとな、ナマエ」

 先ほど、ナマエから無視を決め込まれていた時、自分の家に居た時のナマエの顔が、オキクルミの脳裏に浮かんでいた。
 自分の國と、師である祖父の話をする楽しげなナマエの表情。あの幸せそうなその顔をもう一度見たいと思った。「嬉しいかも」とようやくその無防備な笑顔を見せてくれた時に、オキクルミはひどく安心感を覚えた。
 反面、そっぽを向かれたり、悲しそうな表情を見せられると、予想以上に動揺してしまった。自分の単純さを自覚して、内心苦笑する。

「俺は、結構お前に弱いらしい」 
「……それって、どういうことですか?」
「うん?わからなかったか」

 オキクルミはナマエの頭に手を置き、撫でてやる。陶器に触れるかのような、慎重で、優しい手つきだった。

「俺が惹かれるのは刀を持ったお前だけではないと言ったのだ」

「へ」と声を上げて、意味を理解した彼女の頬は一層赤みを増した。

  

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