「師範、その子供は誰ですか?」
 彼女は抑揚なく尋ねた。その平坦な調子に、善逸の肩はびくりと跳ねた。“その子供”というのが自分であるということはわかっていた。ただ、見た目通りの無機質な物言いに、少なくとも自分が歓迎されているような雰囲気がつかめなかったのだ。
 彼女の目の前に立つ、師範と呼ばれた老夫は腕にすがるようにしがみつく善逸の肩を軽く叩いた。
「今日からお前の弟弟子になる、我妻善逸だ」
 仲良くしてやれ、と捧げるように前に押しやられ、善逸はたたらを踏んだ。存外この師範は力加減を知らない。知ってたけどさ。
 くそう、と恨めしげに彼を一瞥してから、顔を上げた。冷ややかな眼差しと目が合い、心臓を掴まれたかのような、ピリリとした火花が胸元に走る。黒い前髪の下から冷や汗がにじみ出てきた。
 どくどくと耳に入る拍動は正常だ。そう、普通に彼女の心臓は動いている。ただ、声の調子が妙に落ち着いてて、怖い。
「弟弟子、」
 能面のような表情をした彼女の緩やかな鼓動が一瞬だけ乱れて、動揺をみせた。しかし、「わかりました」と淡々と返して、凍りついた湖のような静かな眼差しを再び善逸にやった。「ミョウジナマエ」と言った。それが彼女の名前らしい。
 顔は良いが、どこか鬱蒼とした空気を漂わせる彼女には、鬼殺隊の真っ黒な襟詰めがひどく似合っていると善逸は思った。


****

 師範曰く、ナマエは弟子の中では一番鬼狩りの素質があったという。兄弟子と同じ時期に弟子入りして、彼が四つめの型を習得したころにはナマエにすでに教えることが無くなっていたとも。現在は鬼殺隊として各地を点々と移動しているらしい。
 時折、近況を報告しに直接師範のもとにやってきていた。鎹鴉に手紙でも持たせればいいのに、と兄弟子はナマエの姿を見かけるたびに煩わしそうに言っていた。実際には、師範は彼女を歓迎していたし、その日の夕飯はちょっとだけ豪華になったり、彼女は決まって善逸に土産をあたえてくれる(饅頭が好きだと言えば、その次は饅頭を箱ごとくれた)。
 加えて師善逸が避けていた修行の時間も短縮されるため、自分としてはもっと来ても良いのにと善逸は思っていた。自分よりもはやく熟達した彼女を疎んでいる兄弟子の手前で言えないが。
「善逸」
 夕餉の時間に、不意に名前を呼ばれてどきりとした。ナマエは顔が良い。本来の善逸ならばそのような人間から名前を呼ばれることは非常に喜ばしい事態なのだが、彼女の前だとどうにも調子が出ない。胸元がつっかえるような緊張感に、息苦しさを覚える。
「修行の調子はどう」
「そ、それは……」
 −毎日ビービー泣きながら修行から逃げてます
 と、正直に言うわけにも行かない。言葉少なに、萎んでいく善逸の隣で、師範は隣から「よくやっている」と言葉を差し込み、ようやく一つ目の型を修得できそうだということを語った。聞いていたナマエは、ふ、と口元を綻ばせた。
「そうですか。善逸、その調子で頑張って。だけど無理をしないように」
 そのまま茶碗を口元で傾けた。白い喉が上下する様を見て、善逸は顔をそらした。
 善逸は、ナマエの言葉に無性に気恥ずかしさを覚えていた。平生彼にかけられていた言葉といえば彼を否定するような言葉が多かったものだから、ここに来て疲弊しきった心にナマエの優しさがよく染みた。
 なんて単純だ、と思いつつ自分を気遣ってくれる彼女の言葉には、想像ができないほど優しい気持ちが込められている気がした。善逸はひっそりと、心から。ナマエが来ることを楽しみにし始めた。


****

 しかし、数週間後にはその楽観的な気持ちは失せていた。むしろ来るなと心のなかで叫んでいた。
 だって、俺、絶対幻滅される。
 善逸はざっくばらんと切ってある金髪をひとつまみして、横目で確認した。
「もう戻らないよなぁ…」
 先日とうとう修行をしたくないと逃げ出した善逸が木の上にまで登ったところ、ぴしゃりと雷に打たれたのだ。その際に、なにがどうなってこうなったかわからないが、すっかり黄色に染まってしまったのだ。
−そして、今も逃げている真っ最中なのだが。
 追いかける師範を振り切り、山中までやってきた善逸は過去の経験からなるべく木には登らないようにして、適当な茂みに座り込んだ。ぜいぜいと肩で呼吸しながら、吹き出る額からの汗を師範と揃いの半纏の裾で拭った。
 ここまで来ることができないだろう、とたかをくくっていた。逃げている後ろで「ご飯抜きだ!」と叫んで走る足を止めた師範の叫びも聞こえたし、ここの入り口まで至る時には誰の足音も聞こえなかった。
 聞こえなかった、はずなのだが。
「ああ、居た」
「へ」
 突然現れた黒い襟詰めの女。ナマエだ。
 善逸の視界を覆うように顔を覗き込ませた彼女に、善逸は一旦間抜けな声を出す。それが姉弟子だと認識するや否や恐怖や焦燥やらのあらゆる気持ちが飽和していき、善逸は勢いよく後ろに下がりながら、汚い甲高い声を上げた。
 その数歩の間合いを一瞬で詰めてくるナマエに、縮れていく喉からがか細い悲鳴しか出てこなかった。いつも通りの真顔のはずだ。しかし迫ってきた彼女は怒っているようにも見えて、善逸は内心、自身の生命の存亡さえも疑った。
「ご、ごめ、ごめんなさい……」
 涙目で、どもりながら謝る善逸は脳裏で己がまな板の上に乗せられたイメージが浮かび上がる。
 ――材料は俺!料理するのはナマエさん!刀持ってるしちょうどいいかもしれない!
「善逸」
 と、視線を合わせるようにナマエは膝をついた。身を引きそうになる衝動を抑えて、善逸はナマエの静かな眼差しを見返した。
「謝罪は私ではなく師範に」
「え、はい」
「うん。じゃあ戻ろう」
「そっ、それだけですか」
「それ以外に何があるの」
「いや、ほら、修行から逃げるなんて情けないとか、ビービー泣いてて恥ずかしいとか」
 ナマエは不思議そうに目を瞬かせた。
「怒って欲しいの」
「怒って欲しくはないんですけど」
 周囲を見回してから、ナマエは善逸の隣に腰を下ろした。
「私は、そういうのが自分でわかってるならいいと思う。それに、辛い方から逃げたくなるのも普通のこと」
 ただ、とナマエは続けた。
「山のなか、人目がつかないところは特に危険が潜んでいる。鬼が活発になる時間帯になったら誰も貴方を助けられない」
 自分はどうやら心配されていたらしいことを理解した善逸は先日のように上手く返答が出来なかった。
「……師範が待っている。帰ろう、善逸」
 その態度をどうとったかは不明だが、ナマエは立ち上がり、そのまま歩き出すので、善逸は置いていかれぬようその背を追いかけた。
 ふわり、と風に乗って血の臭いがした。「ナマエさん」と思わず善逸は後ろから呼びかけた。
「なに」
「あの、ナマエさん、鬼殺帰りですか」
「−うん」振り向きぎわにナマエが微笑んだ。口元は見えなかったが、目尻がわずかに緩んでいた。「お土産持ってきたから、あとで食べようね」
 こふっとわずかに乾いた音が、やけに耳に残った。


****
 ずいぶん間を空けてから再びナマエはやってきた。普段通り手土産を片手に。
 しかし今日はどうも様子が違った。普段なら仲睦まじく談話している彼女と師範が、激しく応酬を繰り出していた。「やめなさい」「やめません。雷鳴に血が震わせるように、私は師範の名を、」「駄目だ、ナマエ」怒鳴り声、−特にナマエの怒鳴り声は初めて聞いた気がする。師範の方が珍しくやけに落ち着いていた。全容は分からなかった。
 と、いうより聞きたくなかったから、家の外に逃げていたのだが、いつのまにか怒声は止んでいた。代わりにひょっこりと扉から姿を現したのはナマエだった。
 ナマエは、善逸の姿を見かけると手を上げてから、小走りで善逸の隣にやってきた。
 土産だと箱を手渡された善逸は、ナマエの顔をおそるおそる確認した。いつも通りの表情のみられない顔つきだ。
「い、いただきます……」
「どうぞ」
 箱の中から丸い包みを一つとった。中身は饅頭。くるくると手元で茶色い皮に覆われた球状のそれを確認してから、遠慮なく頬張った。甘すぎない餡子の味が口内に広がる。
 ナマエは弟弟子の横髪を梳いて、
「髪の色、変わった?」
「今更!」
 間延びした問いに「遅くないですか!?」とやや呆れ気味に返した。弟弟子の明らかな変化に疎すぎるのではないか、とも思った。そもそもあの時切羽詰まって驚嘆の声を上げたのも、彼女に自分が逃げたことを知られたくはなかったことが原因だった気がする。
 経緯を説明すれば、彼女はやはり「そう」と興味なさそうにしていた。幻滅も、好奇の色も滲んでいない。
 密かに安堵していると、「この前はいいわすれたけど」とナマエが切り出した。
「嫌なことから逃げ出すのは、私もよくやってる」
「そうなんですか」
「うん」
 意外だった。会うことが少ないし、こうやって話すのも滅多にないことだが、それでも善逸は彼女が自分と同じように現実から逃避するなど考えにくかった。何が嫌なのかも、何が好きなのかも全く聞いたことがなかった気がする。
「善逸は、師範のこと好き?」
 突然の問いに口に含んでいた饅頭を吹き出しかけた。
「と、突然なんですか」
「なんとなく。それで、どっち?」
「……好きです。じいちゃんは、なんだかんだで俺みたいなのを見捨てないでくれたし」
 率直に言葉にしてしまうと、照れが勝る。落ち着かないまま手元の饅頭の生地に指を食い込ませて、戻すのを繰り返した。
「……ナマエ、さん?」
 返事をせず、こちらを見たまま黙り込む彼女に善逸はどうしたのか尋ねようとした。
 ナマエは、彼の口が開く前にその細い指を善逸の目の下にある隈に沿って滑らせて、そしてそのまま口の端についた餡子をすくいとった。
「隈がまだとれないみたいだけど、どうしたの」
 初めてここに来た時からあったよね、とナマエは言った。
「寝にくくて」
 ぽつりと呟いて、疑問符を浮かべる彼女に分かるように説明した。
「俺、耳が良すぎて、周りの音が入りすぎて熟睡したことないんです。寝ている間とかも、聞こえちゃって……」
 もぞもぞと、落ち着かない様子で羽織の裾をいじっていると、ナマエは表情を動かさないまま、しかし優しい声で言った。

「じゃあ私と寝ようか、善逸」

 善逸は、初めて己の耳を疑った。


****
 現実なのかと未だに信じきれない善逸は、布団の端で縮こまっていた。しかし、体幹に彼女の細腕を回されて、真ん中に寄せられる。彼女の体温が直接くっついてきて、いやでもこれは本当なのだと思い知らされる。
 他人の家にあげられた猫よろしく善逸は、流されるがまま、その単調な鼓動の音に耳を傾けた。
 そういえば、と昼間のことを思い出す。
「じいちゃんと、何喧嘩してたんですか」
「雷柱の推薦が来たの、お館様から。それを受け取るかどうかで揉めて、結局私はこのままみたいなの」
 柱、柱。兄弟子がいつも言っている、善逸にとって馴染みがある言葉だ。嫌な汗が出てきた。
 確か、鬼殺隊の一番上位の階級だったか。
「どうして、柱にならないんですか」
「私、そこまで長く生きれないの。持病がね、悪化してきて」
 いつの間にか彼女は善逸の頭を撫ぜていた。
 ナマエは、胸を潰すように鼻から息をついた。
「私もね、師範のこと、剣士として尊敬してるし、人として好きなの。だけど柱になっておじいちゃんに名声をもたらせないまま終わっちゃうんだ」
 水に濡れたような声で彼女は言った。直感的にナマエの言葉には悲しみ、というよりも悔しさが滲んでいるように思えた。
 ナマエの言い方からして、柱の推薦を断ったのは師範の方なのだろうか。善逸は尋ねていいかすらもわからず、黙り込んだままだった。
「善逸」ナマエは改まって名を呼んだ。「苦痛や死に対して怖がることは普通のこと。私だって怖いし死にたくない。だから前にビービー泣いてて恥ずかしい、だなんて言ってたけど、そんなことない」
 朗朗と聞かせるようにナマエは言った。「私、貴方のことが好きだから、卑下されると悲しい」本心で語っているナマエの言葉と心音。真っ暗な部屋の中で心地のいい空間が形成されていく。しかし、決定的な違和感があった。どうして今それを言うのかという点だ。
 死期が近い人間が過去を振り返って、関わった人間に当てて普段言わないようなことを連ねていくなんて、それって、

「ナマエさん、」

 ――まるで俺に当てた遺書みたいですね

 口にはしなかった言葉に、ひんやりとした空気が胸の内から溢れてくるような錯覚に陥った。心地のいい空間にいるはずなのに泣きたくなった。
「うん。なに」
「何か話してください。たくさん。ナマエさんが寝るまで」
「そういうのって、我儘っていうのよ」
 我儘、という割にはナマエはまんざらでもないようだった。
「俺、耳がいいんで。寝てても、ナマエさんの話なんでも聞けます。それに口は硬い方なんですから、内容は誰にも言いません」
「嬉しいこというのね」ふふ、と喉奥で笑った。「だけど駄目。今日は善逸の日だから」
 とんとんと善逸を撫ぜていた手は幼児をあやすようにナマエは善逸の背を柔らかく叩いていた。手馴れているように思えて、まどろむ中できょうだいはいるのだろうか、それとも鬼殺の時にでも子供をあやしたことでもあるのだろうかなんてどうでもいいことを考え出す。
 心地の良い音の中で、いつしかさざ波のような眠気に攫われて、善逸の思考は緩やかに停止した。


****
 靄がかった意識の中で、けほけほと、口の中に広がる鉄の味に善逸は眉根を寄せた。
 今のは、走馬灯だろうか。
 姉弟子とのちょっとした幸せな記憶だった。人生で、初めて熟睡できた日だったか。あれからまもなく彼女は病死したという。姉弟子には悪いが、自分のことはやっぱり好きになれていないし、恥をさらして生きていると思う。
 だけど。
 板張りの壁に体を預け、沈んでいく意識の中でも雷の呼吸を忘れないようにした。蜘蛛の毒が回りきって死ぬことがないように。生きようと、善逸は努めた。
 ――いま俺が死んだら、本当になにもできないまま終わってしまう。ナマエさんだって、悲しそうな顔で迎えるかもしれない。それは、ちょっと見てみたいけど。

「頑張って」

 完全に意識が落ちる寸前で、口の端に垂れている血を、誰かが拭ってくれた気がした。


  

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