アズール・アーシェングロットは運動場に佇んでいた。アイロンをきちんとかけた運動着で身をつつみ、その白魚のような手には箒が握られている。
 遠目からすればやる気に溢れており、今にも青空に飛んでいきそうな様相だった。彼のシルバーの前髪が秋風にもてあそばれたとき、空をわずらわしそうにねめつけているところさえ目撃しなければ、の話だが。

 アズールは生粋の人魚だ。NRCに入学するまでの十数年間、北海の冷たい海水で暮らしてきた。
 陸に上がることに関して、アズールは肯定的だった。なんせ、海では知り得なかった学問を修められるし、自分の得た物がどこまで通じるのかも試せる。
 人魚とは昔からそういうものだ。伝説の海の王は陸のなにもかもを忌み嫌っていたが、その娘の世代なんかはたくさん陸のものを収集していたと聞く。陸は興味深い。飯も服も人間も興味深くて仕方がない。
 だが、人魚という“生き物”として物をもうしたい。ーー何故、自分たちも、空を、浮く必要があるのか。

 アズールはがっくしと肩を落とした。
 入学当時のアズールは、カリキュラムの中に“飛行術”という科目を見つけて目を剥いた。飛行術は名の通り、あの遠い空で“飛”ぶのだ。たまに普段から海に住んでいるのだから、水中で浮く感覚に散々慣れているのではないかと言われるが、全く違うのだ。ただでさえ陸を歩くのに苦労した上で、さらに浮くなんて!それが人魚にとってどれだけ恐ろしいことか、みんなわかってくれない。
 担当講師であるバルガスにも苦言を呈したが、歴代の先輩方も筋肉でどうにかなったと豪快に笑うだけだった。体幹の問題ではなく体感の問題なのだこっちは。苛ついて好物の唐揚げを食べてしまおうかと何度思ったことか。
 はたいては出てくるほこりのような無数の文句があるものの、アズールは、この場に飛行術の練習をしに来ていた。彼には逃げていられない理由があった。

 本日何度目になるかわからない、肺をつぶすほどに深いため息がこぼれそうになったところで、ぽん、と肩をたたかれた。振り向くと、臙脂色ーースカラビアの運動着を着た男が、眉を下げてはにかんだ。

「ごめん、タコちゃんお待たせ」
「遅刻ですよ、ナマエさん」

 ごめんてー、とナマエはまた詫びた。どうにも謝罪の気持ちが感じ取られないのは気のせいではないだろう。
 しかし、今のアズールはそこをつつく気はなかった。むしろいかに男の機嫌を取るかが鍵となる。
 なんせ、アズールは彼に飛行術を教えてくれと頼んでしまったのだ。この時間でどれだけ知識と経験を得られるかにかかっている。
 先にも言ったように、アズールはどれだけ己がこの飛行術を忌み嫌っていようが、座学の成績がよくないナマエに対して下手に出てでも、飛行術のコツをつかまなくてはいかない。
 今現在、アズールがオクタヴィネルの寮長として、九月の入学式に新入生を迎えてから既に二週間が経っている。つまり、来月に迫るマジフト大会の対策を立てる必要があったのだ
 寮長たる自分の体裁を保つ程度には飛べておきたいし、メンバーの指導を行えるようにはしたい。箒一本さえ扱えないと馬鹿にされてはたまったものではない。

「悪かったって。ちょっと縄探すのに手間取って」
「縄だと?」
「これこれ」

 アズールは目を見開いて、フロイドたちの前でもめったに上げない素っ頓狂な声を上げた。そんなアズールを気にすることもなく、ナマエは当然のように縄を掲げた。

「で、お前の箒をこっちに渡しな」

 にゅっと差し出された褐色の手にアズールは反射的に箒を押しつけた。
 「意外ときれいにつかってんな」とさも宝石商かのようにアズールの箒を検分するナマエの様子を、アズールはまじまじと見てしまう。不意に風にふきつきられた草のざわめきが、不穏なものに思えた。
 ナマエのお眼鏡にかなったのか、彼は得心したようにうなずくと、アズールの箒の先に縄を結びつけた。そして、縄のもう一方にはあらかじめ自分が持ってきていた箒にぐるぐると巻いていく。
 なにをするつもりかの察しはついてしまった。しかし、アズールは否定して欲しい一心で口を開いた。

「ナマエさん、それは……?」
「ジャミルともやってたんだけど」その前置きにアズールが目を輝かす暇もなく、ナマエは続けた。「タコちゃんにはとにかく浮くことに専念。そんで、俺が空を飛び回るから、ひたすらその風圧とかに揉まれてもらう」
「はぁ!!?なんで!!?」
「体が空中にいる感覚をならすんだよ」
「ジャミルさんもやってたんですか?そんなことを!?」

