暖炉の中には炎が満ちていた。母が綺麗に薪を組んでくれたため、時計の長い針が一周したってまだ炎が残っている。
 ナマエはそれの前でうずくまり、時計を確認した今もなお堪能していた。火の熱がナマエの小さな額をなで、あたたかな匂いは眠気を誘ってくる。
 それに、さっき見た夢がとっても素敵だった。また続きが見たい。ナマエはさらに体を丸くさせた。

「ナマエ」

 ナマエの期待を遮ったのは母の声だ。小さな声量で、ナマエが起きているのかを確かめているらしい。
 彼女の存在は、ナマエの鼻をくすぐるふわりと果物やら肉がないまぜになった匂いでよくわかる。
 雪深いこの村で迫る冬を越えるために、祖母と祖父らと保存食作りをしていたのだろう。ーーナマエはまだ小さいから、材料運びしか手伝わせてもらえなかった。拗ねてここで寝たようなものだ。
 思い出すほどに、小さな怒りがちくちくと胸の内を転がっていく。ナマエはこのまま寝たふりをすることを選択した。どうにかして反抗心を見せたかったが、このような形でしか示せない。ナマエは怒った気持ちがぶつかり合うような、言い合いが苦手だった。
 すると、華奢な指先が小鳥の嘴のように頬を突いてくる。

「起きてるでしょう?」

 母の呼気に笑みが含まれている。ナマエのことなんて全てお見通しな彼女は、余裕たっぷりだ。ナマエをみおろしている表情はきっといつも通りの優しい顔をしている。
 ナマエは彼女の思い通りにはなりたくなかった。どうにかしてこの母を驚かしてやろう、とも考えた。しかし、ふたたび指先に頬をついばまれて、たまらず身をよじった。

「んんん!もう!起きるよ!!」
「はい、おはよう」

 寝転がったまま目を開くと、予想通り、母が口にゆるく弧を描いていた。清潔そうな布を持ったまま、ナマエの隣に膝を下ろしてくる。

「灰がかかるから、ここで寝ちゃダメって言ったでしょう」
「良いの」
「ナマエが汚れちゃうじゃない」

 今度はナマエは意地になってもう一度、良いの、と返そうとした。
 その言葉の前に母が丁寧にナマエの頬を布で拭いていった。意地っ張りで開けたナマエの口はどんどん緩んでいく。ふかふかの布はもちろん、ナマエを綺麗にしてくれる母の手はとても心地良かった。
 母に触れられるたびに、先の怒りはどこかに遠いところに転がっていく。初めからそんなものなどなかったかのように。

「ナマエ、寝るならベッドに行くのよ」
「うぅん」

 ナマエは唸った。母が手を止めてしまったからだ。まだ物足りない。
 伏せるように上体を母の膝に預けた。こうすれば、もう少しだけ甘やかしてくれることをナマエだけは知っていた。
 そうしてやはり母は、諦めたようにため息をつくと、ナマエの髪を頂点から毛先まで丁寧に指でとかし始めた。彼女から撫でられるたびに、ぱらぱらと灰が落ちていく。
 灰は全く気にならない。ナマエはただただ、己の予想が当たった満足感と、母の愛情が溢れる手のひらにうっとりとして、瞼をおろした。

「やっぱり……、灰が隠れてる……」
「ナマエの髪、どんどん綺麗になってる?んふふ、灰がぱらぱらーってしてて、おもしろいねー」
「そうね」

 母はナマエを否定せずに、灰をまたぱらぱらと降らせていく。ナマエは気分が良くなり、先ほど見た夢の話をしたくなった。

「私ね、夢見てたんだよ。素敵な夢だったの」
「どんな夢?」

 母は興奮で早口になるナマエを、宥めるようにゆっくりと撫でた。ただし、声色は上がり調子に、ナマエに話を続けるように促す。

「綺麗な外で遊ぶ夢」
「外?綺麗な外って……」

 母の視線が扉に向けられる。この家の外のことかと聞きたいらしい。ナマエは慌てて首を振った。もちろん、秋の色に染まったナマエの村の景色は素晴らしいのだが、そっちではないのだ。
 話す順番を考えるのは、少しむずかしい。でも母は、つややかな瞳でナマエの話の続きを待ってくれていた。

