「ドッタさん!」ツァーヴの片腕が首にまわり、ドッタは呻いた。「イイ話があるんスよ!」

 賭場からの帰路は、ドッタからすればじめりとした空気で覆われている。だだというのに、月光を受けて鈍色に近くなった金髪を揺らした男ーーツァーヴの声色はドッタの耳を突き抜けるような明るさと鋭さをもつ。

「勘弁してよ……。どうせ碌な話じゃない」

 ドッタの素直な胸中はため息と共にこぼれた。元よりツァーヴを気遣う気力もないし、ドッタの冷ややかな態度はイイ話をしたがる衝動を抑えるに値しないだろう。
 その証拠にツァーヴの爛々とした目がゆるく歪み、片方の口が吊り上がりだす。首の締まりがだんだんと蛇にでも巻き付かれたかのような心地になってきた。
 暗殺者の微笑みにそうした薄気味悪さと、自分の抵抗が予想通り無駄に終わる予感にドッタは俯いてしまう。ーーこれだから、ツァーヴと話すのは疲れる。
 ドッタが気持ちを割いて投げてやった皮肉の一つもツァーヴの与太話の華となってしまうのだ。

 足元に伸びた長身の細長い影が、ドッタを嘲笑うかのように片手を振ってきた。

「犬に金脈を当ててもらうんですよ、金脈!」
「金脈って……いやもう無理でしょ」

 金をはじめとした鉱山資源は見つかったところで大概軍か神殿に持って行かれている。ひとえにここ二十年間続く魔王現象との戦いで熱が上がってきた軍需産業のためである。
 ただでさえ狭くなりつつある人類の生存圏の中で浮いている資源なんてないだろう。ドッタの至極真っ当な反論にツァーヴは緩んだ笑みを浮かべた。

「いやいや!昔お宝を嗅ぎ当てる犬がいたって話聞いたんスよ」
「ふぅん……」

 ツァーヴは教鞭のように指先を振るう。大層なことを述べるように見せてくるが、どうせ酒場であから顔の酔っ払いから聞き及んだ話なのだろう。
 ドッタはそうした与太話を信じてしまうこともあるが、最近ではこの男の信頼のなさから聞き流すことが多い。それならば、賭けの必勝法の一つでも持ってきてほしい。

 ドッタは肩に回る腕をどけて、足を早めた。どうせツァーヴと帰る先は同じなので、無駄なのだが。ツァーヴは地を蹴って、軽やかにヒールの音を弾かせてきた。

「今の時代まで生き残っている人間とか動物なら体が頑丈とかいうじゃないスか?犬の嗅覚も前よりもずっと良いとかあるかもしれないんで……調教すれば意外とイケんじゃねえかなって」
「調教って」ドッタは眉根を寄せた。「そんな暇、懲罰勇者にはないでしょ」
「任務から帰るたびにちょちょいと教え込めばいいんスよ」
「うわ、出たよ」

 ツァーヴがあっさりとそう言えるのは、暴力のプロだからだ。もはや嫌悪も嫉妬すらもないが、ドッタは口のなかで苦いものを感じた。
 懲罰勇者とは史上最低の犯罪者として軍の備品になっている。故に、回ってくる任務は大概勇者たちを犠牲にするもの前提だ(任務の内容は文体こそ体裁はととのえられているが、要約すればお国の希望に死ね、であるとザイロがよく教えてくる)。ドッタは部隊でも暴力とは程遠い存在であるため、記憶こそないものの何度か蘇生を経験していた、らしい。

 味わったことこそないが、死への恐怖はドッタにとって人一倍重たいものだった。当たり前のことだが、痛いのは嫌なのだ。だからこそ、どうしても次なるーーもしかすれば明日にでもくるだろう任務のことを意識すると緊張してしまう。

「うーー……、気分悪い。ただでさえ今日は負けたのにさ」
「ドッタさん賭場にいる間中ずーーっと顔から血の気引いてましたもんね。面白かったな」

 追い縋ってくる声はどうも楽しげに揺れていて、ドッタは耳を塞ぎたくなる。

「ツァーヴ。きみさ、どうしてそんなに余裕なんだよ。きみも負けたくせに」

 鬱陶しくなったドッタはつい口を滑らせてしまう。しまった、と後悔するには既に遅すぎた。

「あ、気になっちゃいます?」

 ツァーヴはどうにも自分のことを語るのが好きらしい。ドッタは他人の事情などどうでもいいのに、とにかく語ってくる。
 しかも決して愉快な内容ではない。ツァーヴは決まって勇者刑に処される前の暗殺者として育てられた時の話をしてくる。主に、いかにして非道な教育で今のツァーヴという人間が形成されたのかを懇切丁寧に話してくる。グロい、怖い、気持ち悪いの不愉快三拍子だ。

