魔王『アバドン』の根城に連れて来られて、装備を一通り没収されたときには、ナマエは己の死ばかりを連想していたものだった。
それがどういうことだろう、彼ーーアバドンと名乗ったそれは、表情が能面のような面差しの男だったーーはナマエに多種多様な画材と、居心地の良い部屋を与えた。そして、おどおどとしたナマエに「君は絵を描けばいい」と温度のない声色で言ったのだ。
ナマエは軍事に一切詳しくない。任務中の作戦立案とか他の友軍の兼ね合いとかそういうのはザイロとかパトーシェ、ライノーに任せっきりだ。ただ、捕虜(?)の扱いでこれは違うのではないか、と薄々思っていた。だって、ナマエからすればただのご褒美でしかない。
疑問が首をもたげるが、ナマエは自然と筆を取っていた。自分は、そういうさがなのだ。
◆
大理石の床に吸い付くような靴音が背後から聞こえてきた。
ナマエは咄嗟に羊皮紙を腕で隠して、顔を上げた。
「こん、ばんは」
声がうわずったのが自分でもわかる。ただし、目の前の男は表情を変えなかった。
「時間からすればおはよう、が君たちからすれば適当だね」アバドンはナマエを見下ろす瞳をわずかに緩ませた。「おはよう」
ぎくり、とナマエは体が強張る。どうにもアバドンの笑顔は自然と湧いてきた感情によって作られたわけではなく、あえてそう言う感情を湧かせて作ったように見えて、違和感があるのだ。
人間と魔王の差異。それは複雑な精神活動をするか否かと彼が教えてくれた。きっと彼はそういった機構を頭の中であえて造っているのだろう。
アバドンの目線がナマエの顔から肩、そして羊皮紙に乗せたナマエの腕にまで下りていく。
「それはまだ途中かな」
「や!これはただの落書きなので、関係ありません!」
ナマエは弾かれたように羊皮紙を引っ掴んで、胸に抱き寄せた。羊皮紙越しに心臓が激しく動いているのを手の中で感じ、次は何を言うべきかを必死に考える。あまり見られたくない、どうすれば回避できるだろうか。
うんうんと悩むナマエに、アバドンは首を傾げた。
「落書き?君に描いたものには違いないんだろう」
「そうですけど……」
アバドンはナマエが作品を見せることに嫌かどうかは聞かない。ただ、完成したかどうかにだけ関心を持っていた。
あ、未完成と言って後で捨てれば良かったのだろうか。
「そんなに力を入れると皺になってしまうよ」
「あっ」
アバドンがナマエの腕の中の羊皮紙をあっさりと抜き取ってしまう。
ナマエは取り返そうとついあげてしまった手を下ろした。アバドンは壮年だったが、体格のいい男だった。それに、一度渡してしまうと二度とナマエの手元には戻ってこない。それはここ数日でわかったことだ。
アバドンはじっくりとビー玉のような瞳でナマエの落書きを見つめる。彼は鑑賞時間がとにかく長い。いつもの作品なら、彼をそのままにして次の絵を描いていたが、その羊皮紙の中身だけはどういった反応があるのか気にせずにはいられなかった。
「ーーうん。いつもながら素晴らしい。」
二、三度、悠長に頷いたアバドンと目が合った。ほんの少しだけ、彼は目を見開いた。
「きみは体調でも悪いのかな。顔が赤いようだけど」
「あ、いや、そういうわけじゃなくて、ーーッ!」
ナマエは声にならない声を上げた。アバドンが手袋を外して、自分の顔に触れてきたからだ。鼻先、頬、額、耳、喉。おそらく赤くなっているだろう箇所を順々にかさついた指の腹で撫でられて、ナマエはさらに恥ずかしくなっていき、熱が溜まるのを感じた。
「病気でもないとなると精神からくるものと判断していいかな」
「……そうです」
