背中の衝撃でユリサの意識は急浮上する。ただ、薄い瞼を開くことはできなかった。
 どこかに寝かされたらしいことはわかった。全身を包んでいるのは手術台の硬さではなく、やわらかな感触だ。

「ぁ……」

 何を言おうとしたわけでもない。ただ、何か言いたかった。風が気道を走る音が口から出る。
 口の中が気持ち悪い。喉が乾いている。頭が痛い。腕が動かない。
 聴覚ばかりは何にも遮られていないらしい。多くの人の声が聞こえる。何を言っているのかわからない。私は、大丈夫なの?
 ユリサは不安を煽られるものの、息をするのがやっとだ。
 頭からつま先まで並々と鉛が注がれたかのように重たい。何も考えられない。この、痛いのを、気持ち悪いのを、とにかくどうにかしてほしい。
 腕をすくうように持ち上げられる。ちくりとした、噛みつかれたかのような鋭い痛みが走る。ユリサが身じろぐと、肩を誰かに押さえつけられる。
 そのまま重たい液体が、手首から流れ込む。痙攣を何度かした後、ユリサは再び眠り出した。

 《女神》の遺骸の移植は成功した。
 術後、ユリサは全体的な検査はもちろん、目や腕は特に入念に看られた。何人かの医者に変わるがわる眼球を覗かれ、腕を見られ、様々な機械をもって正常に使えるかをみられた。
 奇跡の行使の確認も、何人かの神官の前で行った。
 腕や目の痛みに気を取られて、ユリサは流されるままの確認作業を行なっていった。

 ーー深夜、自室にて、ユリサは椅子に座ったまま、机上の蝋燭を見つめていた。
 何かをしているわけではない。たったさっき、様々な用事を終えて帰ってきた所だった。テヴィーに手伝われながら、湯浴みをしていたところで体が限界だった。
 初めはテヴィーから直々に授業を受けていたが、今は聖女の体面が整ったため、色んな人と会う機会を設けられていた。
 明日も何かするときいた。なんだっけ。
 ユリサはテヴィーから渡された書き付けをなぞる。字があるのはわかるが、内容が入ってこない。疲れている。
 疲れないわけない。聖女らしい、尊大な振る舞いをするように何度も指摘を受けているが、難しすぎるのだ。
 此処に来てからの友人とも言える、気兼ねない仲になったテヴィーにでさえできていない。
 理由はわかっていた。ユリサは、まだ何も成せていない。何も役に立ってない自分が、そんな振る舞いを許されるわけがないと自分を制するのだ。

「ユリサ」
「……テヴィー?」

 扉越しのこもった声。テヴィーのものだ。先程まで熱心に読み物をしていたユリサに、もう休んでくださいと、眉を吊り上げていたはずだ。
 彼女はユリサの心を第一に考えて、不調を許さない。深夜に起こすなんてめずらしいことがあるものだ。

「すみません。来客です。もうお休みのようでしたら、私が対応いたしますが、どうします?」
「こんな時間に?誰……こほん」

 しまった。誰に聞かれているかもうわからないから日常会話から気をつけろと言われていた。
 ユリサは垂れていた頭をあげ、意識的に背筋を伸ばす。

「わ、わかった。どなただろうか」
「ナマエ・クーアバレス」

 名前を聞いた途端に、ユリサは飛び出ていた。
 テヴィーと対面するように、ナマエが本当に立っていた。抱えるほど、大きな荷物を持っている。
 久しぶりに会えた。張り詰めた緊張糸が解けて、今にも顔が緩みそうになる。ユリサは努めて表情を固くして、駆け寄りたくなる衝動を必死に抑えた。

「ナマエと二人にして。お、お願い。テヴィー」

 許可が降りるかは怪しかった。
 手術前から、ユリサは勝手に行動するたびにテヴィーに諌められている。もはや聖女となった御身は一人のものではない、と。
 しかし、ナマエとは積もる話もあり、どうしても二人きりが良かった。

「ええ。わかりました。隣の部屋で待機しているので、何かあればお知らせください」テヴィーは目礼をする。「ごゆっくり」

 テヴィーはナマエに関しては妙に素直というか、扱いが甘い時があった。とはいえこの提案を受け入れられるのは驚いた。都合がいいので、気にしないことにする。
 ユリサはナマエに向き直った。右腕が少し痺れた。

「ナマエ、その、久しぶりだね」
「えっ」

 ナマエは、ユリサを見るなる何歩か後退りをしていた。無理もない。ユリサは己の身を見た時にもうめきそうになった。
 目と右腕の皮膚を繋がれている様子が生々しいのだ。ナマエも流石に驚いてしまったのだろう。
 ユリサはナマエが胸に抱き寄せた荷物に目をやった。物にしては、妙に薄っぺらい。

「その荷物、私の絵かな?この時間帯に絵を届けに来てくれたんだ。ありがとう」

 ユリサが一歩近づくと、ナマエが全身に電気が走ったかのように大きく強張る。

「ーーセネルヴァ?どうして?」

 硬質な声とともに出てきた名前に、今度はユリサが肩をすくませる。
 ナマエは何も知らないはずだ。何も知らないはずなのに、どうして移植した《女神》の名前が、出て来たのだ。まだ聖女の話は信用のおける、一部の人間しか知らされてないときいていたが。
 ユリサはナマエの呼び方に強い違和感を抱いた。

「すみません。セネルヴァじゃ、ない、そうですよね」

 ナマエは動揺をかき消すように何度か瞬きをした。震える手が、ユリサに荷物を差し出してくる。

「人違いでした。ええと、はい!この絵を納品しに来ました」
「う、うん。ありがとう」

 ユリサはナマエの態度をとりあえず置いて、包みの中身を確認した。
 ちょっと恥ずかしくなるが、聖女になる前の下手くそな笑みをする自分がかかれていた。ただ、ナマエに描いてもらったという事実が、少し誇らしい。

