◆2

 食堂の色の薄いスープを匙ですくい、ザイロは多少侘しい思いになる。
 蘇生後の一食目としてはあまりに質素だ。しかし、最悪の罪人である勇者となった我が身にはお似合いのものだろう。文句は言えない。
 数少ない具材ーーしおれた葉物だーーをこころばかり咀嚼しながら、ザイロは空いた手を訝しげに眺めた。
 先の任務で死んだらしいが、いまいち実感がないのだ。入隊後の記憶は明瞭で、いまのところ聖印の使い方も生活においても何も支障がない。なんなら、食堂に入った時には懲罰勇者の食べる位置すら覚えたぐらいだ。
 日常動作すらままならないようなあの同僚に近づくのを覚悟していたが、まだ大丈夫らしい。

「ザイロくん、無視してません?」

 向かいの男から声をかけられて、ザイロは辟易とした口調になる。

「ベネティム」
「はい」
「嘘つきで、見栄をはりたがり、王城をサーカス団に売りかけた詐欺師」
「はい……なんですか?え?」

 残念なことだがこいつのこともきちんと覚えている。
 いや、数少ない幸運の一つなのかもしれない。なにも知らないままでこの男と対話してしまうと騙されかねない。
 ベネティムがなだらかな肩をさらに落とす。上目遣いでザイロの機嫌を伺いつつも、自分の話をきちんと聞いていたかは一応確認したいのだろう。
 ザイロは手慰みに匙でスープをかき混ぜながら答えた。すっかり冷えている。

「明日の合同戦闘演習があるって話だろ。聞いてたよ」
「ああ、よかったです」
「それでお前が演習をする日を俺の蘇生が終わるまで引き伸ばして」

 ザイロは不機嫌な気持ちを視線に込めた。獰猛なそれに射抜かれたベネティムは、ひくり、と口角を吊り上げる。

「代わりの条件として俺の聖印を全部使わないようにしたんだってことも察したよ」
「い、いえ、それは先方からのお言葉でして。もちろん私としてはザイロくんには十全の備えができるように説得したんですけどね?あはは……」

 ベネティムは笑った。
 さもザイロの神経を逆立てないようにしている風態の愛想笑いだが、だらしなさが滲み出ている。この男は確信しているのだ。既に決まったことをザイロでは覆せないことも確信しているのだ。
 一度躾けておいた方がいいのかもしれない、とザイロが皿を肘でどかし、立ち上がる。
 全身でザイロからの殺気を感じ取ったらしいベネティムが甲高い声をあげた。

「あの!待ってください!」
「待つと思うか?」
「聞いてください!ね!あの、もう一つ報告があるんです」

 既に襟元にかけたザイロの手をベネティムがやんわりとよけようとする。

「報告?」
「その勇者部隊と北方面軍の演習と言いましたよね?勇者部隊全員でとりかかれとの仰せを受けまして」
「そうだろうな。暇な奴らは全員引き摺り出されるだろ」
「ですよね。ご理解いただけてますよね……」

 立てた板に水を注いだような勢いでザイロを捲し立てていたベネティムの舌が一時止まる。改めてザイロの様子を見るように。そんなに見つめられたって、ザイロを覆う苛立ちが収まるわけではないのだが。
 脅すように襟元の手を動かせば、観念した様子で話し出す。

「新入りの勇者の方も、もちろん呼ばれますから……、あ、ほら、いらした!」

 ベネティムが食堂の入り口に向かって手を振る。優雅な仕草は結構だが、ザイロは視線を変えず、ベネティムに低声で詰った。

「なんで呼んだ?」
「突然会うよりもショックが少ないかと思いまして」
「ご親切にありがとうな」

 ベネティムの細眉がへらり、と下がる。
 そのとき、ザイロはベネティムの頬をしたたかに平手で打ち付けた。逃げる隙も与えずに、そのまま外套を掴み壁際に投げる。
 食堂の片隅の一方的な喧嘩を、見咎める兵士はいなかった。

 ベネティムは頬を押さえて、半ば涙目でザイロを見上げてくる。赤い目が嫌悪や怒りよりも、恐ろしいものを前にしたものでこれでもかというほど見開かれている。
 文弱然とした白くこけた頬が痛ましいほどに赤く腫れていたが、ザイロの心は己の掌程度には痛むことはなかった。

「もっと悪い話題で自分のやらかしたことを誤魔化そうとしたんだろ?」
「そ、そんなことありませんよ。ちょうど話題が被ってしまっただけです!誓って!」

 懇願するような口調に同情よりも更に反抗心がそそられたザイロは平手ではたいたことを後悔した。拳でいけばよかった。
 いつもならば思う前に行動を起こしているザイロだが、今日は矛先を収めた。収める、というよりも向ける人間を変えたという表現が正しい。

 近寄ってくる軍靴の音に応じて、ザイロは睨み上げるように振り向いた。新入りの勇者、と聞いてからずっと膨らみ続けていた怒りと憎しみが今にも破裂してしまいそうだった。

「ザイロ様、ここでは初めましてですね……!」

 ザイロたちと同じく侘しい食事が並んだ盆を大事そうに抱えた、小柄で、軍服に一応身を包んだ子供。サイズがすこし合わない姿はみずぼらしいが、微笑みはそのよく晴れた日に出かけているかのような輝きがあった。
 その太平楽な様子は、ザイロにとっては猛毒だった。
 湧いてきた激情に、眼光が鋭さを帯びてくる。

