藤の家に着き、任務を終えていたナマエはようやく人心地ついた。文机にいつものように筆記用具を広げて、瞼を下ろした。

 ナマエは、先の鬼との戦闘をできるだけ俯瞰的に見ようと努めた。
 同行していた男の戦闘時の動きも映りこむ。男−宇髄天元はナマエと同じ階級であるが、ナマエと比べて動きが数段も熟達しているように思えた。技を使えば派手な轟音を立てる癖に、敵の隙をつく彼の動きは、針に糸を通すが如く繊細だ。
 しばらく苦戦を強いられて、動きが鈍っていくナマエとは対照的に、宇髄の動きは突然何かを思い出したかのようにさらに洗練さを増していき、敵をあっさりと討った。

 今日も鬼の首を落としたのは天元だ。
 ナマエは任務を無事終えた安堵感の中にほんの少し、失望が混ざっていくのを感じた。

 机に投げ出していた手は拳をつくり、爪を立てかけていた。じっとりとあせばんだそれを拭って、ナマエは太く息をついた。
 宇髄と共に任務に挑めば、ナマエの回顧はほとんど彼の背中を見届けて終わってしまう。
 鬼の首を落とせたというのに、あの背中を見るとどうも喜びよりもやるせない気持ちがまさる。自分の努力なんかなんの足しにもならないのではないかと思えてくるのだ。

 いやしかし、と、ナマエは頭を振って筆をとる。
 真っ直ぐ帳面に突き立てるように置いてから、文字を落とし込んでいった。縦罫に沿うように書いてはいたが、忘れないよう、漏れのないように筆の運びが乱暴になっているせいで、その字画は雑だった。ナマエは気にしなかった。これは自分が読むためのものなのだから。
 鬼がどこを寝床にしており、どの程度生きていたのか。また食べたという人間の数も一応記しておく(ほぼほぼその鬼の自称だ)。対処が面倒な血鬼術についてはよりその性質詳しく書いておく。
 この帳面は、ナマエの鬼殺の日誌のようなものだ。できるだけ鬼の理解を深めて、次回の戦闘に活かそうと雑魚鬼の時も記している。

 ある程度まとめていたところでふつふつと疑問が何個もわいていた。捕食数がどのあたりで血鬼術が出使用可能なのか、他の血鬼術と何か関係性は見いだせないだろうか。女の鬼と男の鬼は何か違いはあったか。鬼が発生する場所の共通性はあるか。疑問を絞らないまま表紙から改めて捲り始める。書き込みすぎて黒ずみ、擦り切れた部分もあったため、ナマエは読めない部分にだけ赤い墨で修正を入れた。
 他の鬼との記録を眺めているうちに、ぬっと大きな影が帳面を覆った。
 ナマエはつられるように頭を上げた。
「おお、天元」
「『おお』じゃねえよ」
 ナマエの同期である宇髄が端正な顔を歪めて不満げな顔を作ってみせた。
「何回呼んだと思ってんだ」
「さあ」ナマエは首をかしげた。「何か用か?」
 文机から腹を離して、ナマエは宇髄と向き合うように居住まいをただした。宇髄は口先をとがらせつつ、どっかりと片足立てる形で腰を据えて、二人の間に盆をおいた。
「飲もうぜ」
 盆の上には大徳利と二人分の盃、それと水の入った水差しが置かれていた。宇髄は白磁器の盃を一つ手に取ると、ナマエに差し出して、誘うようにくいっと指先でそれを上下させる。
 きらきらと灯りを照り返す器を一瞥して、ナマエは眼前の男にうろんげな視線をやった。
「あー……あともう少しだけ待て」
「やぁだよ」
「俺もやだ。もうすこしまとめたい」
 子供っぽく駄々をこねるナマエに、宇髄は大げさに肩をすぼめた。
「どうせその帳面と延々にらめっこしてふてくされるだけだろ」
 宇髄の指摘に急所を殴られたかのように「ぐう」と一つ呻いて、ナマエは盃を受け取って、宇髄に向かって差し出した。指先にいる宇髄はにんまりと口元に三日月を浮かべてから、心得たとばかりに徳利を傾ける。
「んじゃ、まずは一献っと」
「はいはい、どうもどうも」
 とくとくと心地の良い音が耳朶を打つ。やがて目を引くような透明に盃が満たされた頃合いで、ナマエも徳利を受けとり、宇髄の盃を潤してやる。
「何に乾杯する?」
 ナマエの疑問に、すでに口先をつけかけていた宇髄が「あー」と面倒くさそうに思案する風情を見せた。
「今宵の生還でいいだろ」
「いつもそれだなあ」言いつつ、ナマエは盃を持ち上げた。「ま、いいや、生還に乾杯」
 口に含めば芳醇な香りが鼻から抜けて、口内に甘みが残る。程よい酒精を喉で堪能したのちに、ナマエは息を吐いた。
「うまい。考えてたこと全部吹き飛んだ」
「こんな時ぐらい鬼のことなんざ忘れろ忘れろ」
「てきとうか。お前らしい」
 既に手酌で二杯目を注ぎ出していた宇髄にナマエは肩を弾ませて笑った。

