ユリサの世界はちっぽけなものだった。
 南部にある、特産品すらないただの農村である。
 住居がより集まったように立ち並び、温浴施設、鍛冶屋、酒場といった集落を保つ最低限の施設しかない。
 目を引くものといえば、中心に荘厳に建った神殿ぐらいだろうか。他の住居と同じく木で造られたものだったが、雑然とした村の雰囲気とは一線引くものがあり、ユリサは気に入っている。

 必然的に人口も大したことはない。
 全員が顔見知りという規模だ。良い噂も悪い噂も全員の耳にすぐ届く。
 新しい顔は滅多になかった。強いていえば、義務的に神殿から派遣される神官くらいだろうか。
 自給自足でやっとの思いで生活しているこの小さな村では、商売根性逞しい、あのヴァークル開拓公社の行商さえ寄りつかなかった。

 ユリサが自分の村を他の発展した都市と比べられるのは、なにも彼女が実際に足を運んで確認したわけではない。
 父が授けてくれた何冊かの本のおかげである。
 本は、外の世界をこと細かに教えてくれた。例えば王都の街並みや、可愛い猫が象徴的なお菓子の会社、国一番の神殿の全貌など様々だ。
 素晴らしい架空の世界すらも教えてくれる。
 特に、お気に入りなのはーー……ユリサは、そのお気に入りの本を指先でつるりと撫でた。ユリサの心の支えとも言えるもの。

「もう行かなきゃ」

 寝台から降りて、農具を持ち、家を出る。畑仕事をしなくてはいけない。

 扉を開けると、小鳥のさえずりに声をかけられる。いってらっしゃい、と優しく声をかけてくれる存在はいなかった。
 ユリサは自分の暮らす小屋と少し離れたところにある、住居を見つめる。両親の住む家だ。ユリサが一人で本を読み、料理をして、鍬を振れるようになった頃合いで、両親は自分をこの小屋に住まわせた。
 ユリサは扉や窓から目を離せなかった。彼らの影でもいい、一目見たかった。彼らがどんな表情をして、何をしているのか。それさえ感じられれば、ユリサは幸福になった。
 ただ、声をかける気分にはなれない。かけられる言葉を想像して、胸の中に痛みが走った。

 ーーユリサ。お前は聖痕を絶対に使ってはいけない。

 父は、まるで最悪の犯罪者を前にしたかのように、侮蔑と怒りの感情を込めてユリサを戒めた。母だって、似たことを繰り返しユリサに言い聞かせてきた。最後に言われたのは随分と前だったが、いまだに耳に残っている。
 ユリサは思い出すほどに、頭の中が曇っていく感覚に陥る。不意に巻き上がった風が髪を撫でる。良い匂いがした。野菜スープの匂いだ。

「私も今日はそうしようかな…」

 母の味付けは本当に小さい頃に食べたので、覚えてない。きっと今日も上手いこと再現できずに、料理本の真似をすることになるのだろう。
 それでもいい。同じものを共有したい。ユリサの寂しさを埋めるための、ささやかな行動である。

 川沿いに広がった農地の、最も果てともえる箇所。農地の主がユリサ個人に与えた場所だった。
 春に差し掛かったこの時期は、畝を作り、種蒔きをしなければならない。
 ユリサは荷物を置き、畑に向かうと、おそるおそる指をさす。それからは自然な動きで円を描き、断ち切る動作をした。聖印を切り、《女神》に祈り、豊作を願うものだ。
 自分に与えられた小さな畑が豊作になったところで、何になるのだろうかーーと、思わなくもない。実際のところ、最近仲良くしてくれている司祭がこうしろと言っただけなのだ。

 ユリサが鍬を使っていると時折、草や小石が邪魔になる。周囲に人がいないかを確認すると、目を瞑り、意識を集中する。空想の世界に潜り込んだかのような感覚になる。
 私は、小石、私は雑草。自分がそれらになったかのような、浮遊館に見舞われた。
 ユリサはそれらが畑から逃れるように、動かす。動く。

「……やっぱり、難しいかも」

 ユリサは目を開くと、先ほどの小石が全てほんのちょっとだけ移動しただけにすぎない。それだけでも、脂汗が額に滲んでいた。
 服越しに、鎖骨を端からなぞる。ほとんど無意識の行動だった。
 この場所には、ユリサの聖痕が存在している。

 聖痕。
 生まれつき体にある聖印だ。呪われた人間の証でもあるらしい。恐ろしいことに、そうした子が捨てられる絵本だって読んだことがある。もっと酷いことされた話も読んだ。
 ユリサは本に感謝している。
 おかげでこうして孤独に暮らしてても、どうにか自我を保つことができた。自分は少なくとも、生きてて良いと、実の両親から許されてはいるとわかったのだから。

 ほとんどの作業を終えた頃合いに人の気配を感じて、ユリサは荷物を引っ掴み、森に逃げた。両親から村人との接触は聖痕の使用と同じく固く禁忌とされた。
 それに、遠目に自分を見ていた村人だって、全員が全員嫌そうな顔をしていた。
 きっと生まれた時点で自分の聖痕のことは村中の人間に知られているのかもしれない。物心がついた時点で、その刺々しい視線は多すぎた。

「聖マハイゼル様のご加護がありますように」
「《女神》と司祭、聖女の御名において……」

 様々な祈りの声が聞こえる。人の気配が濃くなる。嫌いではないが、怖い。ユリサの足は自然と早くなる。声が聞こえなくなるところまで、まっすぐと。
 拒絶の言葉も、その素振りだってされたくないものだ。この小さな世界から排斥されてしまっては、自分の存在意義さえわからなくなってしまう。

 ユリサは小屋に戻り、野菜スープを作った。たったそれだけで、不安にまみれていた心は満たされた。

  

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