最近免許を取ったばかりなのだと言う兄弟子の車は、危うい足並みであぜ道を走っていた。助手席でナビゲーター役を買って出た姉弟子は彼の腕の悪さへの文句を口にしつつ、氷月たちの方へ体をむけた。

「ごめんね、ガッタガタ揺れちゃって。二人とも酔ってない?」
「大丈夫です」

 子供向けの、わざとらしく和らげた声に、氷月は淡々と応じた。
 傍らの妹ーーナマエは、車の窓を全開にして、その縁に額を預けていた。乗車前は誰よりも楽しそうにしていたはずだが、今や見る影もない。覇気を失った背中は、ナマエの呼吸に合わせてゆっくりと上下していた。眠っているのか、それとも喋る余裕のないほど酔っているのか、氷月には預かり知らぬところである。
 外から入ってくる生温い空気が、煩わしさと、七月末の夏の盛りを思わせた。

 氷月とナマエの通う道場は定期的に親睦会を開く。夏で言えば、夜に集まって花火をしたり、川でキャンプをしたり、そして、今日のように海水浴に興じたり。
 氷月としてはそう言った行事は至極どうでも良く、両親や師範に勧められてもあまり気乗りしなかった(もちろん遠征や合宿ならば話は別だ)。しかし、ナマエが行く気となれば氷月のスケジュールは一気に書き変わる。なんせ、兄である自分は保護者役として駆り出されることになる。
 「お兄ちゃんが一緒に来てくれるなら、行って良いよ」といつだか言い出した母には恨みしかない。なんせあの妹の粘り強さは筋金入りだ。毎朝毎晩、氷月を捕まえては説得しようとしてくるのだ。根負けしてしまえば、あとはトントン拍子で話が進み、今に至る。
 「氷月くんは来ないよね」と確信していた大人達は、妹を引き連れて参加するようになった己に対して、そりゃあもう微笑ましい顔で出迎えるようになった。

「ナマエちゃんはもう夏休みの宿題に手ェつけた?」
「絵日記だけ、ちょっと」
「うわ絵日記だって!懐かしい!氷月くんも描いてんの?」
「僕の学年ではもうありませんね」
「氷月はもう高学年だもんな」

 間に入ってきたのはあぜ道に悪戦苦闘中の運転手である。そっちに集中したらどうだろうか、と言う気持ちを込めて、氷月は相槌を打たずに窓の景色に意識を向けた。だんだんと緑は少なくなり、○海水浴場まで後八百mと書かれた看板が見えた。
 氷月を除いた三人は、まだ夏休みの課題について話している。大学生にはそんなものがないだの、手をつけるのはいっそ始業式の日で良いだとか。

「自由研究ダルかったなー。あ、ナマエちゃんは算数ドリルとかちゃんとやるタイプ?」
「ちゃんとって?」
「いや、ちゃんとやるだろ。氷月の妹ちゃんが答え見ながらやるとか考えらんねーわ」
「あは、わかる。お兄ちゃんに怒られそう」


 勝手に話を進めて行く前列の二人は、クスクスと笑い声をあげた。意図がわからなかったらしいナマエは、「え、答えって見て良いものなの?」とまだ疑問符を浮かべたままだ。

 話に入りはしなかったものの、氷月にも苦手と感じていた課題はある。それは絵日記だ。なんせ、氷月には管槍の稽古や試合の記憶しかなかった。友達と遊ぶと言うこともなく、遠くに出かけるのはせいぜいお盆ぐらいだ。そんな自分だから、全ページを稽古したの一文で済ませようとしたら、担任に呼び出されたこともある。結局どう対処したかまでの記憶はないものの、とにかく苦手ーーと言うより、面倒だった意識が強かった。


 氷月達の車は、飲み物の運搬担当だった。車から降りてからは兄弟子らが重たそうに肩にクーラーボックスを、そして両手にコンビニ袋を持って、彼らの荷物を子供の氷月とナマエが抱えて、真夏の暑気に苛まれながら歩いていた。

「お酒お待たせでーす!」

 簡素なコテージの前で、テントやらバーベキューセットを組み立てている集団に向かって姉弟子がそう言えばわっと歓声が上がる。

「あ、肉乗せてる奴の車ちょい遅れるって」
「まじか。炭起こしとく?」
「師範渋滞に巻き込まれたって〜」
「もう野菜とかマシュマロ焼こうよ」
「海の家でなんかないか見てくるわ」

 人数がある分口が増えるし、話題が増える。荷物を下ろした氷月とナマエが身の置き所に困っていると、ひょっこりと、知らないーー門下生なのだろうが、単に氷月が覚えていないだけであるーー男がナマエたちに向かって「君たちは泳いできて良いよ。肉焼く時に呼びに行くから」と言って、バーベキューコンロの炭をいじり始めた。氷月たちには仕事がない、と言うことである。
 言われた途端に隣の妹からの視線が一層強くなる。そりゃあもう、餌を前にした犬のような期待に満ちた輝きを感じる。本当はコテージの部屋で適当に休んでいたかったが、そうもいかない。妹の赴くままに付き合ってやるのが、保護者役の務めだ。

