ナマエは玄関口で靴を脱いで、足音を殺しつつ自室へと駆け込んだ。
 そして、扉の向こうの光景に、ナマエは目を見張った。

「にぃ、さん」

 ナマエの呼びかけに、氷月ーー兄は「なんだ、早かったな」と一言。彼の視線はその手元の漫画に下りたままで、先ほどの一言は生返事に近かった。いや、なんでいんの。何してんの。その漫画私のだけど?ナマエの疑問は尽きなかった。
 なんせ兄は妹のナマエのベッドを我が物顔で椅子にして、あまつさえ本棚の漫画まで勝手に見漁っている。これに対して文句が出てこない人間はいないだろう。

「道場は今日休みだっけ?」
「今日は空いてる」兄は気怠そうに、眉間をもんだ。「当然、キミは知ってるだろう?ナマエ」

 ナマエは言葉に詰まった。図星だったし、何より兄の意図を察してしまった。
 兄は、ナマエを稽古に連れ出すつもりなのだろう。

 ナマエは幼い頃から兄と共に管槍を習っている。稽古を行かない日は道場が閉まっていたり、よっぽど天気が悪いだとか、病気をしただとかだ。故意にサボったのはこの数日が初めてなのである。
 この数日間で兄から何も言われることはなかったのだが、いよいよ堪忍袋の緒が切れたらしい。ちゃんとしなさい、が口癖の彼なのだから、こういう時は遅かれ早かれ来るとナマエは予想出来ていた。……出来ていただけで、対策も何もしていないのだが。

「とりあえず、そこに座りなさい」

 兄がベッドに座り直し、顎で床を指した。全く、良い性格している兄である。不満の気持ちを表情で露わにしつつナマエが目の前で体育座りをした。
 兄は腕を組むと、口火を切った。

「それで、僕が来た理由はわかっているな?」
「最近休んでることでしょ?あー……、道場のみんな心配してた?」

 ふとナマエの頭に浮かんだのは師範や兄姉弟子、新しく入門してきた子など、道場の人間だ。まだ未熟なナマエを根気よく指導してくれる彼らは、とても優しく、ナマエの休みをいたく気にしているのかもしれない。

「はぁ?」兄は目を開き、本気で意味がわからないといった風に、素っ頓狂な声をあげた。「それは知らない。どうでも良いし」
「えぇ……」

 思わず呆れてしまったが、兄らしいと言えばらしい。兄は、実力主義というか、基本的に師範級以外の人間への興味が極端に薄いのだ。

「僕が聞きたいのは、キミを稽古に休ませた原因は何かってことだ」
「サボりだとか考えないの」
「それはない」

 断定系のそれに、ナマエはすぐに口元を手で覆った。信頼ある身内の言葉に、口の端が緩んでしまった。しかし、悟られたくはない。恥ずかしいではないか。

「僕の知らない内にーー例えば、学校で何かあったとか」
「……まあ、そうだけど」
「なるほど」

 ナマエは兄がにわかに眉根を寄せたのを認めると、口先を尖らせた。

「言っておきますけどね、兄さん。中学生同士の喧嘩に割って入らないでよ」

 兄は人間関係のトラブルを、暴力で済ませようとする悪癖がある。ナマエは実際に、サボりまくっていた門下生に対して兄が殺意バリバリで「殺しますよ」と脅した姿を目の当たりにした(後で冗談と笑ったが、あの時門下生が土下座しなかったらどうなっていたものかわからない)。
 そして、一応血の繋がったナマエに対しては一定の情を持ち合わせている。
 これらから導き出されるのは、つまり、兄に何も教えないのが一番得策だ、と言うこと。

「それは内容次第だ」
「じゃあ言わない」

 兄が、「へぇ」と笑みを深めた。
 ナマエは本能的に、どうにも余裕綽々で、どこか楽しそうなこの兄の声色に違和感を覚えた。ハッとして、改めて自分と兄の体勢を省みた。
 体操座りでまったりとしていた自分に対して、兄はいつの間にかベッドに浅く腰掛けていた。つまり、いざ逃げようにも体格によるリーチ差と、体勢的にナマエはどうしても兄よりも初動が遅れるのだ。

「実力行使に出ても言わないから、兄さんのデコピンにだって耐えるし」
「ハハ、じゃあ兄と楽しく一時間耐久くすぐりゲームでも」
「サイアク!サイテー!」
「照れる」
「誉めてないけど!?」
「まぁ冗談は置いておいて」兄が首を傾げた。「僕を愚痴相手と思って、話してみたらどうだ」

 提案の形だったが、ナマエからすれば脅迫めいた響きがあった。なんせ、ナマエが言わなければこのまま何日も似たような攻防をしなければならない。
 ナマエは兄の挙動に注意を払いながら、発した。

「指が、気持ち悪いって言われたの。女のくせにボコボコしてるって」

 兄の眉間のしわが目に見えて深まった。
 ナマエのこの手は、十数年槍を振っていた手だ。普通の中学生と、ましてや国語の辞書以上に重たいものを知らないような子たちと比べれば皮は厚く、まめで歪な見てくれをしていた。ナマエ自身そう気にしたことはなかったのだが、言われてしまうと心に突っかかるものがある。

「なるほど凡夫に浅はかな言葉を投げられたと」
「凡夫て」

 ナマエは苦笑した。兄はよく自分が興味を持てない相手に対してそう呼ぶ。まさか自分のクラスメイトに適応される日が来るとは。
 兄は至極真面目そうに頷いた。

「凡夫だ。詳細を聞かなくてもわかる」兄は「良いか」と、どこかナマエを諭すように続けた。「キミのその手は、十数年来の連綿とした努力の証だ。それを理解しないのは脳が溶けた愚かで、キミの気持ちを踏みにじり、キミの時間を搾取するただの蛆虫だ。生きる価値がない」
「い、言い過ぎじゃない?」
「じゃあ何故稽古に来ないんだ?少なくとも、キミがその凡夫の言葉に囚われたと言うことに違いないだろう。事情は分かったが全く、腹が立つ」

 兄は項垂れて、大きなため息をこぼした。一方で、ナマエはまた口元を隠す羽目になった。
 管槍に血道をあげている兄への信頼は、どうやら自分の想像を超えていたらしい。兄が、自分を肯定してくれた。この事実だけで、クラスメイトから手のことを指摘された時に味わった、苦いものが一気に押し流されていったのだ。

「僕は今から稽古に行って来る。ナマエはどうする?」

 答えがわかりきったような問いを、兄は愉快そうに口にした。


「ーーあ、ちなみにその凡夫の名前は?」
「お、教えない」

  

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