 ナマエと宇髄は、ともに階級が高く、同じだったため、ときおり同じ任務が言い渡された。最初こそはそれとなく他人行儀であったが、気づけば時間が合えばこうして盃を交わすようになっている。
 鬼殺隊は、生活時間や任務の都合上、民間人とは関わりも薄く、他の隊員と縁を持っても次の週にはその訃報を聞かされることもある。彼らは生と死の間を常に闊歩していた。
 ナマエにとっても、宇髄にとっても、同世代でなおかつ生き残りそうな人間は貴重な存在であった。
 だが、負傷する機会もない限りは、彼らは同じ場所には留まれない。おそらく今日目が覚めた頃には新しい任務が来て別れなければならない。
 このわずかな交流の時間は貴重だ。素直に語らえるためなのか、彼らは共通の陶酔境にひたることを好んでいる。

 運ばれてきた肴に箸を入れた。
 味噌が絡んだ刺身―鯵らしい―を口に放り込めば、酢のつんとした臭いが鼻をついた。弾力のある魚の身を咀嚼していけば、細かく刻まれていた生姜と大葉がさくさくと音を立てる。甘く仕立てられた味噌と薬味の爽やかな味がほどよく合わさっていた。
「生魚は初めて食べるが、うまいな」
「こういうのって、沖なますって言うらしい」
「ふうん。さすが忍?」
 感心するナマエに宇髄は意地の悪そうな笑みを作った。
「お前が鬼日誌に気ィまわしてるあいだ暇だったから外をちょっと回ってた」
「俺、そんなに書いてたか」
「二刻ぐらい」
「いつも通りだな」
「毎度毎度……よく飽きないねえ」
「む」
 どこか小馬鹿にされた響きがあるような気がしてナマエは盃に残っていた酒を飲み干すと、背筋を伸ばして、帳面を持ち出した。
「お前はどうでもよさそうに言うがな、これは、俺の努力の結晶みたいなもんだ」
「なんか色々まとめてんだっけ」
 賜杯のごとく恭しく掲げられた帳面を認めつつ、ざくざくと音を立てて宇髄が肴を口に運んでいく。宇髄の雑な認識に対してナマエは満足げに「そーそー」と上下に頭を動かした。
「ささーっと、いっぱい書いて、まとめて、読みかえすんだ」
「役に立ったことは?」
「ある!」
 やや舌足らずにナマエは堂々と言い切った。宇髄は「あそー」と少し興味を失ったようだったが、ナマエは姿勢を崩さず、帳面越しに宇髄を見つめた。
「そういうお前は何かしてんのか?」
「特には」
「うっそだ」宇髄の剣先は戦闘中に突然鋭くなることが多い。ナマエは先刻の引っ掛かりを思い出していて、すぐに否定した。「お前、途中で明らかに動き変わる時あるだろ」
「変わる時?」
「突然勢いづくというか、」
「あー」思い当たったのか声色が高くなった。宇髄は皿の上の肴を箸先でつつきながら、続けた。「譜面作ってんだよ譜面」
「譜面?」
 そうそう、と頷きつつ断りもなく最後の一切れを口に運んだ。
「相手の隙とか、よくやる癖とかまとめてえ、んでどう立ち回るか記号に置き換えて、頭ん中の楽譜に落とし込む」
「はー……」
 ナマエは帳面を持ったまま惚けた声をあげた。
「すっげえなお前」
「ったりまえだろ」
「いやほんとにすごい。じゃあ先の鬼の楽譜も覚えてるか」
「もちろん」
 気をよくした宇髄はあっさりと頷いた。
「教えろ」
 筆を取り、本格的に書き込む体制を取り出すナマエに、宇髄はくわえたままの箸を面倒くさそうに上下させる。もったいぶるように間を空けてから、譜面の内容を伝えた。
「お前、字ィきったな…」
「うるせえわ」