「それで、何したいんだ」

 無理やり被された、麦わら帽子のひさしを不満そうにいじっていた妹は、白い砂浜を指差した。

「穴掘りたい!」

 日がまだ高く、車から降りて数分だと言うのに、既に額から汗が滲んでいた。それに足を進めるごとに、柔らかな砂に足をとられてイライラする。水平線から離れた熱々の鉄板のような砂浜にわざわざ腰を据えようとは思えず、せめて涼しい場所で遊ぼうと、氷月はやっとの思いで妹を波打ち際まで誘導した。

「穴を掘るのか?」
「掘るよー、兄さんも手伝って」

 ナマエは両膝をついて、手をシャベル代わりにして砂浜にせっせと穴を掘り始める。掘るごとに海水が染み出してきて、穴にあふれてくるので、ナマエはまたそれをかきだしていく。
 どこが面白いのか。そんな疑問は意味がない。
 妹はまだ下級生だった。想像性もゲーム性もない行為に面白さを見出すような、そんなお年頃。したいようにさせてやるのが一番面倒なことが起きないと、 氷月の経験が物語っている。

「どこまで掘るんだ」
「出来るだけ深く!」
「あ〜……まずは水を抜いたらどうだ」
「じゃあ兄さん水抜いてー」

 私は掘る、と妹は穴に身を乗り出して海水を吸って、どろどろになった砂をかきだしていく。手でかきだすと効率が悪い気がして、氷月は新品のサンダルを脱ぐと、それをシャベル代わりに水を外に流していく。
 ふと、顔をあげるといつの間にか妹も自分と同様に靴を脱いで砂を掘っていた。視線に気づいたらしい妹が、氷月に向かって目を細めた。


 妹の砂遊びを止めたのは、「よー」とそれは間延びした男の声だった。

「ちびっ子チームは楽しそうね」
「あ、おじちゃん!お肉きたの?」
「そうそう。スイカもあるよ」

 持っていた泥の塊を放り出して、ナマエが身を跳ね上げた。
 おじちゃん、と呼ばれた男は四十路ぐらいだろうか。父よりも老けているが、それにしてはしまった体をしていた。ナマエが懐いているようだし、うちの門下生なのだろう。氷月は形ばかりの挨拶をした。
 彼はしげしげと氷月の手元を見ると、得心したようにうなずいた。

「二人で砂遊び?」
「ひたすら穴掘ってました」

 事実を述べると、彼は苦笑した。

「えぇ、なんで?」
「僕にもわかりませんけど、楽しそうにしてましたよ」
「あと泥でおにぎりも作ったよ」
「そっかぁ、後でどんなのか見せてね」
「おじちゃんも手伝って」
「おじちゃんはお酒飲む係するからお兄ちゃんに頼みなね」
「……」

 しれっと厄介ごとをパスされてしまった。

「あ、そういやナマエちゃんの好きなアイス買ってきてるよ」
「やったぁ!ありがとうございます!」ナマエが帽子が浮く勢いで、両手をあげた。
「でも私、好きなアイスっていつ言ったかな」
「氷月お兄ちゃんがナマエちゃんの話ばっかりするからなぁ。覚えちゃったよ」
「ーーそうでしたか?」

 思わず、氷月は二人の会話に割って入った。男は気にした風もなく、顎髭を撫でた。

「え、そうだろ?この前アイス奢った時に妹とアイスのことで喧嘩したって急に話し始めてたよ」

 氷月がつい、と視線をやると、妹は不思議そうに首を傾げた。
 アイスといえば確かに、氷月がなんとなく食べたアイスが彼女の大好きなアイスのメーカーだったとかで、一方的になじられたことはある。そして、その日の晩ご飯が彼女の好物のかぼちゃコロッケだったから、寝る頃には頭からアイスのことがすっかり抜けていて、「兄さんおやすみー」と喧嘩していたはずの自分に呑気に言ってきたことも、覚えている。

 氷月は、自分でも意外だった。自分には管槍の記憶しかないと思ったのに、存外この妹との思い出が多いらしい。

「兄さん、お腹空いたね?」妹が暑さで真っ赤になった頬を緩めた。「ごはん食べたら、泳ぎに行くよ」
「わかったわかった」
「あのね、波を飛び越えながら入るの」
「転けないか?」

 氷月には妙な確信が浮かび上がった。
 自分は思い出に関する容量は、人よりもずっと空いている。だからこそ自分を真似て靴で砂浜を掘った彼女の笑みも、水面で楽しそうに跳ねるだろう彼女の姿を、いつまでも忘れられないだろう。

  

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -