「ユリサ、足元に気をつけろよ」
「わ、ぁ、あっ!」
水飛沫が上がる。シレンと川を渡ろうとした際に、ぬるついた石のせいで足先から滑った。
すっかり濡れ鼠と化したユリサに、シレンは吹き出した。
「人に釣りの道具を持たせておいて何してんだ」
「そ、それは、そう…ごめんなさい…」
シレンがユリサに手を差し出す。意図がわからず目を丸くすると、シレンはそのままユリサの手首を掬い上げた。
「あ、あ……」
ありがとうと紡ごうとして口を動かすも、シレンはあっという間に先に行く。ユリサは服の端をできるだけ絞って、彼を追った。
意外にも、ユリサとシレンの交流は続いていた。
ーーユリサと気が合いそうだから、また会いたい。
当初は司祭が気を回して引き合わされた二人。だが、シレンの方からよく時にはそうした指名があったと聞かされた時は驚いたものだった。
理由を尋ねると、ユリサが村と馴染めてなさそうな雰囲気が良かったのだと。どうやら彼は物をはっきりという性格らしいと学んだ。
シレンの言は、彼の来歴から来るものだった。
シレンとその父は、村においては新顔で、肩身が狭い。それだけではない。いろんな村を渡り歩いたって、妙に冷たい扱いを受けるのだと。
家畜の世話を専門としている彼らは冬の間は全く仕事がない。手の空いた農民がやってしまうからだ。そのため彼らは生産性がない存在として、定住することは望まれていない、のだとか。
視線がたびたび痛く、村落を転々とせざるをえない職業らしい。
シレンはそれでも腐らずに、毎日朝早くから仕事に行っている。強い精神力の持ち主だ。
「大物を釣ろう。それなら、ユリサの母ちゃんたちも許してくれるだろ?」
シレンは屈託なく笑った。苦労を感じさせない顔。ユリサは小さく頷いた。
ユリサの服はユリサが全て繕って洗濯もしている。ただ、シレンには両親と隔絶して生きてることは言えなかった。
なぜと聞かれたときのこと想像したからだ。きっと、聖痕のことまで話さなければ、彼は納得しないだろう。そういう性格だ。
ユリサは鎖骨をなぞった。この聖痕……呪いの証の存在を知られるのが、おそろしい。今の関係を壊したくない。
シレンと出会う前の生活を想起する。
朝起きて、陽の光を浴びながら、一人で淡々と畑仕事をして、自分しかいない小屋で一人で勉強して、本のページを捲る音しか聞こえない生活。
孤独に打ちひしがれそうになっても誰も支えてくれない生活。戻りたくはない。
ただ、それだけだった。
「釣りをしたことは?」
「ない、です」
「じゃ、餌をつけるとこからだ」
シレンは得意げに包みを広げた。ユリサが森中にこだまするほど大声を上げたのは、この時が初めてである。
日が傾いた頃、持ってきていたバケツに小ぶりの川魚が二匹いた。二匹で一人前ぐらいの大きさである。
「うぅん、ユリサは三人家族だしなぁ」
「そっ、そもそも、シレンさんが釣ったものですから、シレンさんが持って帰ってください」
「父ちゃんとわけちゃったら食い出がなさそう」
「他の誰かに、あげるとか?」
「あっ」
シレンと一緒に顔を上げた。思いつく人物は一人しかいない。
「気が合うな、俺たち」
「そうですね」
いつも世話になっている司祭にあげよう、と意見が一致した。
司祭はユリサを見るなり驚いていた。
「施しに感謝いたします。ええと、ユリサさんは、濡れたままで大丈夫ですか?」
「あっ」
忘れるぐらいには夢中になってしまっていた。ユリサが思わず後退りすると、シレンはまたおかしそうに肩を揺らしていた。
司祭は少し考えてから、奥にひっこんいく。シレンと少し待っていると、司祭はそれから清潔そうな布を持ってきた。
「これで拭いてください」
「ありがとう、ございます」
シレンが抱えていたバケツを掲げた。
「司祭様、魚はどこに置いておけば良いですか?」
「ではこちらにお願いします」
司祭の案内でシレンが奥に入っていく。ユリサは大慌てで体を拭き始める。
ああ、全く。恥ずかしすぎる。
「あれ?」
知らない声にユリサは体を強張らせる。来客だ。
ユリサは一目見て、来客がシレンの父だと気づいた。
思わず目を逸らして、肩まで縮める。必死に布を頭に手繰り寄せた。しかし、足音が自分に向かっている。
「アンタ、司祭様を知らないか?」
「あ、ああ、ええ、っと、」
目が合う。喉から変な音ばかりが上がってくる。
「……用事で奥に居ま、す。少し待っていれば、い、い、いらっしゃるかと」
「そうか。ところで……」
「あれ、父ちゃん」
シレンが戻ってきた拍子に、父の注目が彼に向く。
ユリサはほっとため息をついた。
「勝手に竿を持ってどこにいってたんだ」
「魚を釣ってたんだよ。司祭様にあげたけど」
「道具を借りるときは一言断れと言っておいただろ」
シレンから釣り道具を受け取ると、シレンの父は片眉をあげた。
「シレン。お前、道具が壊したか?」
「あちゃー」
「ふざけた態度をとらない。道具はもっと丁寧に使えと日頃から言ってるだろう」
シレンが額を軽く小突かれていた。本当に優しい力なのだろう、ちょっと頭が揺れるくらいで済まされている。
「怪我もしている。ちゃんと傷跡は水ですすいだか?」
「うん」
「他に怪我しているところはないか?」
「ないない」
不機嫌そうにしてはいるが、道具を勝手に持ち出したことへの怒りよりも、心配からくるものだったらしいとユリサは今理解する。微笑ましいものだ。
他にも彼が父親にとうとうと説教されている様子だった。ユリサは機をみて神殿からでていった。邪魔してはいけない。それに、応酬をみているうちに、どこか空虚な感覚に陥りかけたからだ。