 ナマエの「教えろ」は先の鬼だけでなかった。ナマエは宇髄と合同任務のときに出会った鬼を簡単に見つけ出して、たずねていく。宇髄も乗り気になってきたのか、身を乗り出して一緒に帳面をめくる。
「これは雑魚鬼だったから作ってない」「長期戦なら……」「こいつかなァ」「ああ……」
 頭をくすぶる心地の良い酩酊が覚め始めた頃、ナマエはふと筆を止めて、しげしげと帳面を見つめた。

「てきとうがお前らしいと言ったが違うんだな」
 自然とついたため息には感服が含まれていた。
 ナマエが宇髄に抱いていたのは友愛であるが、同時に嫉妬も覚えていたのは否めなかった。
 お館様に目をかけられた忍が鬼殺隊に入った−そりゃ簡単に鬼の首くらい落とせるだろう。経験豊富な彼らなんて、きっと昔っから刀に懐いていた自分の努力なんて容易に踏み越えられるのだろうとナマエは回顧するたびに思わされた。
 しかし、そんな簡単な話ではないのだ。
 戦況によって、敵の動きを読み取り、己がとれる適切な戦法を「譜面」という形で生み出し、確実に遂行する−これは自分の能力の限界を知り、認めた人間にしかできない芸当だ。
 この男は他人に晒さないだけで、自分のできることを極限まで突き詰めているのだ。生半可な人間には到底なし得ない。

「お前も頑張ってんだなあ」
 思わず、そんな言葉が出てくる。酔いが残っているのか、そのしみじみとした感動の余韻がまだ引かない。
「いや、よし、再開するか」
 ナマエが改めて帳面と向き合ったが、先ほどのように大きな影が被ってこない。
 頭をあげれば妙にしまった表情をした美丈夫がナマエを見つめ返した。
「天元?」
「さっきのもういっかい言ってみ」
「だから譜面を教えろって」
「いや、その前」
「前?」ナマエは首を傾げた。「てきとうがお前らしい?」
「そのあと」
「お前も頑張ってんだな?のところか」
「うん」
 宇髄が大げさにこっくりと頷いた。
「もういま言っただろ」
「もっかい」
 大男に子供のようにねだられて、ナマエは苦笑する。
「お前も頑張ってるよ」
 改めて言うと気恥ずかしさにじわりと頬が熱くなるのを感じた。
 言わせた宇髄の様子をじっくりと見届けてやろうと視線をやると、顔面を隠すように手で覆っていた。結局派手に彩られた爪先を観察するだけとなったが、やがて「あ〜」と胸を響かせるような低いため息が隙間から漏れる。
「譜面ぜんぶ真っ白になったわ」
 隠していた顔面の上半分だけ見せた宇髄があっさりと告げた。
「嘘だろ」
「まじ」
「こんの酔っ払い」
「悪ィ」
 気まずそうにばりばりと後頭部をかいて視線をそらす宇髄に、ナマエもそれとなく居心地悪さを感じた。
「まあ、また次回にでも教えてくれ」
「…ナマエ」
「おう」
「なんでもないわ。もう寝る」
「はーいよ」
 立ち上がった宇髄の背中を一瞥して、首を巡らせると、すっかり使用された盃やらが乗せられた盆が目に入る。
「あ、お前また片付け俺に任せる気か」
「用意したの俺ですしい?嫌ならこの家の人間に任せればいいだろ」
「そういうわけにはいかんな」
 ナマエは、盆を引き寄せて、どっこいせ、と声をあげつつ立つ。妙に晴れた気持ちだったので、その動作は滑らかだ。
「なァ」
「今度はなんだ」
 振り返れば、宇髄がいつもの調子でにんまりと笑っていた。
「次回の任務も頼んだぜ、相棒」
 言い逃げするようにぴしゃりと襖が閉じられた。
「はいはい……こちらこそ」
 相棒と自分を呼んだ男と書いた日誌を一瞥して、ナマエは盆を持って廊下にすべり出た。

  

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