「理由を聞かせてほしい。私に解決できそうなら協力しよう。君はどう言う気持ちで顔を赤くしているんだい」
ナマエは口籠もった。
言いたくない、とこうして露骨に態度に出してしまっても、アバドンは己の疑問を取り下げる気にはならないのは分かっていた。
しかし、ナマエからすれば親しい相手にだって、話すには気がひける内容だ。だけどもナマエは上手な言い訳が思いつかなかったし、嘘ついたところで彼の言及の嵐に対抗できる自信がなかった。
「その絵を見られると、は、恥ずかしい、から」
「何故」
「いや、その絵は、えっと……寂しいなって思いながら描いた絵なので、あまり人には見せたくないというか」
「ふむ、……寂しい気持ちがあるとどう、違うのかな」
ナマエは頭の中で耳鳴りがして、目が回りそうだった。額から滲み出てくる不快な汗を擦り付けるように拭い取る。このままいっそ気絶できたらいいのに。
アバドンはこちらを観察するような様子で見下ろしてくる。
彼はただ、なんの感慨もなく続きを待っている。
どうしてこの絵を描いてしまったのだろう、といまさら後悔してきた。
「わ、私が勇者刑になった原因の絵は、私がいろんな気持ちを込めた絵なんです……」
ナマエは軍服の裾を握った。
原因の絵とはすなわち《女神》セネルヴァの死を描いた絵だ。
すでに再現が難しかった。絵は全て軍に燃やされていたし、勇者となって何度か蘇生を経験したナマエの記憶には故郷を救って、一晩だけ共に話したはずの親友、セネルヴァの顔がなかった。
ただ、気持ちだけは忘れていなかった。
魔王現象を殲滅して、平和になった世界では、《女神》としてのセネルヴァは死んでおり、自分の親友、少女としてのセネルヴァとたくさん遊ぶ。色んな経験を彼女とする。自分の絵を見てもらう。
ーーそうなったら素敵だと、ナマエは一心に祈って描いていた。
「でも、私の絵を見て、色んな人が、おかしくなって、お金を無くしたり、怪我をしたり、殺したり、殺されたりしたんです。それってつまり、私の気持ちってお、おか、おかしいから、なのかなって」
だから、と続けようにも口の端が歪み、喉が引き攣って上手く喋れなかった。
さっきまで時間を忘れて絵を描いていたはずなのに、自分の境遇や気持ちを話そうとするだけで、急に心細くなって泣きたくなってきた。
ナマエには理由がわからなかった。目の中がしゅわしゅわと痺れてくる。
「きみは少し、気分を変えてみるのが良いかもしれない」
部屋を変えようか、とアバドンはナマエの小さな手を引いた。
◆
連れて来られた部屋に、ナマエは目を丸くした。
部屋中に所狭しと、ただし几帳面に飾られているのはナマエが描いた絵だった。丁寧に一つ一つ金細工の額縁に入れてある徹底ぶりに、しばし時間を忘れそうになる。通りで帰って来ないはずだった。
「どうかな」
「どう?」
「私はきみの絵をこうして飾りたいが、きみから改善案はあるかね」
「な、いです。私、自分の絵を飾るなんてしたことないので」
そして、飾られているところを見るのも初めてだった。
此処にきて戸惑いながらもとりあえず描いた絵、初めて使う画材に浮かれまくっている絵、調度品が珍しくて描いた絵、魔王『アニス』、絨毯の刺繍、トヴィッツ。思いついたもの見たものをとりあえず描いた自分の絵。そんな絵が大事に飾られている。
どうにも落ち着かない気分になって肩を抱いて小さくなってしまう。
キョロキョロと所在なさげに視線を巡らせていると、一つの絵に目が止まる。
金の額縁に仰々しく飾られているが、中の紙は劣化で黄ばんで、皺になっている。此処に来てアバドンに与えられた紙、ではない。
しかし、ナマエの絵だった。
「懐かしい」
