13
息を吸えば、胸いっぱいに冷気が浸透していき、ジャックは身震いした。涙も汗も、こぼれた途端に凍ってしまうのではないかと疑いたくなるほど、このサバナクローは突然の冬の波に脅かされていた。
幸いにして自分は狼の毛並みを持っているし、冬には故郷でウィンタースポーツを嗜む程度には寒さに慣れている。まあ、まさか、学園生活においてこの懐かしさすらも覚える冷たさを味わうことになるとは、ジャックは想像だにしなかった。
フェアリーガラ、という妖精たちの祭りが植物園で開催されるためらしい。なんでも、魔法石がその祝祭のために持っていかれたのだとか。
魔法石は学園を運営する上で欠かせない品物だ。その石が魔力を供給することで、マジカルペンの行使を手助けしたり、妖精らに力を借りることができる。
石を紛失したことでまず問題として上がるのが、魔力の供給が滞ったことで、この学園の妖精が働けなくなったことだ。妖精には四季を管理する者がおり、寮が異常な環境になっているのは、そんな彼らが力を発揮できないことが原因なのだ。
寮長のレオナも、その右腕であるラギーも、現在進行形で問題解決に奔走している。
落ち着かない気持ちで談話室に出たものの、人の気配がない。サバナクローの寮生は獣人属の割合が高く、大概雪を踏んだことも直で見た事もない草原育ちだ。寒いからと、自室で毛布にくるまっているのだろう。
ジャックはため息をついた。自分がこうしてうろついている間にも、敬愛する先輩が事態を悪化させぬように、奮闘しているに違いない。
「はぁ〜、やれやれ、暑かったり、寒かったり、忙しいのう」
落ち着いた声に、ジャックは振り向いた。しかし、姿が見当たらなかった。
「確かにこっちから声が……」
「ああ、わしはそちらから声をかけたよ。だがこっちにおる」
「なっ!?」
つん、と誰かに脇腹をつつかれて、ジャックは悲鳴をあげずとも、耳やシッポの毛を逆立てて、驚きを隠せずにいた。
「り、リリア先輩」
「元気にしておるようで何より。さすが狼」
「っす」
ジャックはすぐに頭を下げた。
目の前の彼は、ジャックが知っている顔だ。恋人のナマエが所属するディアソムニアの副寮長。それだけでなくジャックが朝にランニングしていると、たびたび木の茂みから出てきて人を驚かせては満足げにどこかにいく、少し(いやかなり)不思議な人物だと認識している。
いきなりの訪問者に戸惑いこそすれ、敬う相手には違いない。
「うむ」リリアは鷹揚に頷いた。「おぬしは礼儀がなっているようだな。流石は狼の血を持つ者だ。関心、関心」
「あ、あの、うちの寮長は不在ですけど」
きっと副寮長として何か仕事をしにきたのだろうと見当をつけて、先んじて教えた。しかし、リリアは不思議そうに首を傾げてから、「ああ」と心得たように頷いた。
「そうでなくな、おぬしに用があるのじゃ」
「俺ですか!?」
思わず驚嘆の色をにじませる声を上げて、聞き返してしまった。目を白黒させるジャックに、リリアはくすくすと華奢な肩を揺らした。妙に気品のある所作はヴィルのような落ち着きのある先輩を思い出させて、ジャックは視線を揺らした。どうにも対応に困る。
「そんなに驚くことはない。ナマエがここに来ておらぬか聞きたいのだ」
「ナマエ、ですか?来てませんけど。どうかしたんすか」
「ああ、日課のことは知っておるな?」
「日光浴のことなら、聞いてます。まさか今日も行ってたんですか?」
リリアの頷きを見て、ジャックは内心で後悔した。
故あって植物の妖精であるナマエは毎朝植物園で日光浴する習慣があり、ジャックも一緒に通うことにしていた。
しかし、ジャックは今日寮で時を過ごしていた。今朝、ナマエからメールで今日は天気がヘンだから集まるのはやめとこうと提案されていたからだ。てっきりナマエも寮で待機しているのかと勘違いしていたが、ナマエなりにジャックを気遣っていたのかもしれない。