「犬、犬はどうするの。そもそもきちんと調教ができるの?」

 ドッタは慌てて話を戻した。
 語り足りなかったらしいツァーヴは油が差された舌をどうにか口に収めた。

「ん、まあ何頭か飼って、できねえやつはどんどん処分しますよ?効率重視です」

 ドッタは口元をひきつらせて、思わずツァーヴの顔を見つめていた。

「ん?あ、ドッタさんならそんな時間あるなら盗んだ方が早いかぁ」

 ぼくの行動をどう受け取ったのだろう。
 ドッタは何も言わずに目を逸らした。一瞬だけわずかながらにドッタの胸を燻ったのは、実在しない犬への同情心。それは本当に小さく、花弁を少し撫でた時に拾える水滴ぐらいにはささやかだ。
 しかしながらツァーヴが飼いそうなのは利発で獰猛な犬だろうと検討がつき、すぐにそんなものは蒸発してしまった。



 轟音とともに、馬のような異形は群れごと四肢が弾かれて、いななきを上げることさえ許されなかった。戦場の空では土煙が愉快そうに踊る。

「ただちに弾着を確認せよ」

 階級か定かではない軍人が、平坦な調子で聖印の通信を介して何かをやりとりしたかと思うと、ーーまた、ドッタの薄い瞼越しに眩い白い光が差し込む。
 待って!さっきよりも眩しい!

「ぐゥ……ッッ!」

 ドッタは塹壕に引き倒されるように蹲り、冷たい地面に頬擦りをしながら、衝撃に耐えた。振動で歯はがちがちと擦り合い、目の奥はぐらぐらと揺すられる。
 ライノーの砲撃で慣れていたつもりだったが、どうやらあの軍人の傍らに控えていた砲兵らが一斉に撃ったようだ。ならば、あらかじめ言っておいて欲しかった。こちらにだって心構えぐらいさせてほしい。

 唸った時にわずかに空いた口から砂が入り込み、じゃり、と音が立つ。
 余計に不快感を煽られたドッタはこんなはずではなかった、と泣きそうになった。
 今回の任務は陸軍兵団に付き添って、冬眠中の魔王現象を様子見するだけだと聞いていたはずだった。それなのに、それなのにどうして、何かの間違いか、急にこちらから砲弾やら爆弾やらをふっかけたのだ。
 軍人という人種は血に飢えているのかもしれないと、ザイロに受けた印象は間違いではなかった。こんな形で証明されたくはなかったが。

 ドッタの目は地平線からまたしても異形ーー今度はオオカミのような形をしているーーを捉えてしまう。しかも、数が多い。
 頬を撫でる冬の風が、やけに鋭さを帯びていた。

「勘弁してよ……」

 途方に暮れた一言に、同調するものはいない。

 ドッタは己の任務、というよりもその失敗条件を頭の中で反芻した。すなわち、指定された座標からの脱走、あるいは監督役の死である。頼むから、せめて後方の軍営の椅子を温めていてほしい。
 心なしか首が締め付けられている感覚に陥る。
 今回はこんな時にこそ縋れる勇者部隊の暴力の化身どもはいない。最悪だ。

「走れ!進め!」

 怒声に追い立てられた歩兵たちが、軍靴を鳴らして一様に猛進しはじめる。砲兵と雷撃兵が戦地を耕した後は速やかに前進しなくてはいけないからだ。
 その熱量に対してドッタはどこか冷めた気持ちになる。無駄なのだ。異形は何人で囲おうとも人間をおもちゃのように弄んで殺していくのはよく知っている。
 ドッタは塹壕の木枠を手すりがわりにして歩きだした。なるべく気取られないために、息を詰めて。
 まあ、どうせ進軍に躍起になっているため、自分のような存在を気にする者などいやしないのだからそこまでしなくてもいい気がしてきた。そう思うと安心するような、ほんの少し胸の中に潜むプライドが傷ついた気もする。

「はぁ、今、今なら、賭けに勝てるかもなぁ……。魔王現象の勝ちに全額賭けたら、はぁ、勝てるかも」

 なんちゃって。
 震える唇から、震えた言葉が溢れていく。
 砲撃の振動からくるものではない。怖い。逃げたい。単純にそれだけだ。任務外でも影を見せていたそれを、現場に立って抑え切れるほどドッタの心は強くない。暗い感情の本流がつま先から指先をなみなみとみたしていき、ドッタの芯を冷やしていった。

 独り言でも、逃げることでもなんでもいい。何か一つのことに意識を集中しておきたい。
 そのドッタの思考を割くように、またしても周囲が閃き、轟音がそれに従う。優勢なのだろうか、と期待するも空を割らんばかりの悲鳴が続いた。

 どかり、と近くで重たい何かが落ちてきた音がした。予想してきた衝撃はない。不発弾なのだろうか。
 ドッタは指先に生暖かい液体を感じて、動きを止めた。震える指先が和らいだのを感じて、ドッタはさらに指先で撫でようとしーー後悔する。

「ッッう、げ」

 吊られるように頭を上げ、暖かさの正体を目の当たりにしたドッタは後ずさる。
 ドッタが都合のいい暖かいものと勘違いしたそれは、異形に弄ばれて投げ飛ばされたのだろう人間で、そのだらりと下がった腕から垂れる血が吹きこぼれている。
 ドッタは慌てて外套で血を拭き取るも、鼻を覆う血の生臭さに嫌悪感すら催した。気持ちが悪すぎる。

 ドッタは死体の手を見つめているうちに、その顰めた顔を僅かに緩めた。

「あ、良さそうなの、持ってんじゃん……」

 ドッタが注目したのは兵士の持つ雷杖だった。

 ドッタは足のかぎ爪を駆使し、難なく塹壕を登った。
 死体の傍らに膝を下ろし、雷杖をまじまじと確認してみる。鋭い杖先には土と肉片が焦げ付いて汚れていたが、持ち手の装飾は複雑なものだった。ドッタを始めとする懲罰勇者たちが支給された物よりもよっぽど手が込んでいそうである。
 硬直した手から抜き取るのは苦労したが、なるべく指が取れないように注意しながらーー物ごしにでも、肉が折れる感触が伝わるのは嫌だったーー雷杖を抜き取った。
 ドッタは木枠で雷杖の汚れをこそぎ取りつつ、蓄光弾倉ももらってしまっていた。

 死体からの剥ぎ取りに罪悪感こそない。ないものの、ドッタは恐怖よりも勝った緊張で手がいまだに震えていた。
 こんなとこ見られたら絶対に怒られるだろうなぁ。怒られるのは……嫌だな。

「ドッタさん!」

 不意に、ドッタは下から自身の名を呼ばれた。ぎゃあっと悲鳴を上げながらも、ドッタは死体を押して、なんとか隠そうと努力した。

「ドッタさん!?大丈夫ですか!?」

 その声を誰かと疑う前に、ドッタが速やかに逃げ出す体勢をとりかけたのは仕方がない。しかし妙に聞き覚えがあり、そして戦場から浮いたとぼけた声に、気がつけば上から顔を覗かせた。

「ナマエ」

 ドッタの前に現れたのは同じく任務に派遣されていたナマエ・クーアバレスだった。
 ナマエは肩で息をしているのをどうにか抑え込み、大きく頷いて見せた。

「はい!」

 降りてみて、ナマエの様子を見てみた。仕事をしてきたばかりなのだろう、にっこりと綻ばせた頬や少し肩が余った外套が泥にまみれている。
 ドッタは特別思うところはなかった。いや、むしろ落胆の方が大きかった。ナマエは少し絵が上手く、目がいいだけの子供だった。今の状況を打開してくれる心強い味方にはなり得ない。
 ドッタの無言の失望もつゆしらず、ナマエは花を咥えたような柔らかい笑みを浮かべた。

「ドッタさんのマントが見えたので来ちゃいました」
「ぼくが見えたから?」

 ドッタは反芻するように返せば、ナマエはまたはい!と喜色の滲んだ声を弾ませた。
 監視をする目的ーー自慢ではないが、ドッタは手癖の悪さから良い目では見られることはほとんどないーーでもなく、ただただ自分の姿が見えたからってわざわざ来るのか。
 同情?それならば愚かだと思う。ナマエは、ドッタよりも弱いのに。
 ナマエの袖から覗く、そのひらぺったく青白い腕をドッタは見咎めた。

「きみっ、ぁーー」ドッタは咄嗟に目を瞑る。灯りを顔に近づけたかのように視界がすべて白んでいき、また地面が唸り声を上げた。「ーーきみもこれ、撃ってるのかと思った」

 戦闘中ならばナマエは大抵陛下に従いつつ、陛下お手製聖印兵器を扱っているのをみたことがある。たまに自分の体よりも大きいものも使い、異形どもを牽制する時にはドッタに爽快感を与えた。

「あっ……、それは、私もそう思っていたんですけど」

 ドッタと共に地上の揺れに足をもつれさせながら、ナマエは言った。
 普段から下がっている眉はもっと下がっている。

「見ていない間に、始まってしまったみたいですね……」
「ふーん」
「上の人たちがへい……ノルガユの兵器がー、とか、最高の性能なんとかとか言ってるのは聞こえたんですけどね」
「なにそれ。陛下が何かをやらかしたの?」

 まさかこの場にいない同期のせいで今の地獄が作り上がったのか?脳裏にはドッタの一挙一動を見逃さない、あの峻厳な横顔が浮かび上がる。
 ナマエはこれみよがしに首を傾げた。

「でも先日は調子が良かったみたいですよ。良いことがあった、てお話ししながら、私が預けた器具の整備も早くに終わらせて、ついでに新しい聖印を刻んでくれましたし」
「え!新しい聖印!?良いじゃん」

 思わぬところから降ってきた希望の光に、ドッタは瞠目した。
 しかし、ナマエは「あー」だの「ええと」と話をなかなか切り出さず、両手で握った円匙を引き寄せて、手元からぎちり、とグローブの革を鳴らした。まるでドッタが寄せる期待の眼差しから身を守るような風態だ。

「実はもう、使いすぎちゃって……」

 最後まで言い終えずに、ナマエは苦笑いを浮かべた。

「もう使えない?」
「何度も起動すると、熱がこもって金属が歪んで……円匙の形が保てなくなるんです。……特に今回は聖印群の密度がすごかったので…」
「わかった。期待してたぼくが馬鹿だった」
「すいません!で、でも、陛下の腕前は決して悪くなかったって言いたくて……!」

 一瞬期待した分損したが、ドッタは閉口した。皮肉や愚痴を重ねたって、ナマエはまた申し訳なさそうに謝るだけだ。

「それにどうせ手伝ってーとか言われて使いまくってたんでしょ」
「よくわかりましたね!?」
「よくわかるよ」

 ドッタがため息のように発すると、ナマエは羨望と驚きの混じった艶やかな眼差しを向けてくる。その口元はだらしなくぽかんと開いていてなんとも間抜けな顔をしている。
 どうしてわかるのかと言わんばかりだが、ドッタはもはや考える手間もないぐらいにはこの生き物の性質を理解していた。すなわち、人助けをしない間は息ができないぐらいの人好き。
 ナマエの罪状、女神殺し教唆犯ーーあのザイロを唆して女神を殺させたとするのがこの間抜け面なのならば、あの男もとんだ好きものだ。

 ナマエの皿のような眼差しは瞬きすると、今度はドッタの手元に向けられた。

「あれ、ドッタさんはその雷杖どうしたんですか?」
「え?ああ……、ぼくも陛下から新しくもらったんだ」

 ドッタは咄嗟に嘘をついた。死体から抜き取ったと分かれば、ナマエはすぐに嗜めてくるはずだ。
 いや、待てよ。
 ドッタは指摘されてから気づく。ナマエに頭上の死体が見られたら、もっと騒ぎ立ててしまうはずだ。助けだそうとか言いかねない。断ればもっと面倒なことになるだろう。

「んっ、わぁっ!?」

 ドッタはナマエの肩を掴み、自分を軸にくるりと位置を反転させた。
 糸のような細い銀髪が宙に舞うのを視界に捉えつつ、ドッタはナマエの背を塹壕の壁に押し付けた。

「どうかしましたか?」
「いや、危ないから」
「そうですかー……」

 ナマエの視線はドッタの雷杖に釘付けになっていて、妙な緊張感を覚える。
 さっさとこの場を去ってしまいたいのに。

「でもこれ」ナマエは唇を軽く噛んで、少し歪ませた。「陛下のっぽくないですね。やり方を変えたんでしょうか」
「へ」
「彫りの幅とか直線の引き方とかこう……全体のまとまり方が陛下らしくないというか」

 ドッタに説明をする気になったのか今度ははっきりとした口調で話し始める。
 戦場でなにをしているのだろう。陛下やツァーヴもそうだが、勇者部隊は勝手に一人で盛り上がる人間が多いとげんなりしてしまう。

