屋敷の主人である胡蝶は任務でおらず、蝶屋敷に押し入った宇髓を止められる者は居ないといっても過言ではない。玄関で彼を出迎えたか弱い童女らは、制止する前に宇髄の風貌に萎縮して、蜘蛛の子を散らすように逃げ去ろうとした。
 宇髄が一人の首根っこを捕まえてしまえば少女の悲鳴が耳をつんざかせた。持ち上げられた彼女はたまらず抱えていたたらいを手放した。そのまま重力に従いたらいは木張りの廊下に落ちて、がこん、と廊下中に剣呑な音を響かせた。ぼろぼろと中から血の滲んだ包帯が溢れ落ちていく。
 背後から連続する不穏な音に、逃げ出さんとしていた二人の足は半ば脅迫めいた連帯感にがんじがらめにされた。少女たちはおそるおそるといった様子で字髓を振り返る。威嚇しているのか、怒っているのか、目はつり上げていたが、向こうの宇髄が据わった眼差しで打てば次第に端から涙が滲み始めた。
 自分たちが一体何をしたのか。何が目的なのか。考え出すと突然現れた侵略者からの理不尽な対応への困惑は、次第に恐怖に塗り変えられていく。
 宇髄は言った。
「ナマエって女、此処にいるよな?」

 にわか雨のように起こった狂騒は、当人の一言であっさりと晴れた。


 宇髄とナマエは上司と部下といった間柄である。階級が離れている二人は、鬼殺の任務が被ることはそうないものの、会えば字髓の視線は勝手に彼女を追っていた。見ないという方がおかしいだろう。彼女から漂う外つ国の土の匂いに、毎回自分が異国に迷い込んだのではないかと錯覚させられるのだ。
 目鼻立ちがはっきりとした面持ちに、処女雪のように透き通った肌。一度、宇髄が任務とは関係のない話題を振ってみれば前髪の下で見開かれた青の眼差しが輝かせて、すっかり彼に懐いていたのだ。見た目のせいで声をかけられることがそうなかったという彼女は、適当な一言でもひどく嬉しかったらしい。
 しかし宇髄は磨き上がった原石を邪険にはしなかった。自分を慕ってくる姿はなかなかどうして、可愛げがあるのだ。継子にするつもりはないものの、任務がかぶれば手を貸し、剣術の指南を求められれば相手をしてやった。もっとも呼吸法が異なる宇髄が教えてやれるのは、鬼を相手にしていかにして生き延びるかだとか、そう多くはないのだが。
 だからこそ、今日鎹鴉から届けられたナマエからの手紙は意外なものだった。他人行儀な長々とした挨拶から始まり「もう宇髄さんのところには参りません」なんてことを綴ってあったその手紙を見たときの衝撃たるや、言葉にしようもない。速やかにナマエの鎹鴉を締め上げる勢いで居場所を吐き出させ、冒頭に至る。


 個室に通された宇髄の目に入ったのは、部屋の真ん中に敷かれている、不自然に盛り上がっている布団だった。すぐに得心した宇髄が、「ナマエ」と声をかけると薄手の布の中で何かが震えた。彼女なりに息を潜めているようだが、その隠れ方はあんまりじゃないのか、と宇髄は内心呆れた。
「なんだよあの手紙」
「中身のとおりです」
 布越しからナマエは言葉を紡いだ。宇髄が知っているナマエの像とは懸け離れた、覇気がすっかり削がれた響きだった。それ以上は何も語る気は無いらしく、数度質問を投げてもナマエは無言を貫いた。
 このまま応酬していても無駄か。そう悟った宇髄は肩をすくめて、聞こえるようにため息をつく。「よォし、分かった」と、さも帰ろうとする態で扉に手をかけた。
「帰るわ。顔も見たくないってぐらい嫌われてるみたいだし」
「そういうわけっ……!」
 噛み付くような勢いで、ナマエが声を張り上げる。最後まで言い終える前に言葉を息で飲み込み、布団で隠れたまま、ひっそりと宇髄から距離を取ろうと下がっていく。その様子に、宇髄はにんまりと口角を上げた。ついに尻尾を出したこの女、どう料理してやろうか。わざと足音を立てて近寄ると、やはり向こうへ行こうとナマエは動く。宇髄が立てる音に急かされたせるようにナマエは立ち上がりかけた。
「敵前では背中を見せるなって言わなかったか」
 宇髄は揺らいでできた隙間から覗いた足首を掴みとり、そのまま中身を引きずりだした。弾みでナマエは畳に突っ伏すように倒れこんだ。
「やっ……!」
 悲鳴帯びた声と共にナマエは起き上がるとすぐに懐から取り出した手ぬぐいを顔に押し付けて、宇髄に背中を向ける。引きずり出されてなおも隠れるように頭を伏せて、帰って、となおもぼさついた髪を揺らして、宇髄を拒絶する言葉を口にする。

「嫌いなら涙でよれてた手紙なんざ送ってこないよな」
 断定するような物言いに、わかりやすくナマエの肩が跳ねた。ナマエはやはり何も言い返さず、二人の間に静寂が広がった。しかしナマエが頑なに守る無言の中には、痛いところつかれた、というものがあるのを宇髄は確信していた。
 嘘をつき通せない、いじらしくて可愛い奴。

 そのまま顔を覆うナマエの手を取った。宇髄はようやくナマエの指先の震えに気がついたが、そのままとっくに力が入っていない腕を下ろさせる。口をつぐんだまま、目を合わせようとはしないナマエの顎をすくい上げた。
 ナマエの嫣然とした顔ばせは見る影もない。ナマエの顔には抉るようにつけられた線が何本も入っていた。ナマエが鬼との交戦で負ったものであるのは明白で、よくよくみていけば足にも数本傷が走っている。白くなめらかな肌に隆起する赤い裂傷は痛ましい。宇髄の指先がナマエの顔をなぞった。頬に走る亀裂を、汗の滲んだ額を、顔の傷が引きつるせいで歪む口唇を。憂いの色を呈する青い眼差しに、宇髄は言った。
「綺麗じゃねえか」
「きれい?」
 戸惑ったようにナマエはその言葉を反芻している。字髓はナマエの腰に腕をまわし、そのまま引き寄せた。聞き逃させはしないと耳元で再び囁いた。ナマエの顔が羞恥で徐々に赤らんでいく。ナマエは、瞼をきつく閉じ、こらえきれないとばかりに頬にぽろぽろと涙が流した。
「好きです、好きです、宇髄さん。嫌いじゃないんですよお……」
 嗚咽交じりに繕われていない好意の言葉を告げるナマエに字髓は「知ってる」とだけ言い、顔を寄せた。

  

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