「綺麗。本当に綺麗だったの。多分、私が見たことがない外だった……」
「絵本みたいな?」
「うぅん」

 ナマエは首を少し傾けた。惜しいような、そうでもないような気がしたからだ。現実の話だが、ナマエからすれば絵本の中のような、空想の世界にも思えた。
 この村の夢である。ただ、今とは光景が異なる村だ。周辺には視界いっぱいに豊かな緑が広がり、見たこともない花や動物、あるいは妖精だって溢れていた。そして、外から遊びに来た人だってたくさんいたし、彼らはナマエが見たこともない動物を連れてきていたり、複雑な柄の布や面白い構造のオモチャを並べていた。その夢は、現実だった“時期”がある。
 ナマエが生まれる前はそうであったらしい。なぜ知っているのかといえば、簡単な話で、その時代に生きていた人から聞き及んでいた。

「おばあちゃんと、おじいちゃんがよく話してくれるでしょう?まおう、現象……?が出る前のお外の世界。すごかったぁ……」

 ナマエは魔王現象なる存在について詳しくは知らなかった。ただ、この世界に突然現れた、とても恐ろしい悪魔のようなものである、という認識である。
 ナマエが生まれるたった数年前にソレが現れたせいで、先ほどの夢のような光景はすっかりとなりを潜めてしまった。それだけは知っている。
 ナマエは見たこともない素敵なその世界の話を、祖父母や両親から何度もねだって聞いた。すりきれた絵本代わりに聞いていたそれに、強く心が惹かれた。だって、とても素敵なことだと思う。みんなが笑顔でいる光景だなんて。
 憧れが強すぎたのか、ナマエは夢の中でその景色を何度だって歩いたことがある。今日だって、そうだった。
 たまたま気分が良くなった今、初めて母に話したのだったというだけだ。

「ねぇ、いつか私も見れるよね。その景色」

 ナマエは無邪気に聞いた。今度あの湖に遊びに行こうというような、軽い心地だった。
 その時点でナマエは母の様子に気付くべきだった。彼女は怪訝そうな顔をして、ナマエを撫でる手をすっかりと止めていたのだった。
 ナマエはまだ気づいていない。その手の心地よさよりも、話を聞いてもらえている気持ちよさに、まだ酔っていた。

「ナマエ」

 ナマエはびくりとした。母の言葉にどこか暗いものを感じたのだ。
 悲しそうでもにない、怒っているわけでもない。暖炉の灯りに照らされながら、ナマエを見つめる母の表情は硬質さを帯びていた。ナマエの話を聞いていた、あの穏やかさがない。
 気持ちがいまいち読み取れずに、ナマエは落ち着かない心地で身を起こした。

「ナマエは小さいわね」

 母がナマエの鼻先をくすぐり、そして抱きしめてきた。突然のことでナマエは目を白黒とする。
 いつもと同じ台所の匂いがする。しかし、ナマエは一層戸惑った。母の肩がちょっとだけ強張り、震えていた気がしたのだ。

「ナマエは私たちの宝物。何があっても守るから、安心して。たとえ、魔王現象が来たって、お母さんたちがみんなで守る」
「お、お母さん」
「ただ、そうね。ナマエが、それを夢に見るのはもう、……ナマエが一人になっても生きていくには、それは難しいのかもしれない」

 突拍子もない話だが、母は大真面目に言う。
 ナマエの夢はおそろしい魔王現象のいない景色を見ることだ。母が言うには、ナマエが一人になればそれを夢想することすらも、許されないのだ。

「どうして……」

 母は丹念に言葉を選んでいた。そうしてナマエの胸から表出した、繊細な箇所を、傷がつかないように柔らかい布で覆っていく。ナマエはその優しさを知っていながらも、失意に沈みかけていた。

「だめな、ことだった?夢を見ちゃだめ?ね、どうして?」
「この世界はここよりもずっと冷たいの。……夢を見ていたままでは、きっと、ナマエは生きていけない」

 母がナマエから体を離す。暖炉も近く、母の体温も分けられていたというのに、ナマエの体はひどく冷えていた。
 母の瞳は変わらなかった。ただ、ナマエを受け入れてくれるようなものではない。一種の覚悟を抱いているような、強い光を宿していた。

