神妙な面差しで、テヴィーは言った。

「そろそろ、です。ユリサ」
「そろそろ?」

 聞き返したものの、それが何を指しているのか、わからないはずはなかった。
 すでに何度か医務室で神官から説明を受けていた。それなのに、どうしてこの言葉の続きを待つのが恐ろしいのだろう。
 ユリサは拳をつくり、爪が食い込むほど握り込んだ。震える自分を諌める。

「《女神》の遺骸と繋ぎ合わせる手術を手筈が整いました。明日の朝には神殿に移動して、手術を担当する神官、《女神》と面談をしていただきーー」

 テヴィーの言葉が、どこか人ごとのような、遠くのものに聞こえる。

 ナマエの荷物は少なかった。当然だろう。もう絵に関してはほとんど打ち合わせることはない。最終確認の段階にさしかかっていた。ナマエは見事ユリサの望み通りの絵を描き、あとは色を塗るだけだ。

「ではこの色味で描いていきますね」

 ナマエは頷いて、何か記号のようなものを書きつけた。丁寧に仕舞われる羊皮紙を、ユリサはどこかぼんやりと眺めていた。

「ユリサさん、お疲れ様です。頑張って素敵な絵に仕上げますね」
「あ、う、うん。楽しみ……」

 ユリサは時計を見た。聖女として詰め込むものがありすぎるため、絵に関する時間を今日はあまりとってなかった。もう仕上げるだけだと、テヴィーにも伝わっているのだ。
 終わってしまう。ナマエとの時間、私の大事な時間。

「ナマエ、私は……」
「ユリサさん?」
「私は、明日、そう、大きな手術があるんだ」

 ユリサは腕をさすった。右腕。《女神》セネルヴァの腕が此処に移植される箇所だ。

「とても怖い。どう、この腕や目をーー別のものにする」

 こんな自分でも役に立てるのだと、最初こそ喜んだものだった。だが、不安でたまらない。
 手術自体も恐ろしい。痛くはないのか、腕が再び動くのか、目は見えるようになるのか。それよりも、それよりも。
 ユリサは己を包む恐ろしく深い影の正体を見つめていた。
 己の聖痕で、正常に《女神》の力は扱えるのか?そして、聖女として人々を導いて救うことはできるのか?
 そればかりを考えてしまう。

「別のものって、それは、大丈夫なんですか?」
「大丈夫」

 ユリサは無意識に鎖骨に触れる。黒い痣ーー《調和》の聖痕がある場所だ。この奇跡により、《女神》の遺骸を自分のもののように使える。そのはずだ。何度も説明を受けた。
 ナマエは首を捻って、何か考えるそぶりをした。そして、ユリサの手を取る。彼女にしてはちょっと強引なぐらいの仕草だ。

「じゃあちょっと、気晴らしをしますか?」

 ナマエが指先で首の聖印に触れた。何度か触って、頷いた。

「うん。あんまり遠いところにはいけませんけど。私と逃げちゃいましょう!」

 扉が勢いよく開け放たれる。早足で、力強い足取りはテヴィーのものだ。

「ユリサ?ユリサ様?何処にーー」

 どうにもナマエには悪知恵というか、こう、胆力があるらしい。ユリサは新たな彼女の顔を見た気がした。
 ナマエたちはテヴィーが開け放った扉の裏に居た。立っている訳ではない。画材を運び込んだ時に使った木箱の中に入っていた。
 テヴィーが部屋中を歩き、棚やカーテン、あまつさえ椅子さえもひっくり返し始めた。気迫に押されてしまったのか、ナマエがぐっとユリサの体に近づいてくる。