「もうやめて」

 流れ星のような煌めく砲撃が地面に落ちていき、饒舌に落下音を立てていく。次いで、やはり降り注いだ光量に見合った暴力的なまでの白が、再びドッタの目を突き刺した。
 思考を何度も打ち切られる感覚に、ドッタが苛つくいとまもない。どっ、と何か重たいものが足下に落ちてきた。
 その物体から暗い赤を目にし、その鉄のにおいを嗅ぎ取った瞬間に、ドッタはそれが死体だとすぐに思い至る。
 今の衝撃で落ちてきてしまっていたのだ。

「ナマエ!」

 振り向きぎわにドッタは慌てて呼びかけた。

 ナマエが音につられて下げかけた顔をドッタは両手でーー片手持ちした雷杖にナマエの髪を少し巻き込んだが、気にしなことにしたーーつつみ、無理矢理持ち上げた。
 雪のように青白い双眸と視線が合う。

「ナマエ、あの……、先に進もう」

 ドッタは逃げよう、とは言わなかった。そう言ってしまうと、ナマエが頑なに嫌がるのはわかっていた。
 しかしどうしよう。これからの動向を考えるドッタを他所に、ナマエの視線が上を向く。

「ドッタさん、あそこ」
「なに?」
「あの砲兵さんたち、陛下の砲を持ってます」

 ドッタが首を巡らせると、確かに樽のような筒を何人かの兵士が取り囲んでいる様子が認められた。

「ーーよし、第一部隊!赤の魔物を詰めろ!」

 あの偉そうな兵士が叫ぶ。
 それに従うように、兵士らは何事かを叫びながら迷いなく砲弾を押し込み、蓋を下ろし、発射のレバーを引いていった。
 流れるような操作だ。ドッタが嫌と言うほど何度も見た光景だ。また、白くなり……いや、あの陛下のものならばもっと激しい威力のはずだ。
 もしかすれば、先ほどまでの砲撃だって子守唄のように思えるかもしれない。

 ドッタは何故だかこの時ばかりは何が起こるだろうかという興味に惹かれて、目を開けていた。もしかすれば、あの異形の群れを崩壊させる景色を、見たかったのかもしれない。

「あれ」

 何も、起こらない。偉そうに何かを命じていた男も、それに近寄る。
 ドッタは瞼を一度だけ下ろす。そして開いてみた。

 今度はばこん、と筒が膨らみ、弾け飛んだ。

 噴き上がった炎と粉塵の向こうに踊る多く人影を見た。
 いや、あの屈強な男どもが爆風に倒れまいと、抵抗しているのか。しかしその尽くは、まもなく地に伏していく。

「ドッ、タさん」

 くぐもった声をあげたナマエがドッタの肩口を握ってくる。
 ドッタは反応することができなかった。首に熱帯びた鉄線に巻かれたようなひりつく感覚を覚えて、ドッタもまた喘ぐ。すぐに思い当たるのは、懲罰勇者の首に刻まれた枷の聖印だった。
 指揮官が故意に、あるいは軍部から指定された条件から外れると発動することになる。
 首を抑えたところでその刺青からの苦痛から逃れられるわけではない。しかし、本能的にドッタの指先は、見えない首輪を外すべき喉元にめり込んでいく。

 ぷつり、と首の薄皮が裂けた鋭い痛みが走る。早く楽になりたい、終わってほしいと彼岸に足をかけ始めていたドッタの意識がはっきりとし始め、脳裏に熱風に巻かれる人型が浮かんだ。
 あの中にいたのだ。おそらくあの延々と、勝手に兵士を指揮していた男。
 くそ!
 窒息の苦しみの中でドッタは精一杯の悪態をつき、歯噛みした。あいつ、なんで前線に出ているんだ。

「わっ」

 突然、ナマエがドッタに寄りかかってきた。ナマエはその小さな頭をドッタの首元に埋めてきたので、表情は伺えない。ただ、眠るような、静かな呼吸が耳朶をうつ。
 ナマエは小柄だが、少なくとも人である以上ドッタからすれば重いものは重い。

「もう、どいて」

 ドッタは、ただでさえ擦り切れている力を振り絞り、ナマエの肩を押す。
 ナマエはそのまま塹壕の壁に身を預け、そのままずるずるとドッタの足元まで崩れ落ちる。俯いたまま、まるで使い込んだ布のように力が感じられない。
 ドッタは心臓が大きく縮むような感覚を覚えて、慌てて膝を折った。

