初春を迎えてから数日後、氷月は稽古始めのために道場へと赴いた。
 一月の冷気は容赦がなく、門下生一同はかじかむ手足をストーブであぶりつつ槍を振ることとなった。だからこそ休憩時間ともなればみんながみんな、半畳ほどの石油ストーブにこぞって集まり、暖をとる。熱源の目の前ーーストーブの一番暖かい場所は、道場で最年少である氷月の特等席だった。
 いつもどおりならば、の話である。

「……」

 氷月は自分の右手側にそっと目をやった。そこにはまるまるように座り込み、オレンジのあたたかな光を一身に浴びて、気持ちのよさそうに目を細める少女がいた。彼女は氷月の妹、ナマエである。
 道着の集団に混じる彼女の私服姿はひどく浮いて見えた。しかしながら、妹は門下生ではないので当然のことである。

 母曰く、どうしても外出しなければならない用事があったが、家にナマエ一人は置いていけない。だから、この道場で代わりに預かって欲しいのだと。
 他人、ましてやろくに喋れないような子供を道場に迎えれば、稽古の邪魔になるため誰かが断るだろうと氷月は踏んでいたのに、誰も嫌な顔をしなかった。それに師範に至っては「氷月お兄ちゃんもいますしね」と機嫌よさそうにうなずいていた。
 氷月が本当に大丈夫なのかと問えば、この道場は誰にでも門戸を開くし、ましてやその子が弟子の身内ならば当然だと、と重ねられてしまい、妹の子守りを受け入れる他なかった。この道場の精神には逆らうわけにはいかない。

「氷月くん、氷月くん」

 背後から声をかけられて、氷月は咄嗟に顔を振り仰いだ。そして、おや、と首を傾げた。姉弟子が、稽古用の木槍を持って立っていた。

「なんですか」
「みんなでダルマ落としするけど一緒やんない?」

 倉庫を整理するついでに漁っていたら積木セットとダルマを見つけたらしく、昼休みはそれで遊ぶことにしたのだという。楽しいよ、と誘う姉弟子の笑みに、氷月はまずなんてくだらないことだ、と思うのだった。彼らは正月気分がいまいち抜けていない。

「……やりません。妹がいるので」
「そうだよねー。あっ、ラスクあるからあげるね。妹ちゃんと食べなよ」

 もともと参加するつもりもなかったのだが、彼女は妙に納得した風にうなずいた。それから氷月に、ちょうど彼の手にすっぽりおさまるほどの小袋を一つ渡して、駆けて行った。既に場を整えていたらしく、小さなダルマ落としを道着の大人たちが囲んでいた。「一番槍俺ー!」「いいぞー!」「できるかー!?」などと、応援も罵倒も遊びの華として咲いており、大いに盛り上がっている様子だ。大きく空振った木槍がぶおんと、うなった。

 隣の妹が、落ち着かなそうに動く気配に、氷月はどうするか迷った。
 妹のナマエに対して、氷月が抱いているのは「ああ、なんかいるな」という、近所の野良犬や猫に対するような微妙な関心のみだった。大体母が彼女の相手をしていたし、自分は稽古やら学校に勤しんでいたからだ。言語化できない、だだを捏ねる泣き声ばかりあげている、というのが氷月の持ちうる、彼女の情報だ。
 自分のことも、正直兄だとわかっているのか怪しい。

「ラスク食べるか?」

 確か、アレルギーは無かったはずだ。お菓子も好きな、はずだ。
 氷月が一枚差し出せば、ナマエは無言で、氷月の顔を見つめながら受け取った。ラスクを持ったその指には砂場の貝殻のように小さな爪がついている。