 ナマエのうなずきに、アズールの背中ににわかに冷や汗がふきだして、目の前が暗くなった気がした。決してあの青空に浮かぶ太陽が雲に隠れてしまった、というわけでもないのに。
 見てくれがすごいアクロバティック犬のお散歩だとかいうどうでもいいことがよぎったり、ジャミルの意外な練習法への驚愕やらで頭の中はぐちゃぐちゃだった。しかし、ひときわ大きいのは「どうしてこの男に頼んでしまったのか」という後悔だ。
 しかしこのナマエは飛行術の成績は二年生ではトップクラスだったし、なんとジャミル・バイパーの従者なのだ。飛行術の話を聞くついでにあわよくば、ジャミルの弱み……まではいかずとも、有益な話が聞けたりしないかと企んでいたのだ。
 ナマエの言っていることを実践されたら、そんな隙すらも与えられないだろう。

「お前は浮くことに集中してくれたら良いんだぜ」

 にやりと白い歯牙を見せて、意地の悪い笑みを見せるのは、単にアズールの恐怖心を煽っているのか。気持ちの余裕が普段の百億分の一にまで狭まったアズールには判断しかねた。
 ただし、気持ちの余裕がなくとも目敏さは折り紙付きだった。意気込むナマエが袖をまくった瞬間、アズールは面食らった。ナマエの袖から覗いた褐色の腕には、包帯がきっちりと巻き上げられていたのだ。

「君それなんですか?」
「それ?」
「その包帯ですよ。説明を求めます。教師役のコンディションが整っておらずに半端な授業をされても困りますからね!ええ!」

 どうでもいいじゃないかと返される前に、アズールが釘を刺すとナマエは表情をくもらせた。

「今日階段から落ちたんだよ」
「それ大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ。折れてもない」

 ナマエは手を振ってみせた。

「どの高さからどう落ちたんですか?」
「降りようとした瞬間だから、一階分じゃねえか」
「一階、分……」アズールは思わず、一、二歩ぶん後ろにずり下がった。ぐりぐりと土が靴にまきあがるのも、今は気にしなかった。「僕に重大な怪我を隠してるとかありませんか?」
「ねえよ!」
「本当に?」

 言及しようとすれば、ナマエは先ほどまでアズールに向けていた鋭い視線を素早く向こうにやってしまった。

「契約ですよ。君、欲しいものがあるんでしょう」

 ナマエはぎくりと肩を揺らした。アズールはこの言葉に手応えを感じた。
 アズールが講師役としてナマエを選んだのは、成績や立ち位置だけでなく、その性格を信用しているからだ。雑な性格はしているが、損得勘定で動く。対価以上も以下の労働もしない。わかりやすいし、こちらも対応しやすい。ジャミルが彼を従えている理由も、そこにあるのだろう。
 ナマエはアズールの瞳をしばし見つめると、やがて深く息を吸い、諦めたように口火を切った。

「落ちた後に……受け止められたんだよ」
「は?」
「だから!足を踏み外して、床にぶちあたりそうになった時、受け止められたの!だから大した怪我がねえの!」
「はぁ……」

 ナマエは威勢良く叫んだが、その顔の赤さは耳まで広がっている。

「どこの誰かとかわかります?」
「腕章つけてねえからわからなかった」ナマエは片手で口元を覆った。「こんなこと話したくなかったぜ」
「お気持ちはわかりますけど」

 ねぎらいでも同情でもなく、本心だった。
 まず見知らぬ誰かに受け止められた、というシチュエーションが恥ずかしい。それに、見知らぬ誰かに“助けられた”というのが後味が非常に悪い。
 アズールもナマエもその辺りは似ている節がある。誰かに恩を売りっぱなしという状況は弱みを握られている気がして落ち着かないのだろう。あとでふっかけられると困る。
 それはそれとして、アズールにとっては他人事だ。話としては少し、面白い。

「王子様、みたいですねぇ」
「王子様だぁ!?」

 思わず声がうわずるナマエに、アズールは人好きのするような笑みを浮かべた。

「そうでしょう?自分の危機にさっと助けてくれて、見返りなんてもとめないおひとよ……善人なんですから。人探しをしたいなら、僕に声をかけてください」
「気が乗ったらな」ナマエは、アズールと目を合わせると、そのままアズールの肩をつかんだ。「ーーそれで、タコちゃんよ。俺たちは別に雑談をしに来たワケじゃないだろ?」

 アズールはにっこりと笑みを保っていたが、喉がひくりと引きつくのを感じた。

「大丈夫だよ。俺は、できねえことをできるまで叩き込むの得意だし、きちんとした約束ごとは守る主義だぜ」

 アズールはその日一日祈り続けることになった。どうか運動場に響いた悲鳴が、オクタヴィネル寮のアズール・アーシェングロットのものであると気づく者がでないように、と。                               

  

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