 翌日、ふと倉庫を覗いた。備蓄している保存食の量が少ない気がした。
 この違和感をいつもなら見過ごしていたが、今のナマエは違った。己の思考というものに明瞭な輪郭ができている感覚がした。

 この違和感の正体に、ナマエはようやく気づいたのだ。
 きっと、あの魔王現象というものの影響がここまで来ている。母たちは、緩やかな自分達の破滅を予感していたに違いない。
 呑気にソレらの存在がいなくなってほしいと、身勝手に夢を見ていた己を、ナマエは密かに恥じた。すでに危機は自分達の身にも迫っているのだ。
 ああ、なんて、恥ずかしい。とても、恥ずかしい。消えてしまいたい。
 家族の苦しみときっと肌身に感じていた恐怖を、自分はわかっていなかった。
 ナマエは話をねだるようなことも徐々に控えていき、次の冬でナマエは成人の齢を迎えた。

 思えばあれは、現実を見据えて大人になれ、という話でもあったのかもしれない。母の変わりのない、優しさであった。




 魔王現象は冬眠をする。それが例外もあるのだと、ナマエは身をもって体験することになる。
 恐ろしい魔王現象が村を襲ったのだ。ナマエの家族は怪我はしたが、全員無事だった。ただ、村は壊滅し、村人は年齢も性別も関係なく、少し死んでしまったり、体の一部がなくなったりしていた。

 冷たさよりもずっと恐ろしいものが迫り来る冬だった。
 しかし、ナマエを始めとする村人たちは明日の光を得ることができた。

 《女神》セネルヴァ、そしてその聖騎士であるザイロ・フォルバーツ。二人を頂きとする第五聖騎士団が見事!魔王現象を打ち倒し、救ってくれたのだった。
 少ない物資の中で彼らの偉業を讃えた村は、夜の帳の下、久々の安寧を享受していた。



 夜の暗闇に、寒さで白くなった呼気がたゆたう。
 ナマエは蝋燭を持ち出し、まだ肌寒い雪道を歩いていた。遠くに行く気はない。彼女の目的は、村の端にぽつねんと立った小屋である。
 たどりつき、その分厚い扉を見ると、ナマエはほっと息をついた。なんだか、安心する。おおよそ一ヶ月、魔王現象に襲われる前には毎日のように夜を越していた小屋である。
 元の所有者は猟師であった祖父だ。彼の使わない道具を溜めていた倉庫だった。ナマエが小さな頃からずっと絵を描くものだから、その倉庫を改造し、アトリエとして授けてくれたのだ。

 絵はもちろん、描きたい。しかしそうする暇はなかった。これからも、そのつもりだ。
 魔王現象の被害にあった村人たちのために、これを明け渡そうと今夜決意したのだ。壁も屋根も無傷の建物は、この村では貴重なものなのだから。

「んんん、すごいなぁ」

 扉をくぐり、ナマエは苦笑する。床や机に所狭しと己の絵と画材が放置されている。もっとすごいのは、それらすべてに埃が雪景色のように一層被っていたことだ。
 どれから取り掛かるべきだろうか。そもそも、この量の絵をどう処分するかも考えていなかった。
 ナマエは足元の紙を一枚拾う。表面を撫でると、油絵の具の色料と、埃は指先に白い埃で汚れた。

「こんばんは!」
「こん……、うっ!?」

 ナマエは身を翻した。ここに来たのは自分一人だったはずだ。女の子の声など、聞こえるはずがない。しかも、その溌剌とした声に覚えはなかった。
 姿を現したのは一人の少女だ。ナマエに見咎められても、さもここにいるのが当然とばかりに微笑んでいる。