「それで学園に行ったっきり戻ってきておらぬ」
「フェアリーガラは妖精の催し、なんすよね?なら、知り合いと会ったとか?」
「それなぁ、十分にありうるのだよなぁ。おぬしなら分かるかと真っ先に来たが、うーむ……」
何事もなければいいのじゃが、とリリアは顎をさすって、かくんと全身でうなだれた。心底ナマエを心配していると、ジャックにはよくわかった。
「――あの」
「うん?」
「ナマエのことをよく心配しているのは、よくわかりました。だけどなんで俺に聞きに来たんすか?」
「何故って、人探しならばまずその者の恋人に所在を聞くのはおかしいことではないだろう」
「おかしくはないんすけど、その、リリア先輩にとって、俺はそこまでに足る人物だとは思ってなくて……」
確かに、リリアからすれば、自分はナマエの恋人だ。
だけど、ただそれだけなのだ。
ナマエがどこまで自分との関係を話しているかはわからないが、ジャック・ハウルという自分は彼にとって身内(ディアソムニア)でもなく、目立った功績もまだ挙げられていない、ただの一生徒。ナマエは同じ寮生ともよく話すタイプで、友人も多い。自分の元に来ることになっても、順番は後になるのではないか。
「ふふ、わしはおぬしのことをよく信用しておるよ」
「俺を、ですか?」
「ああ。おぬしと付き合ってから、ナマエは目に見えて変わっていった」リリアは血を思わせる深紅の眼差しをジャックに向けた。「もちろん、良い意味でな。特に情緒がよく育った。寮生の保護者役として感謝の念が尽きぬ。だからナマエのことなら、まずおぬしに聞かなければな、と思ってな」
鏡を抜け出て、ジャックはまず首元を扇いだ。鏡舎はサウナかと思うほどの熱気に包まれており、サバナクローで味わった寒さは全て吹き飛んだ。
こんな状況にナマエがどこに居るのかはわからない。まあ、全く知らないところには行かないだろう。
「……と、思ったんだがな」
ジャックは廊下の一角、比較的暑くも寒くもない場所を見つけると、一人うなだれた。
植物園の周囲に始まり、教室、図書室、大食堂、中庭、サムの店、果てには実験室にも行ったみたが影も形も見当たらなかった。ここまで見つからないとなれば、ジャックにだってお手上げだ。
案外、自分の寮に戻っていたりするのだろうか?
廊下の果てを見つめていると、不意に、もす、と柔らかい物が背中に当てられて、ジャックは瞠目することになった。
鼻腔にふわりと甘い花の香り。
「奇遇じゃん!ジャック!」
「ナマエ!?お前居たのかよ」
振り向くと予想通り彼が立っていた。それも何枚か綺麗な銀の布を抱えている。
ナマエは眉をひそめた。
「居るも何も……そう、聞いてよ。廊下歩いてたんだけど、たまたまクルーウェル先生に出くわして、そのまま首根っこ引っ張られてポムフィオーレに連れてかれたんだぜ」
ナマエは一気にしおれた花弁のような表情をした。
「そんで、妖精の種族ごとに服の好みとかずーっと聞かれて?さっき終わって、スマホ確認したらリリア先輩から超電話してもらってたの!でも、それに『学園の一大事だから仕方ないだろう、だがグッボーイだったぞ!』だとか先生は言って、そのままぽいって帰されて!もーやきもきしてんの」
「お、おう、それは災難だったな……?」
本当に本当に大変だったと嘆くナマエに、ジャックは言葉を飲んだ。フェアリーガラの問題に一躍買っていた彼に対して、俺だってお前のこと心配してたし、連絡もいれたぜ、だとか入れる隙間もない。
だが、これは聞いていいだろうか。
「お前、学園に来るつもりなら俺も呼べよ」
「だって、サバナクロー寒いらしいじゃん。悪いかなって」
「俺は狼だ。あのくらい平気だし、お前に何かあったほうが嫌だ」