と、ナマエは口にしていた。誰に向けたわけでもなかった。
本当に、懐かしい代物だった。色鉛筆で描かれた故郷の絵。昔、貯めた小遣いで買った色鉛筆の色彩に胸を高鳴らせてナマエが描いたもの。
「どうしてここに……」
「たまたま入手できたんだ」
ナマエは皺だらけで額縁の中で反射するその絵に苦笑した。
「くちゃくちゃ、ですね。なんせ安い紙でしたから」
「ああ。でもこれの価値は色褪せないし、きみを知るきっかけになった」
アバドンはナマエの絵のふちをゆっくりと、指先で撫でた。
「……色の組み合わせただけなのに、大勢を狂わせるなんてね。本当に、創作行為は興味深い。もっと他の魔王も理解すればいいのに」アバドンはナマエの絵を一心にみつめたままだった。「きみの心がおかしいから描けるなら、きみはそのままのほうでいたほうがいい。安心してくれ、きみの絵のせいで私は人は殺さない」
「そう、ですか」
ナマエは、不意に肺の中が重たくなったような気がした。いや、気のせいではなかったのかもしれない。
「そう。人間を間引くのは私の意思によるもの」
ナマエの熱を持っていた頭が急速に冷えていった。散々胸の内を吐露してしまったが、この男の中身は魔王なのだ。魔王『アバドン』。
不意に彼の方から、鉄錆のような臭いが濃くなっていき、ナマエはようやく彼がその“間引いた”後であることを察した。
アバドンはナマエに振り向いた。何処に逃げれるわけでもないのに、ナマエがゆっくりと、後ろに小さく下がると、一歩だけ近寄ってきたアバドンの大きな影で目の前が暗くなる。
いよいよ来た時に何度も思い描いた死が実現されるのかと、目を白黒させるナマエの手をアバドンの大きな手がすくい上げた。
アバドンはグッと、革手袋から音が立つほど強く握った。
「きみの描いたものは、もう二度と隠さないでほしい」
諌めるような調子に、ナマエは薄い肩を震わせた。いつもの違和感が何故かそこにはなかった。
アバドンはナマエを引き寄せて、肩口に額を埋めた。
「私は、待っていた。……きみを、待っていたんだよ。ナマエ・クーアバレス」
人間(きみ)ならわかるだろう、とアバドンの呟きにナマエはどうすべきかわからなかった。
顔が見えなかったのにも関わらず、どうにも彼が本当に自分の絵に、自分に縋っているのではないかと勘違いしてしまう。くしゃくしゃになっても綺麗に飾られてる絵から、ナマエは視線を外した。
◆
しばらく、アバドンと抱き合うような形になっていたが、時を見てアバドンが用事があると去っていった。一人残されたナマエはあてがわれた部屋に入ると、ドアに背を預けた。
まぶたを下ろすと、まだ自分の周りで彼の血の臭いが漂っている気がした。鈍り出す頭は、先ほど必死に押し込んでいた思考を浮かび上がらせる。
アバドンが、魔王現象でなければ良かったのに。
しかし、魔王現象『アバドン』でなくては、ああしてナマエの絵を受け入れるような言葉も出なかったのだろう。
彼の自分を覆ってしまう大きく深い影や耳朶を打つあの低い声を、思い出してしまう。どうしてだろう、怖い記憶というものは思い出すたびに胸が引き締まるはずなのに、今はそれがない。
むしろ、母の帰りを待つ子供のような胸の高鳴りさえあった。
私は、彼に気を許してしまっているのだろうか。
「冷静に、ならないと……」
それは、駄目だ。許してはいけない。あの血のにおいは、人間のものだ。あれは人類の敵なのだ。でも。
ナマエはもやもやとした胸がつっかえだす。ナマエは自然と筆を手に取っていた。
完成図は既に頭の中にあった。あとは白いキャンバスに落とし込むだけ。
これができたらまた見せてしまうのだろうな、と妙に冷えた思考がよぎった。