洋館風の建物を目の前にして、私は首をかしげた。その店名も、外観にも見覚えが全くない。ガラス扉の向こうでは小豆色地に矢羽文様の袴を着た少女たちが白いフリルエプロンに施されたフリルを揺らしている。
 気づけば私は扉を押し開けていた。誰に言われたわけでもないのに、入らなければいけないという義務感に背中を押されたのだ。軽やかな鈴の音に出迎えられる。店内のなんともいえない香りに空腹を誘われつつ、私は導かれるままに席に着いた。
 仄暗い店内に蓄音機からは流行りの劇中歌が響く。
 やがて厨房から現れた女給が位置皿と入れ替わりに差し出した、白磁の皿に目を奪われる。均一に焼き色がついているハットケーキが湯気を立てていた。慣れない手つきでバターを乗せて、メイプルシロップをおさめた小さな容器をその上に傾ける。
 私はシロップが染み渡る光景を恍惚として見守っていた。空腹をようやく満たすことが出来る喜びが抑えきれずにいた。
 フォークとナイフで柔らかな生地を押し開く。

「ひぃっ!」
 椅子が倒れるほどの勢いで思わず私は立ち上がった。生地の中からどろりと粘着質な白い液体が出てきたのだ。生臭いそれに、忌避感が脳髄を焼かれるようなほどの勢いで押し寄せてくる。顔から血の気が引いていくのがわかった。
「あ、……あ、あ」
 歌が止んだ。
 かんかんと頭の奥で警鐘が鳴り続けている。
景色が蜃気楼のようにぼやけたかと思うとぐるりと渦巻きながら知っている和室へと変わった。
 甘やかな香りが失せて、焚かれた香の匂いが漂う部屋だった。冷や汗が止まらなくなる。ぶるぶると手足が震えだす。

 と、突然背後から、着物の中に誰かの手が入り込んできて、体が硬直する。咄嗟に振り払うように身をよじっても、あちらこちらの隙間から手が入り込む。
「ごめんなさい!!ゆるして!!」
 気づいたら恐怖で自分の声が震えているのが分かった。小汚い薄手の服に包まれた私は浅ましい男たちの手により畳に組み敷かれていた。「ひ………」
 気持ちが悪い。喉元までせりあがってくる胃液の酸っぱい臭いが鼻の中を通り、息苦しくなってくる。



 やがて視界が暗転していき、体中を這う不快感が引いていた。ふと、誰かに手を握られていることに気がつき、私は目を開けた。ベッドの縁で魘夢様が腰掛けていた。大丈夫?と優しく尋ねられて、張り詰められた緊張感が解ける。涙が溢れてきた。
「魘夢様ぁ……」
 今のは、夢だったのだ。
 魘夢様は鼻をすすりながら泣く私を抱きかかえて、背中をさすってくれる。顔を不意に覗き込まれてどきりとした。魘夢様は汗で張り付いた私の前髪をよけると、まじまじと私の表情を見てから、満足げに頷いた。
「ごめんね」
「いえ、良いんです……」
 謝られて、私は頭を振った。まだ首筋に髪が張り付いて、少し気持ちが悪かった。

 魘夢様は、不思議な力を持っているらしい。人に幸せな夢も、悪夢も見せられるのだという。そして魘夢様は時々、さっきのように私に悪夢を見せるのだ。どうしてそんなことを、と私が聞くと、彼は悪びれもせずに「ナマエの怖がる顔が好きだから」と言った。さっき私の顔を覗き込んでいたのもこのせいだ。相当歪んでいると思うし、寝覚めが悪い。最近目元の隈が濃くなっているし。
 でも、それでも。
「私には、魘夢様しかいませんから……」
 ごしごしと目元を拭いながら私は言った。
 数ヶ月前に、女郎屋に売られかけていた惨めな私を助けてくれたのは彼なのだ。この恩は返しきれないし、私には彼しかいないのだ。孤独を満たしてくれる甘やかな存在は彼しかいないのだ。

 魘夢様は、何も言わなかった。線が細い体つきをしているのに、私を横抱きにしたまま、揺りかごのように体を揺らしていた。
 赤ん坊じゃあないですよ、私。

 甲高い軍歌が閉め切ったカーテンの向こうから聞こえてくる。足並み揃った軍靴の音、行き交う人々の賑やかな声、つんざくような汽笛が静かな部屋に響いた。
 私は、逃げるように魘夢様の肩に顔を埋めた。なんとなしに袖を引けば応えるように肩をぽんぽんと叩かれる。
「今度は幸せな夢を見せてあげるね」魘夢様は口元だけで笑った。
 本当かなあ、と少しばかり疑ってしまう。魘夢様は優しそうな面持ちをしているが結構性悪だ。そう言ってまた悪夢を見せるかもしれない。

 ねんねんころりよ、おころりよ、と魘夢様は朗々とした声で子守唄を歌う。外の喧騒よりも心地が良いそれに、私は耳を傾けた。
 外から流れる生温かい風がカーテンを揺らす光景をぼんやりと眺めながら、わたしは穏やかな眠りへと誘われていく。
「おやすみ、ナマエ」
 悪夢を見せられるなら、それでも良いかもしれない。魘夢様が側にいてくれるのならば。
 頬に線を作った涙が乾ききる前に、わたしは再び夢の中へとおちた。

  

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