「ナマエ、もうちょっと、離れて……」

 ユリサは息苦しさから、ため息をこぼした。襟元をくつろげる。お互いに触れ合っている場所があまりにも暑すぎる。

「ユリサさんって、怪我してます?」
「え、どこ?」
「ここ。青あざがあります」
「本当?」

 ナマエに鎖骨のあたりを突かれる。確かに最近は剣や雷杖の扱い方を習っていて、体を動かす機会は多い。だが、昨日の時点で青あざになっているのは確認していない。そんなものがあれば、テヴィーがすぐに治療に取り掛かるだろう。
 鎖骨のあたり。青あざ。ユリサは想像して、思い当たる。きっと、明るいところに出れば顔面は蒼白だっただろう。
 先程まで暑かったのに、冷や汗をかき始めた。悲鳴を上げないだけ、偉いのかもしれない。

「模様みたいですね。刺青?でも精巧で、聖印みたい……、聖印にしては小さい……。人の皮膚に聖印を刻むのは難しい…」

 ナマエの目と、記憶力の良さにここまで追い詰められるとは思わなかった。
 何も思い至らないでほしかった。彼女の価値観がわからない以上、これの正体に気がついた時の反応が推測できない。

「これ、なんですか?」
「それは」

 木箱が大きく振動する。続いて、靴音がだんだんと遠ざかっていく。
 ナマエと顔を見合わせて、二人で注意深く木箱から出てみた。扉が閉められている。なんとか凌いだらしい。

「どうにかなったみたいですね」
「う、うん」
「ユリサさん、さっきのところは怪我じゃないんですね?」
「そう」
「よかった。もしもそうだったらちょっと考えていたところでしたよ」

 クーは力強く言った。他の可能性に行きつかなくてよかった。
 外からはまた忙しなく金属音がした。具足の音であるとユリサには判断できた。他の兵士に伝わったのかもしれない。かなり好き勝手してしまったため、後で怒られてしまうのかもしれない。
 ただ、今はそれを気にしている場合でもなかった。

「たくさん人が動いてる。もしかして、ユリサさんって貴族だったりします?」
「んん、そのあたりは、言えない」
「なるほど。ユリサさん、ほら此処に座りましょ」

 いつの間にか座り込んでいたナマエは、自分の隣を指した。

「どうするつもりなの」
「何も。私はこのままユリサさんの隣にいます」

 ナマエの返答に、ユリサは黙って彼女を見つめてしまう。あれだけどうどうと逃げちゃおうと言ったのに?と思わず聞き返しそうになる。

「ユリサさんは、優しいし、責任感もありますからね。結局、その手術を受けるに決まってます。だから、その覚悟を固めるまで、此処にいます」ナマエは首筋を指した。「それにあまり好き勝手してしまうと、私が次の戦場に行けなくなるので。これで精一杯ってとこですね」

 ナマエの首に刻まれているのは、罪人の証である枷の聖印。そうだ。私は、今更何を忘れていたのだろう。
 ナマエは囚人だ。

「ナマエ、大丈夫?私はその、軍から大事にされている存在で、こうされてしまうと、貴方の立場は悪くなってしまうかも」
「あっ!特に、考えたことなかったですね」ナマエは尊大そうに胸を張った。「私はとっても悪い罪人ですから、もともと懲罰として戦場に向かいます。これ以上良いことをしたって、悪いことしたって、私の生活に変わりはありません」

 人からどう思われようとも、ナマエは何も気にしないらしい。何をしたって、ナマエの生活に変わりがない。ーーつまり、ナマエからすれば褒章すらもない、軍服を着たただのユリサを、どう扱ったって処遇こそ変わらない。
 それなのに、とても丁寧に扱ってくれたのだ。

「もう、この後は任務に行ってるの?」
「そうですね」
「……ナマエ、貴方に聖マハイゼルのご加護がありますように」
「ふふ、なんだか、そういうのって私も軍人さんの仲間になれたという感じがして、嬉しいですね」

 ユリサは初めて、心から祈った。テヴィーが時折他の軍人に言っている姿を真似したが、格好はついただろうか。こんなの、慰めにもならないだろうに、ナマエはやはり嬉しそうだ。
 不安になっている場合ではないのだ。ユリサは改めて強く思う。とにかく、聖女にならなければまず始まらない。
 そして、聖女になってーー聖女のご加護と言われて、自分を想起してもらうぐらいにはならなくては。

  

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