気が滅入るほど湿った重い空気、蝋が溶ける匂い、ーーそして、ナイフが砥がれる音。いつも通り、それらが懲罰勇者ザイロの自室を満たしていた。
 寝所に座り込んだザイロは、開いてた詩集の文字列をそぞろに追っていた。その抜け目のない眼差しは、足元に正座を崩したような体勢で作業をする同僚、ナマエにばかり向けられる。
 彼女がせっせとナイフの手入れをしているのを見ると、ザイロは妙な心地になった。自分がいつも使っている得物のはずだが、彼女が持っていると妙に大きく見えてくる。
 気づけば仕上げにさしかかったらしい、何度か角灯に照らして表面を検分する。
 意外に刃物の扱いが慣れていることを指摘してみると、故郷でも触ることが多かったと話してきたのは先日のことだったか。祖父や父が狩った獣を捌く為にさまざまなナイフを有していたり、ナマエ自身も森の散策のために鉈を持って草葉を切り拓いていた、らしい(後者は聞いた時にまじか?となった)。

「できました!」ナマエは溌剌と言うと、膝立ちになり詩集に読みふける(ように見せた)ザイロが起き上がるのを待った。「どうでしょうか」
「ああ、いいんじゃないか」

 両手で大事そうに渡されたナイフを宙でひと回しして、掴み取る。悪くない感触だ。後で持ち手の調整をすれば、完璧だろう。

「最初よりも手入れする時間が早くなったな」
「ふふ、そうですね。慣れてきました」
「仕上げも洗練されてる」

 ナマエは口の端を緩めた。そして、振り子のように薄い肩をゆらゆらと揺らす。

「ザイロ様、次何しましょうか?」

 と、ザイロに向けられた、燭光のさざなみに負けないほどの強い輝きを宿す眼差し。
 そこに何かの既視感を覚えて、ザイロはすぐさまアレだな、と勝手に納得する。すなわち、セネルヴァと褒章やら勲章を授与される時に、彼女へ周囲の人間が向けてきたものと同じ類の、アレ。
 ーーよく懲りないもんだ。
 あいかわらずこうして自分を村を救ってくれた英雄だと見つめて、『ザイロ様』と呼び慕う姿に、ザイロは眉根が寄るのを感じる。
 ザイロは考え込むような素振りをしてから、ナマエに素晴らしい答えを与えた。

「ナマエ、お前も彫刻刀とか工兵用の器具があんだろ。手入れするか」
「え」

 「出してみな」と顎で促せば、ナマエの眼差しのきらめきは瞬きひとつで掻き消える。
 ザイロを一心に見つめていた瞳が泳ぎ、小さな口が開いたり閉じたりし始める。どうにか言葉の接穂を探ろうとする姿は愛嬌があるというか、面白いというか。
 足を揃えて抱え込み、ナマエはぐっと背を丸めた。威嚇するグジーイツオビアルマジロみたいだ。

「間に合ってますから、ザイロ様はお気になさらず」
「陛下しばらく任務でいなかったよな。見といた方がいい」露骨に視線を落とすナマエに、ザイロは続けた。「素人よりは見れるよ。お前だって、急に任務が入っても困るだろ?」

 なるべく、威圧しないように、遠慮させないように、ゆっくりとこともなげに言ってみせる。実際なんてことはないのだし。ナマエが大袈裟なだけなのだ。
 痛そうなほど耳を赤らめたナマエは、ザイロの様子を上目遣いで睨め付ける。そんな反抗的なことをしても、答えは変わらないぞ、とザイロは見つめ返す。

「ナマエ」
「はい。……そうですよね。器具に不調があれば、任務に支障が出ますからね」
「ついでにお前の木彫り用の彫刻刀もな」
「ぅぐっ。……はい、お願いします」

 ザイロの呼びかけに、ナマエはさらに体を丸めて、空気に溶け込んでしまいそうなほどくぐもった声で答えていく。
 ザイロは十分な達成感を噛み締めるように、しっかりと頷いた。そうだ、それでいい。
 どうにもナマエはいつもザイロに対して英雄とか恩人とかそうした壁を感じているようだが、そんなものに意味はない。きちんとザイロが身近な存在と思わせておかなければ、いざという時に守れやしないのだから。


  

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