「ちょっ、と、ねえ」

 気道が狭まる中で息を必死に吸って吐いていき、言葉を途切れさせながらも呼びかけた。苦しさとは別の気持ちが、ドッタの声を震えさせていた。
 ナマエの頬に触れる。すこしひんやりとしていた。しかし、その冷たさに引き寄せられるようにナマエの頬を包み、顔を持ち上げた。
 瞼を開き切るのもすでに億劫そうな弱々しい顔。ドッタがナマエに触れる己の手がびくりと震えるのがわかった。

「くる、しいです……ね」

 ナマエの指先が冷たい地面にうっすらと歪んだ線を作っていた。起き上がりたかったのだろうか。
 目の前の光景を拒絶するように、思考も己の手足もしびれていく。しかしながら、ドッタは目を離すことはできなかった。今度は興味本意ではなく、ひとりよがりな使命感に駆られつつあったのだ。
 この場から、ナマエを、助けなくては。
 もう無理だと否定する気持ちだって。じっくりじっくりとこの枷に首を絞められて、自分だって死んでしまうのに。
 だけどここには自分しかいない。

「ドッ、タさん」
「ま」
「あ?」
「まおう、現象」
「……ばかだな」

 この後に及んで魔王現象を倒せとでも言うのか。無理に決まっていた。ナマエもまた、死に際で頭がどうにかしているらしい。
 ドッタの呟きにどうにか「えへ」と苦笑するように、唇を引き攣らせる。ナマエの白い顔が更に青白くなる。

「だめだ、だめだよ、ナマエ」

 ナマエの首筋に、ドッタは触れてみる。触れてようやくわかる喉の隆起。そこに鎮座する十字架を中心とした鎖のような模様が一周している。
 どうか消えてくれないかーードッタが親指でなぞっても、いたずらにナマエの皮膚が赤くさせるだけだった。

「ーー……」

 何事かを言おうとしているが、言葉がすでに連ねられなくなっている。溢れる音は小雨が地面を濡らすような活力のないものばかりだ。
 だめだ、だめだ。
 ドッタは朦朧とはじめた意識の中で、ナマエをつかみ、この場から辞そうとする。が、無理だった。

 よろめきかけたドッタは、足の裏で何かを蹴った。ころころと転がっていったのは、もはや何も意味をなさない、あの盗み取った雷杖だ。わずかに汚れが落ちた鋭利な杖先が、鈍く光る。

「ぁ」

 ナマエが呻いた。
 当然だ。ドッタがその流れるような動作をもって、ナマエの首を切ったのだ。ドッタは首の薄皮の、不愉快な抵抗感に耐えながら、杖先でナマエの枷を横一線に傷つけた。切り傷から血のしずくが重たそうに垂れていく。
 ナマエの苦しそうな顔は、かわらない。

 カチカチと手元から金属音がする。ドッタの指が震えているためだ。
 ……本当に馬鹿なことをした。もしかして、無い金脈を探す犬よりも、愚かなことをしたのかもしれない。
 無いものを探し、無い体力も精神を搾り切ってしまった。
 ドッタは、傷でもつければ、この聖印の効力を抑えきれると、少しでも期待してしまったのだ。媒体が歪めば使い物にならなくなると聞いていたが、この呪いの枷は外せないようだった。

 体が一層怠くなる。重力に負けて倒れ込みそうになったがーードッタはすんでで肘をつき、小さなナマエに体を重ねないようにした。
 ナマエの瞼は頑なに閉ざされていた。表情は人形のようにすっかりと抜け落ちており、今際の際でさえ魔王現象のことを気にするあの間抜け顔はそこに存在していなかった。ドッタは自然と、またナマエの手を取ろうとして、すでに自分の腕がうごかないことにきづいた。

 ツァーヴやザイロのようにもっと凶暴であればよかったのだろうか。少なくとも、今のような状況を打開できたのかもしれない。
 ベネティムのように口がうまければこの事態を収められただろうし、ノルガユ陛下のようであればもっと戦力を上げられたりしたかもしれない。

 ドッタはいつのまにか自身の中から恐怖心が溶けていることに気づいた。
 あれほど遠ざけたい死に対して、怖いからとかじゃなくて、どうすれば救えたのだろうという後悔ばかりが降り積もっている。
 確定した死の状況の最中、熱風に巻かれながらも、ドッタの思考はひどく冴えていた。

 ぼくでもこんなこと考えられるんだ。

  

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