「やっぱりナマエは絵が上手だね」

 ユリサは微笑んだ。
 ナマエはまた、困った顔をしていた。

「私たち、会ったことがありますよね?」
「何を言っているの?何度も会っていたでしょ?忘れたフリ?」

 冗談言っちゃって。
 ユリサは、くすりと笑った後に、自分の顔から表情が抜けていくのがわかった。

「本当に?」

 ナマエの俯くような小さな頷きは、ユリサに大きな衝撃を与えた。考えたくなかった確信を得る。
 ナマエが疑問を口にしてしまったのは、きっと、ユリサの記憶がナマエになくなったからだ。ナマエの煮え切らない言い方は、ユリサの絵があるからだ。
 自分は知らないが、物がある以上は関わりがあるといった根拠のもとでの、疑問。

「前回の任務で、大きな怪我をしてしまったので…記憶に欠落があるみたいなんです。貴方とはたぶん、何度かあっているはず。部屋にたくさん絵があったので…」
「そう、そうなんだ…。大変、だったね…」
「酷い顔していますよ…。私のこと、気にしてくれてるんですか?やさしい人ですね」

 信じられない心地になる。
 ナマエの笑顔は、発言は、やはりいつも通りのものだった。

  ◆

 ナマエを応接間に通した。
 いろんな記憶を失ったナマエを前にして、ユリサは戸惑った。ナマエが自分とのさまざまなやりとりを失ってしまって、まずはショックだった。それに、ナマエはいつものことだと気にしていないのは、それはそれで嫌だった。もっと、惜しむべきだとおもう。
 また、ユリサからすれば、ナマエの振る舞いは初めてあの時とは違っていたのも気になった。
 ナマエは、ユリサに対して明確な気逃れを感じていたのだ。

「美味しいです。このベリーのジュース」
「よかった。ナマエが以前好きだと言ってたの」
「あ、そうだったんですね」

 ナマエは頬を赤らめた。口の端を緩めては、視線を逸らす。以前のユリサなら意図が分からず戸惑っていたが、今ならわかる。ナマエが照れている時の反応だ。

「記憶を無くしても、こうして仲良くしていただけて嬉しいです」
「もちろん。ナマエが仲良くしてくれたから」

 ユリサはナマエの口の端を拭った。

「私は、貴方のことをなんて呼んでましたか?」
「ユリサ」
「ユリサさん……」

 ナマエが舌の上で何度かユリサの名前を転がした。もちろん敬称を付けて。

「ーーあ」

 ユリサは、先程のナマエの発言で強烈な違和感を抱いていた。普段のナマエを知っていれば、持つ一つの疑問。

「ナマエ、セネルヴァ様のことを知っているの?」
「セネルヴァ…、セネルヴァ、様は……」

 ナマエは明らかに《女神》セネルヴァを尊称も敬称もつけないまま、何度か呼び捨てにしていた。ありえないことだった。ナマエは周囲の人間を常に尊敬していた。ユリサにでさえそうしたことはない。
 ナマエにとって特殊な存在がいる気配に、ユリサは胸のざわめきを覚えた。
 答えて欲しかった。ぐっと、ナマエに近寄る。
 ぱちぱち、と乾いた音が耳をくすぐった。何故か右腕や、目が疼く。
 ナマエが、ユリサの手元に視線を落とした。

「もしかして、居るの?セネルヴァ?」

 ナマエがユリサの右腕を握って、引き寄せた。異界の構造体を召喚した時のように、火花が髪や手から弾ける。しかも爆竹のように激しく、熱い。ユリサは眉をひそめた。

「ごめん、ナマエ、すごく痛い」
「あっ、ごめんなさい」

 ナマエがユリサを離す。同時に火花はすっかり収まった。

「ナマエのいう通り、この腕と目は《女神》セネルヴァのもの。でも、これはまだ公には出ていない情報なの。……どうして知っているの」
「昔、昔一度だけ会ったことがあったんです」ナマエはかぶりを振った。何かを振り払うように。「私は……、魔王現象に村を襲われたところを、彼女たちに救われた。そして、将来の約束をしたんです。こんな恐ろしい世界が終わり、平和になった光景を一緒に見よう、と。だから、私は彼女のことを知っています」

 ユリサは急速に喉の渇きを覚えた。ちょっとした焦燥に見舞われているのかもしれない。
 ナマエが真に必要としているのは、セネルヴァなのだろうか。

 ナマエは、ユリサに親しみを持っていた。ユリサもそうだった。何度も交流を経て、それは確信を持てた。同じような年齢で、軍人とは思えない貧弱さだったり、どこか自信を持てなかったり、周りに萎縮してしまったりする自分たち。
 体の修復する際に、記憶が欠落してしまうのは、事前に聞いていたので、頑張って受け入れようと思った。
 ナマエはセネルヴァのことは覚えている。とっくに昔のことなのに、一度だけしか会ってないのに、ナマエはユリサのことを忘れて、彼女のことを覚えている。多分、何度か記憶を無くしているはずなのに、彼女だけは。
 眩暈がした。そのことだけは、どうしても受け入れ切られなかった。
 あの日の。シレンと決別した日の歓声と自分の嘆きの声を思い出す。
 ナマエが、離れてしまう。だって、ナマエは弱い。ナマエはどんどん死んでしまう。たくさん初めましてをやりなおしても、その度にユリサのことを忘れてしまう。

 ーー私はその度に、彼女から必要とされなくなる。セネルヴァという強い存在がいるかぎり。

  

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