「明かりが見えたから来たんだけど、こんな感じなんだ」

 悠然とした口調はナマエに向けられたものかもわからない。ナマエの答えを待っている様子もないため、独り言なのかもしれない。

「ね!君の持ってるそれ」

 ナマエが持っていた絵に関心を向けた途端に、彼女はこちらに近寄ってくる足並みを早めた。ただ、ナマエの絵を踏まないように器用に避けている。

「綺麗な絵だね」
「そう、ですか……?」
「そうだよ」

 彼女はナマエの絵を褒めてくれたが、どう見たって、彼女のほうがとても綺麗ではないか。ナマエの疑問は確信に変わる。
 窓辺から入り込む月夜が彼女を照らした。
 面差しは真っ直ぐとした鼻梁を中心に左右対称で、肌には雪のようにまっさらだ。金髪だって、色素こそ薄く、月光にあわせて淡く発光していた。一見人形のようだが、それにしては存在感が強い。
 ぎらぎらと青く燃える双眸がナマエをうつしているからだ。

 どうにも現実のこととは思えずに、ナマエはただ立ち尽くしていた。そんなナマエに興味を無くしたのか、彼女の視線は小屋の中のあちらこちらに巡らされる。

「これは?」

 少女の華奢な手が机の絵に伸びた。その瞬間に何かのバランスが崩れたのか、一斉に紙束の雪崩が起きる。

「あ、ああ!」ナマエはこれ以上にないくらい大きな声を出した。「だめだめ!」
「え!?ごめん。そんなに貴重なものだったのかい」

 彼女の細い眉が下がる。ナマエは慌ててかぶりをふった。

「ち、違います、あの、えっと、貴方が汚れてしまうからです!そこに座ってください」

 部屋の白い埃がその美しい髪に落ちてしまった。それがどうにも嫌だったのだ。
 彼女は意外と素直にナマエのいうことを聞く気があったらしい。その場で腰を下ろしてくれた。
 ナマエは怪我の有無をたずねながら、彼女の髪を手櫛で解いていった。少しだけ、指先が痺れるのは気のせいだろうか。緊張もあるかもしれない。
 ナマエが髪を指先で探ってみると、くす、くすくす……、と笑い声が耳朶を打つ。そんなわけはないのだが、人並外れた透明な声色に、ナマエには妖精がいるとしたらこんな声なのではないかと思えた。

「くすぐったいですか?」
「ううん、なんだかおかしくって」少女がまた真っ直ぐにナマエを見つめた。「君、あんな声出せるんだ。魔王現象を見た時よりも驚いてそうだね」

 ナマエは、彼女が何を言っているのか、きちんと認識できずに曖昧に微笑んだ。だって、そのしっとりとした、薄い唇から発される音が自分に向けられていた。
 そのことにナマエはすっかり萎縮してしまったのだ。だって、こうして《女神》様に声をかけるのだなんて、自分なんかにはもったいなかった。

「あのセネルヴァ、様」

 《女神》セネルヴァは細めていた目を意外そうに見開いた。

「僕のことを知っていたの?」
「もちろん。ザイロ様と、魔王現象を倒してくれた《女神》様のお顔を忘れるはずがありませんから。絶対に!!」

 この気持ちを冗談だと思われたくない。ナマエは一気に頭に血が昇る感覚がして、その勢いのままずいっと前屈みで言い募った。
 彼女たちが来てくれるまえの絶望は深いものだった。村の全員が、春を迎えるのを諦めていた。それを希望に変えてくれたのだ。

「セネルヴァ様たちの偉業をしらない人がいれば連れてきてほしいほどです!」

 セネルヴァは口元を両手で覆った。どうしたのだろう。
 疑問符を浮かべるナマエに、堪えきれないように、セネルヴァは肩を大きく揺らした。

「んふ!あはは!髪なんか撫でてくれるものだから、気づいていないのかと思った」
「あっ」
「いいのいいの!そのまま、そのままでいいから」

 弾かれたように立ちあがるナマエの手を、セネルヴァは引っ掴んだ。見た目の通り、力はほんのちょっとか弱かった。
 ナマエが諦めたように隣に座ると、セネルヴァはナマエの肩に頭を預けてきた。子猫のような柔らかい髪が、ナマエの頬をくすぐる。気づけばセネルヴァはナマエの描いた絵を何枚か膝に乗せていた。

「この絵は誰が描いたの?」
「私、です」
「へぇ!全部?」

 セネルヴァは、今度は興味深そうに小屋の中を見回す。人が座る場所をかろうじて残し、ナマエのさまざまな作品がひしめきあっていた。

「はい、この小屋にあるものは、全部私が描きました」

 セネルヴァが膝に置いておいた絵を手にして、それが何の絵かを尋ねていった。村の牧羊犬たち、秋の湖畔、祖父の木彫り人形。どれもナマエに縁があるものばかりだった。
 そうして何枚も問答を繰り返していくが、セネルヴァの反応は決して飽きているものではなく、毎回新鮮なものだった。
 初めこそ彼女の機嫌を損ねないかと緊張していたが、最後の一枚になる頃には、ナマエの心は自然と安らいでいた。

「たくさん描いてるんだね。もうずっと前から?」
「ずっと……そうですね、今よりもずっと小さい頃からです」
「あ、これ、好きだな」

 セネルヴァの持ち上げた一枚に、ナマエは肩をすくませた。ナマエの仕草が余計にセネルヴァの好奇心を誘ったらしい。今まで絵に注がれていた視線が、ナマエに向けられる。
 どうにか誤魔化そうにも、方法が何も思いつかない。
 ただ、このまま口をつぐんでいてはセネルヴァの青い瞳が離してくれない。ナマエはわずかに顎を下げて、小さく肯定を示した。

「これは、何処の絵?」
「それは……、ぅう」

 セネルヴァは違和感があるだろう。先ほどまで、ちょっと得意げに答えていたナマエの口のまわりが急に悪くなったのだから。
 ナマエは答えようとしたが、体が熱くなった。

 その光景は、ナマエの夢を切り取ったものだからだ。
 自分がまだ、幼稚で恥ずかしい思考をしていた頃のものだから、面と見るには多少の勇気が必要だった。それに、魔王現象を倒した、こんな素晴らしい人が目を皿のようにして見つめるのだから、余計に照れてしまう。

「な、内緒!です!」

 ナマエは思わず立ち上がって、セネルヴァから距離をとろうとした。
 そうしなくては、自分の惨めさを実感し、彼女の輝かしさに溶かされそうだった。しかし、ナマエの足はそれ以上動かなかった。呼びすくめられたわけでも、意図的なものでない。
 いつの間にか、ナマエの背後に煉瓦の壁があったのだ。

「ひゃあっ」

 なかったはずのものが、急に現れた。見覚えのないそれに、ナマエはたまらず悲鳴をあげた。
 セネルヴァを見やれば、彼女は白い指先を指揮棒のように揺らしていた。彼女の金髪が、本当に輝いていていた。

「驚かせちゃったかな。ごめんね?」
「かかか、かべ、壁が」
「僕の祝福だよ」
「セネルヴァ様の?」

 セネルヴァの指先が発光する。すると今度は、ナマエの傍にまた小さな煉瓦の階段が、しかけ絵本のようにあらわれた。何も仕掛けもないこの小屋に、だ。
 ナマエは非現実的な光景に、呆気に取られていた。祝福。これが彼女の力なのか。

「す、すごい」

 思わず呟いた言葉に、セネルヴァは表情を綻ばせた。

「すごいだろう?《女神》の祝福は」
「すごいです!セネルヴァ様!」
「うんうん!」

 セネルヴァは誇らしそうに胸を張り、何度か頷いた。
 ナマエは迷った。セネルヴァはこんなにすごいものを見せてくれた。きっとナマエがそれだけ努力しても、二度とは見れないのかもしれない力にちがいなかった。
 ちっぽけな自分の小さな矜持で見れたおかげでもあるが、彼女の期待に答えなければならないといった責任を感じた。

「私、私のこの絵は、私の、夢というか、妄想の……絵です」恥じらいから、声が震えていた。「おじいちゃんとおばあちゃんに聞いた。昔の、魔王現象がいない世界の絵です。見たいなって、思って、気づいたらこんな量になっちゃいました」 

 こんな量。この小屋の絵は、もちろん見たものを描いたものもあるが、ナマエが想像したり、思いついた絵の方が割合が多かった。
 セネルヴァは、青い瞳を丸くさせると、ナマエの顔と手元の絵を交互に見比べた。どんな反応をされるのだろう。ナマエには見当もつかない。笑われるか、呆れられてしまうか
 早まる心音がうるさい。見守っていると、セネルヴァは顎に手を当てて、ひとつ頷いた。

「これが?すごい。いいなぁ。魔王現象がいない世界っていうのが、いいね」
「い、良い、ですか?」
「良いよ。だって、こんなに素敵な世界なんだろう?たのしそうだ」

 セネルヴァの視線はナマエの絵に釘付けだ。本当にそう思っているのだと感じて、ナマエの胸は高鳴った。

「実は想像したことがないんだよね」
「想像?」
「ほら、魔王現象がいない世界がどんなものかってやつ。僕達が起こされるのだっていつだってあいつらとの争いの中だから」
「あ、え、ええぇ!?」
「《女神》だからね。この戦いが終わったら、また眠るよ」

 祝福という素晴らしい力を持ち、そして魔王現象を倒すのが自分という《女神》。たった、それだけのために、彼女は生きている。
 セネルヴァはそれに疑問がないようだったが、ナマエはほとんど拒絶のような否定の気持ちになる。だって、それはおかしいことだ。

「だ、だめです!勿体無い!きっと、良い世界なんですから!」
「また、だめですって言った」セネルヴァが愉快そうに言った。「でも、こんな景色になるかもしれないんだね。僕が救った後って」
「セネルヴァ様は、実際に見て回りたくないんですか?」
「そうだね、ちょっと回るくらいなら」
「ちょっとじゃだめです!ずっとです!」

 ナマエは気づけばセネルヴァの手を両手を包んでいた。彼女の手は今を生きる人のように温かい。

 ナマエは魔王現象のいない、安心で、笑みに溢れた世界を見たかった。さらに言えば、その素敵な光景をおさめていきたいと、常に考えていた。
 なのに、セネルヴァはそれすらも望まない。それに、きっとさらなる偉業をなすであろう彼女という人を誰も知らないまま、この世界の舞台から降りるのだという。
 少なくとも、ナマエはそれを想像するだけでも耐え難かった。

「魔王現象を倒すまでは、《女神》様ならって話でしょう?その後は、セネルヴァ様がセネルヴァ様として生きてもいいじゃないですか」

 ナマエははっとした。そして、しまったと、後悔した。
 気づけば魔王現象を倒した後の話をしてしまっている。また、夢物語を語ってしまった。
 そんなことができる力もないのに。家族の不安にでさえ、気づくことができない考え足らずの自分なのに。
 調子良く言ってしまったが、魔王現象とはその全てを倒せてしまえるかもわからない、恐ろしい存在であるのに。

 お互いに気まずい沈黙が降りる。口火を切ったのは、セネルヴァだった。

「君の名前は?」
「あ、ナマエ・クーアバレス……」

 セネルヴァが包まれた手元を見下ろした。

「そっか。ナマエね。ナマエはさ、絵をまだまだ描く?」
「し、しばらくは、むずかしい、かも」

 セネルヴァは眉を下げた。母のような、優しい表情をしていた。
 その瞳で、青が弾ける。

「なら、僕と我が騎士が魔王現象を全部倒した後に、その光景を描いてくれない?僕、ここまで見に来るよ」

 ナマエが息を詰まらせた。瞬き数回分では、言われた内容を理解するのに短すぎる。

「いい?」

 二度声をかけられて、ナマエはようやく頷いた。

「も、もちろん、です!歓迎、します!」

 いっているうちに、目頭が火を当てられてように熱くなる。急速に首筋まで火照り始めた。
 セネルヴァが、救った世界を楽しむ気でいることがわかったこと、そしてそれ以上にナマエの思い描く未来までの約束をしてくれたのが、嬉しくてたまらなかった。

「もう!さっきの威勢はどこにいったのさ」

 セネルヴァがぐっと顔を近づけてくる。先ほどよりもずっときやすい雰囲気を纏っているのは、勘違いだろうか。

「せ、セネルヴァ様!?」
「ああきっとそれだな」セネルヴァは頬を膨らませた。「よし。僕の名前をそのままで呼ぶことを許可します。これでいいかな」
「いいかなって!?」
「ほら、呼んでみて」

 冬の夜は賑やかに過ぎていく。
 この小屋の破棄を決めた時に、絵はしばらく描かないといったが、少しだけ猶予を延ばそうと思った。
 今はただ、ナマエと夢を見てくれた彼女を紙の中に留めておきたかった。

  

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