ナマエと顔を付き合わせたのはこれで何度目だろう。ユリサは気づけば数えるのをやめてしまった。
 その頃合いで、ナマエはいくつかの絵をユリサに見せてきた。彼女の筆致は実に精巧で、ユリサはまるで水面で自分の顔を確認している気分になる。
 しかも、どれも表情は自分でも暗い。とても聖女になるような人間には思えなかった。ナマエがわざとそのように描いたわけではない。ユリサは実際にこういう表情をしている人間だ。
 ふと、ユリサは一枚の絵を凝視した。ああ、これは。
 ナマエに笑顔が見たいと頼まれた時のものだろう。頬を動かすだけで無理矢理引き上げた唇が、あまりにも不格好だった。

「その絵がいいですか? 素敵な笑顔ですよね」ナマエが、ユリサの頬の一箇所を突いた。見てなければ突いたという感触があったのかすらも怪しい、弱々しい力。「ここに、えくぼができて、優しい人なんだなーって思えて、私は気に入っています」

 ナマエはにっこりと笑った。ユリサとは違い、表情筋の緊張を全く感じさせないリラックスした笑みだった。

「そ、そう、かな…」

 ユリサはしどろもどろと答えた。面と向かって褒められてしまうと、どう返事をすればいいのかわからなくなってしまう。
 気づけば敬語をやめて、砕けた口調になっているのはナマエが望んだからだ。テヴィーには、彼女の雰囲気に押されて敬語が抜け切れないが、同い年のナマエならまだこの話し方ができた。
 ナマエは何度も会っても、相変わらず自分に敬称をつけて、そのままの話し方で接してくる。やはり懲罰勇者という立場を考えているのだろう。
 変わったところと言えば、苗字で呼ばれることは無くなった。彼女なりに、ユリサと仲良くなるための最大限の譲歩に違いなかった。
 ユリサが一応気に入ったものを指定すると、ナマエはやはりこのユリサさんも良いと、褒めてくれた。

「ええっと、今日はこれで、終わり?」
「まだですよ。これから構図もそうですが、お洋服だったり、装飾物、背景も決めていただきます」

 ナマエがまた真新しい紙を出してくる。ナマエは普段こそ抜けのある動きをするが、絵に関しては手早い。

「なにか希望はありますか?」
「私が全て決めてしまってもいいの?」
「ご要望があれば基本的に沿うようにと言われてます」

 ユリサは眉根を寄せた。特別な出生というわけでもない。服はずっと普通のものだし、装飾物……腕輪や首飾りなんかも縁がない。要望を聞かれても何が良いのかわからない。

「ごめんなさい。服や装飾は何か候補はある?」
「ありますよ!」

 ナマエがカバンから紙束を出してくる。あまりにも紙の枚数が多過ぎて、一瞬雑誌や歴史書でも出したのかと勘違いしそうになった。
 受け取ったものをめくると、軽く色塗りがほどこされている豪奢なドレスや軍服、宝石や真珠がたっぷりついた装飾物が所狭しと描かれていた。見ているだけで目が眩みそうだ……。

「い、一旦これは持って帰ってもいい?テ……、他の人と考えながら決めたい」
「ゆっくり決めてください。最後に背景ですね。神殿や、ユリサさんの故郷にしようかと思っていますが、いかがですか?」

 ナマエが上目遣いで首を傾げた。ユリサはまた困ってしまう。
 無理して故郷のことを思い出そうとしても、少し辛い気持ちになった。

「そう、そうだな。神殿にしてもらおう。王都のものとは違う、木造のものなんだ」
「なるほど」

 ナマエが何枚かまた、その場で描き始めた。線だけで、絵の中に立体的な神殿を建てていく。ユリサの故郷のものと近しいものを選んだ。今日はこれで終わりだ。
 ユリサはそっと時計を覗き見た。まだ、予定の時間よりも前だ。余った時間はナマエと話して潰したい。
 何をしようーーと、ナマエを振り向いて、ユリサは硬直した。
 ナマエがなんというか、意外な表情をしている。眉間に皺が入り、ぐっと目を細めた、何か眩しいものをまえにしたかのような表情。あれじゃない、これじゃない、という唸りからして、どうも何かを思い出しているらしい。

「ど、どうかしたの?」
「いや、あの、私の故郷のものを思い出そうとしてたんです」

 ナマエは首を振った。

「魔王現象に襲われたっていう?それは、その、……辛いね」
「でも、みんな死んでしまった訳ではありませんし、私の家族だって元気にしてます。お気になさらず」

 確かに、ユリサと違ってまだ状況はマシなのかもしれない。だけど、魔王現象はいわゆる災害よりももっと酷い損害を与えているはずだ。どうしてそう、明るい調子で言えるのだろうか。

「うーん、どうも小さい頃だと記憶が薄いですね……」
「そういうもの、だよね」
「私は人の顔でも、景色でも、見たものは忘れないんですけど」ナマエは妙な顔のまま額に指を当てていた。「勇者になってからはどうも忘れっぽいんです」
「忘れっぽい?」
「大きな怪我をした時とかに、修理をする代わりに魂の一部を摩耗してしまうとかで、どうも」

 ナマエの異様な絵の技術はその稀な記憶力に依るらしいと納得をした。しかし、その後の発言が聞き捨てならない。

「記憶喪失になるということ?それは、大変なことでは?」
「そうですね。聖印兵器の組み立て方を全部忘れちゃった時はほんっとうに大変でした」

 ユリサが言いたいのはそれではない。記憶がなくなるということは、人格形成に関わる経験も人間関係も、知識も全て奪われるということではないのか。
 ユリサは自分がそうなったことを考えて、震えた。孤独だった頃はもちろん辛いが、培ったものも、罪だって忘れてしまうのは受け入れ切れない。
 もしかして、魔王現象と出会った頃の記憶も失ってしまっているのだろうか。

「ユリサさんのことも、もしかしてということがあるので、この絵を見て思い出します」
「なるべく、死なないで欲しいんだけど」
「が、がんばります。私は軍人さんたちみたいに強くはないので、難しいかもしれないけど……」

 ナマエは眉を下げた。確かに、難しいのかもしれない。きっと何度か戦場に立った彼女と、ユリサは筋力でそう差はない。むしろ上背のあるユリサのほうが、力がある。足だって早いだろう。
 それでも、ユリサはナマエにはあまり死んでほしくなかった。
 ああ、もっと、真っ当な良心であれば良かったのに。
 ユリサは自分を戒め切れなかった。
 私を求めていた気持ちを、忘れないでほしいと、思って、しまう。よくない。この気持ちは多分、言っちゃいけない。でも、離れてほしくない。
 これは自分の欲望だ。ユリサはナマエを案じている気持ちよりも、自分自身のことを忘れてほしくはない気持ちの方が大きいことを自覚していた。

  

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