「……」

 ナマエはラスクを持ったまま、動かない。正確にはまだ氷月の様子を伺っている。氷月が口を開こうとすると、ガツン、と強かに硬い物がぶつかる音と、「やったぁ」と誰かが叫んだ快哉が二人の間に差し込まれる。
 ナマエの眼差しが、一瞬そちらに向いたが、また氷月を見つめ出した。何を言いたいのか、わからない。
 氷月の訝しげな視線を注がれていたナマエは、空いた手を氷月にそっと伸ばした。

 ふと、氷月の頭の中で浮かんできたのは母がよく彼女を抱いてやったり、買い物のときには手を繋いでいる様子だった。どこかに行かないようにと、母からやっているようだったのだが、彼女にとっても何か良い意味があるのだろうか。
 氷月は伸ばされた手を握り返してやった。ナマエは氷月の手を離すまいと、小さな指に一つ一つ力を込めた。

 そしてその小さな口をやわく綻ばせると、持ったままだったラスクを運び始めた。パンの耳のあたりを前歯でちびちびとかじる姿はなんと形容してよいものか。ネズミ?リス?それにしてはずいぶんと食べるのが遅い。

 次の瞬間に、道場を震えさせるほどの歓声が上がった。見れば、首だけになった達磨が畳の上で鎮座しており、あたりには達磨の胴だったものが散乱している。上手いこと落とせたらしいが、自分ならもっと静かに、綺麗に落とせるのに……、氷月がそう考えているうちに、妹の握ってくる手の力がぐっと強まった。

「ナマエ?」

 振り向くと、ナマエとは視線が交じることはなかった。彼女は肩越しに、彼らの賑やかな様子を見ているらしい。

「……見たいのか?」

 ぶんぶん。彼女は首を振った。

「やりたい?」

 ぶんぶん。彼女はもう一度、首を振った。

「やって!」
「“やって”?」氷月は、妹が明確に口を聞いたことに、そしてその紡がれた言葉自体に瞠目した。「あの、ダルマ落としを?」

 うんうん。今度こそ彼女はうなずいた。

「僕がやっているところを、見たいのか」

 氷月の発言の意味がわかっているのか不明だが、氷月は確かめるようにゆっくりとたずねた。ナマエは食べていたラスクを口から離すと、また頷いた。

「氷ちゃん」

 ーーと、本人は言った気になっているのだろうが、実際には「ひょーちゃ」などというなんとも気の抜けた発音になっている。
 氷月が返事をしないままでいると、ナマエはまた繰り返した。氷ちゃん、とは母がたまにふざけて自分をそう呼んでくるのだが、彼女の膝に乗せられていたナマエはそれが氷月のあだ名だと分かっていたのだろうか。

 ナマエがまたラスクをはむ、と咥えて、唇を軟体動物にように動かしながら、それを咀嚼していく。その内にダルマ落とし第二回戦が始まり、彼女の視線がそちらへ流れていった。
 とんとん、と足でリズムに乗った兄弟子が、腰をひねり、思いきりダルマの胴を弾く。ヘタクソだ、と氷月は勝手に判じた。
 このままナマエの思考までも、あの連中に染まってしまいそうだ、と思うとどこか不快だった。

「わかった。僕もやる。ナマエが、それを食べきったらな。食べたまま何かしようとしたら、危ないから」
「ん」
「うわ、ぜんぜん進んでないじゃないか」確認すると、まだ外側のパン耳のところが四分の一ほど剥がすように、食われているだけだった。「君を待っていたら昼休みが終わりそうだ。というか砂糖ついてるし」

 妹の顎やら頬にはラスクの砂糖粒がきらきらと光っており、氷月は素手で軽く拭ってやった。ナマエはされるがまま、丸い目をさらに丸くさせて、氷月を見上げている。

「ナマエ」
「うん」
「……僕のほうがちゃんとしているから、見ていろよ」

 ぱちり、と氷月だけを映した瞳がまばたきをした。途端に水っけを帯びたそれは、ストーブの光を受けてキラキラと輝いている。氷月はそこに、兄の自分への期待が滲んでいると思えた。

  

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -