「大変大変大変!!」と、シャベルやすずの濡れた声が遠ざかっていく。
 槍使いの少女が駆け出した彼女たちに向かって伸ばした手は、クロムが投げた壺の破片で遮られた。少女は槍を小脇に抱え直し、肩を竦めた。

「逃げられましたね、貴方のせいで」
「ハハ!よそ見するからだろ、……!!?」

 ふと、視線が酒蔵内部に向けたクロムは目をむいた。
 割れた酒壺の破片の中に、此処には相応しくない、青々としたスイカがちょこんと一つ鎮座している。自分の想像通りであれば、あの中には少女の方の“スイカ”が体をおさめているはずだ。
 どうして逃げなかったのか?自分を気にしてだろうか?
 人の役に立ちたいという強い意志を常に持っている彼女のことだ、きっとそうなのだろう。
 額から滲んだ汗が、クロムの鼻筋に垂れて、顎まで伝っていく。手札が一枚増えたことはありがたい、のだが、どうしたものか。彼女と同じく長物を持っていればもっとやりようはあったのだが。

「うぉっ!?」

 クロムはまた体を大きくのけぞらせた。視線を切るように、文字通り“横槍”が入った。

「よそ見ですか?随分と、余裕があるようで」

 額を目掛けて穂先がうなりをあげて迫りくる。クロムは後ろに大きく跳ねて、なんとか逃げおおせた。

「あっっぶね!?」
「それでは私の槍は避けられませんよ」

 無いものねだりをしている時間はなかった。クロムにとっては十年にわたる探索から培われた、己の観察眼だけが武器だ。彼女の手札を打ち砕くには、まず、彼女の手の内を考えなくてはいけなかった。

「テメーは、随分とお喋りなんだな。集中できてねぇんじゃねえの。バカの一つ覚えみたいに突きばっかりで……」クロムは、再び酒蔵を見渡して、閃くものがあった。槍使いと見ただけで心底絶望していた自分がバカらしく思えてきて、ハハ、と口から勝手に笑い声が溢れた。「そうか、狭ぇから振り回せないんだな!?その棒切れを!」

 少女はあからさまに不機嫌な顔を見せると、また槍を突き出した。
「ええそうです。それがわかったところで、避けられるんですか?」

 遅いな、とクロムは自然と思った。
 すでに何度も見てきたそれに、すっかり目が慣れていたのだ。少なくとも、コハクや金狼のような疾さは彼女にはない。真っ直ぐに腹部を狙う穂先を、横転して避ける。

「ク、クロム」

 転がった先で、スイカが殻の中から自分を呼んだ。声がこもっていたが、おさなげで今にも泣きそうな色をおびていた。しかし、スイカは十分“動ける”人間だ。
 クロムは肉薄する少女に背を見せて、頭を数度叩き、喘ぐように呟いた。

「スイカ、俺が、一瞬だけあの槍を抑えるからよ、スイカは頭のそれをあの時みたいにーー」
「敵に背中を見せるとは、良い度胸ですね。大人しく死んでくれます?」

 言いつつ、少女はクロムの顔も見もせずに、槍を構え直して、その視線をクロムの腕のあたりに落とした。
 戦闘に慣れた人間は決まって急所を狙う。次は首か脇だろうか。狙いが分かれば、こっちは必死で逃げれば良い。動きを見るな、呼吸を聞け、心臓のうるささに気を紛らわすな。一瞬で、勝負が決まるのだ。

 どっ、と鈍い音が響く。
 その穂先が、クロムの小脇にーー詳しく言うのならば、小脇すれすれのところで、地面に深々と突き刺さっていた。
 少女はすぐさま槍を引き戻そうとするが、浮きかけた槍の柄を、クロムが両手でかき抱いた。

「スイカッ!!」

 言うが否や、緑の影が視界の端を走る。

「う!?」

 少女の悲鳴ににやついてる場合では無い。クロムは突進するようにして、少女を抱え込んだ。

「捕まえたぜッ!」

 勢いよく張り倒された彼女は、“被されたスイカの殻”を地面に擦り付けながら、うめいた。まずは、……まずは武器を取り上げなくてはいけない。
 先ほどは不意をついた形で襲ったが、彼女は槍を握り込んだままだった。クロムがその手袋で覆われた指を一本一本持ち上げて、剥がそうとしても、敵わない。そこは彼女の矜恃が勝るのか。

「ゴリラみてーな力だな……コハクかよ……」

 思わず悪態を吐くと、指先がぴくりと震えた。

「な、なんだよ!?キレたのか!!?」
「始まった」
「あ……?」

 言葉の意味を考える前に、クロムは深く呼吸をした。蔵を覆う酒のにおいの中に、何かが焦げたような、苦いものが入り込んでいる。しかも、魚が焼けたような香ばしいものではなく、少し淀んでいた。
 普通では無い。何かが、燃えている?いや、“何が”燃えてやがる?
 嫌な予感は悲鳴という形となって、クロムの耳に届いた。

「おい、おいおいおい!嘘だろ!?」

 とっさに振り仰いだクロムは燃え上がる赤い炎を見た。そこから空を覆わんばかりに黒い煙立ち上がっている。頭が割れてしまいそうなほどの悲鳴が、再びクロムの耳に届いた。あれは誰の声でと、嫌な妄想が広がりそうな思考を打ち切るのに、どれほどの苦労が必要か。
 反吐が、出そうだった。

「テメェの、お仲間が、やったのかよ」
「……ええ、そうです」

 だからどうした、と言わんばかりの平坦な調子に、クロムは自分の脳に熱が逆巻くの直に感じた。
 すべての人間に平等にという、ひたすらに科学の復活を願い努力する千空と、同じ時代に生きた人間の所業とはとうてい思えなかった。弱者をただただ抑圧しようとする、その残忍さは彼の軌跡さえ汚すものだと叱咤したくなった。

「何も!ここまですることはねぇだろ!」
「……」
「なんとか言いやがれ!」

 クロムが少女の胸ぐらを掴み上げて、そのままスイカの殻を脱がせた。声をあげたのはクロムだった。そこに殺気立った青い瞳はまぶたで閉ざされており、クロムの掴んだ襟元を頂点にぐったりとした頭が垂れていた。

「お、おい……?」

 意識が落ちているのか、頬をつついても肩を揺すっても、反応がない。ごとり、と足下から音がした。目をやれば、あんなに離したがらなかった彼女の槍が、あっさりとそこに横たわっている。
 ここは、狭い蔵だということをクロムは思い出した。
 外からの煙が流れ込んでいるし、彼女は通気性の悪いスイカの殻を被っていて……。

 も、もしかして。
 クロムが胸の内でひやりとしたものを感じた、次の瞬間だった。

「甘いですね」
「い”ッ!!?」

 クロムの右のこめかみに大きな衝撃が走り、クロムの体は吹き飛ばされた。
 倒れ込んだクロムは、激しい痛みに苛まれる頭を抱え込んだ。上体をかろうじて起こし、焦点の合わない視界の中で、目の前の影ーー少女が屈んで、槍を引っ掴む様子をとらえた。

 クロムが油断したところを狙い、彼女は起き上がる弾みで頭突きをかましてきたのだ。

「私は引きあげます。ここに火が回るのも時間の問題ですから」
「ま、待てよコラ」

 ひっ捕まえてやろうと伸ばした手を、クロムは下ろした。彼女が引き上げるのならば、おいすがる必要は無い。今は、村民の避難が優先されるべきだ。
 後ろのスイカに呼びかけて、クロムは外へと駆け出した。

  

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