 子供は慣れた様子でテーブルに盆を置く。よりにもよってザイロの隣だ。

「罪状の関係からしばらく接触してはいけないと、強く言われてたんです。ベネティムさんにもだし、ええっと、私たちの上司?の方から」

 向かいの詐欺師が青白い顔をさらに青ざめさせて息を詰めていた。
 匙に手を伸ばしてから、子供はようやくザイロに向き直った。

「覚えてません……よね?私はナマエ・クーアバレス。先日懲罰勇者部隊に入隊しました」
「知らないはずが、ないだろ……!」

 ザイロは己の声の震えを自覚した。もはや平静を装う必要などないので、気にすることもない。

 ナマエ・クーアバレス。
 罪状は詐欺。扇動。そして、女神殺し教唆犯。
 《女神》セネルヴァの死にゆく様を絵におこし、広めて、混乱を起こしたクズとして勇者刑に処されたのだ。王国裁判では『その精巧な絵で、ザイロ・フォルバーツを女神殺しをするように唆した』とされている。そんな覚えはない……というか、それ自体は、どうでもいい。

 問題はこの絵の知名度だ。誇張でもなんでもなく、この絵を知らない人間はいない。王国の硬貨に刻まれたものの同じぐらいには有名な絵となった。
 ザイロの相棒の不名誉な姿を王国中に晒したのだ。あの、《女神》特有の炎が鎮まる様子は自分しか知らないはずなのに。はず、なのに……。
 ザイロは頭の中にもやがかったものを感じて、こめかみを抑えた。

「知っていてくれたんですか?でも、随分と前のことですよね」
「なんの、話だ?」
「私がセネルヴァ……様とザイロ様に助けられた時の話ですよ!あの時は」
「ちょっと待て。それは知らねえよ。俺はただ……、お前の絵が」
「私の絵ですか!?」

 ナマエが声を高めた。

「嬉しいです。セネルヴァの絵を見てくれたんですか?自信作なんですよ」
「ベネティム、二人にしろ」

 言葉をかけられたベネティムは一度几帳面そうな指先を緊張で丸めたが、自分のことではないとわかると露骨に気を緩めはじめる。

「あ、はい……それはもちろん……ごゆっくり」

 ベネティムが会釈をして、足を地面に擦るように後ずさる。ザイロの関心が自分に極力向かないようにする工夫は心得ているようだ。
 ザイロは尋問にでもかけるような口調で唸った。

「自信作だ?よく言えたもんだな。《女神》が死ぬ絵を描いて、広めるなんて……俺が言えたことじゃないが、イカれてるよ」
「よく言われます。でも描きたかったから。気持ちを込めて丁寧に仕上げました」

 眉を逆立てて、ことさら真面目そうに言うナマエに、ザイロは嫌悪感を抱いた。

 自信作。気持ちを込めて。丁寧に。ザイロはナマエの言葉を反芻した。
 拳の握る力が怒りにより強くなる。ザイロの脳裏にはいまだに残る、あの忌々しい裁判の情景がよぎる。もしかすれば、あの場にいた奴らにも劣るのかもしれない。
 たった少しの褒め言葉のために命を賭した《女神》……いや、相棒の奮闘を、大義も何もない子供が嘲弄とともに汚したのだ。

 ナマエはようやく人心地がついた様子で、匙の柄を掌で握り込むようにして持つ。ただ行儀の悪い姿にすら、ザイロの喉には何個か文句がのぼってきた。

「随分と恵まれた環境で育ったようだな」

 スープを一口飲み下し、ナマエはにこりと人好きの笑みを浮かべた。ザイロの凶相に全く気にもとめないようだった。

「はい!私には勿体無いくらいです」

 胸につかえる不快感をどうにかするべく、ザイロはいかにセネルヴァが素晴らしい《女神》だったのかを思い出そうとした。記憶の底をすくっていくうちに、ザイロは己の背骨に冷水が流し込まれていくような感覚に陥った。
 鳥肌のたつ腕を服越しに撫でて、無駄な行為だと悟る。

 言葉にするのも嫌なことだが、ザイロの記憶の中で、セネルヴァの全貌がすこし曖昧になっているのだ。水の膜が張ったように、姿がほんの少し揺らいでいる。
 蘇生の影響だろう、と思い至るのは一瞬だった。
 ザイロは気の迷いでナマエの絵をとっかかりとして頼りかけたが、止めた。死線を共に駆け抜けた相棒を他人の手で、しかもこの最悪な人間の手を借りて思い出すのはザイロ自身が許せない。
 しかし……。揺らぎ出す確固たる自信に、ザイロは頭を抱えた。

「畜生。どうせなら……俺が死ぬ絵でも描いてくれればよかった」
「そんな」

 ナマエが信じられないと言わんばかりに、非難がましい顔をした。

「ーーザイロ様が死んでしまったら意味ないじゃないですか!?」

 ベネティムが持ってきたのは悪い話題でなく、最悪な話題だった。ザイロが再び席を立つまでにはそう時間はかからなかった。

  

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