「そ……っ!」
ナマエは妙な声で呻いて、抱えていた布の山に顔を埋めた。どうかしたのかとつむじをつつけば、水浴び後の仔犬のように頭を振るった。
「あー……ところでそれ、なんだ?」
「これ!?」ナマエは顔を上げた。「お駄賃でもらった!陽の光にさらすときらきらして、綺麗でツヤツヤの葉っぱみたいに手触り良いの」
心底幸せそうに、彼はそのまま布に頬ずりをした。ジャック自身は高級品だとかには疎いが、刺繍の細やかさには息を飲んだ。多分、すごく高いやつだ。
「レオナ先輩たちもこういうの巻いてて、すげー綺麗だったの」
「へえ」
「ジャックも着ようぜ!絶対似合うから」
「は?」ジャックは相槌を打とうとした頭を、そのまま大きく振った。「俺は良い!……ていうか布のまんまだぞ」
「頭からかぶって、頭の出るとこ切ってってすればいいんじゃないの?」
透き通った眼差しで首をかしげるナマエに、ジャックは頭を抱えた。
型紙という言葉すら出てこないとは。そういえば、ナマエは物作りに関しての知識が薄かった。この間は、料理中に小麦粉をふるいにかけるとかいってボウルをゆするだけで終わらせるのを見かけた気がする(「だって他の妖精が作るしさ」と少し口を尖らせていた)。
ナマエは眉根を寄せると、布の山を探った。
「ジャック、ブレザー脱いで」
「お、おお」
言う通りにブレザーを脱ぐと、涼しい風が首元を通った。ナマエは山から薄手の布を抜き出して、ジャックの腰にゆるくそれを巻いた。
「んで、仕上げな」
ナマエがマジカルペンを振るうと、今度はジャックの頬に暖かな風が通った。ジャックが次に目を開けた頃には、耳元の違和感に首をかしげることになる。
おそるおそる触れてみると、小さな花が耳に輪になって並んでいる。いつぞやの先輩たちに笑われた記憶を思い出して、ジャックは苦い顔になる(改めて思い出すと、気恥ずかしさが勝るのだ)。
ナマエは頬を緩めた。
「ジャック!似合ってるぜ!妖精みたいだ」
「そういうの、がらじゃねえよ」
腰に巻いてあるそれをつまんで確かめると、ブジューの代わりに鮮やかな生花が所狭しと咲いていた。
「ジャック」
「なんだ」
「ほいっ」とナマエが掛け声とともに、ジャックの口に花弁を付け根から突っ込んだ。ジャックは驚きつつも、しかし咬むわけにもいかないという咄嗟の判断の上で、頬の力を緩めた。そのうちに、甘いものが舌から喉の奥へとゆるやかに滑り落ちた。
「蜜が甘いだろ?俺が好きな花なんだ」ナマエはジャックに指差した。「その格好、ジャックが笑ってくれたらもっと似合うぜ」
「……ナマエ」
「うん?」
「自分がしたんなら、される覚悟も持てよ」
ジャックは布を彩っている花――これも確か、花の蜜が美味しいやつだ――を一つ取ると、ナマエに咥えさせた。
そして、ナマエが抱えている布の中から、縁にフリルがついたものを抜き取ると、彼の肩にかけた。そして片耳の花冠を頭に置いて、ジャックは満足げに頷いた。
白いマントに華やかな花冠。適当にやってみたが、妖精の王子様のようでなかなか様になっている。
「ん、やっぱりこういうのはお前の方がよく似合うぜ」ジャックは、首を振った。「いや、悪い。男にいうもんじゃねえけど、可愛いとも思っちまうな」
ジャックは苦笑してみせて、そこでようやく違和感を覚えた。打てば響く目の前の男が、始終無言だったのだ。ずっと花をはんだまま、うつむきがちになっている。
「それ、いつまでも口につけてたら汚ねぇだろ」
ナマエがふるふると、ゆるく首を振った。
「いや、よくねえよ、ほら」
花を抜き取ると、ナマエは考える間を空けてから、おそるおそるといった様子で顔をあげた。
「あ、あはは……おかしいな、いつもなら、こうじゃないんだけど……」その頬を真っ赤にさせて、照れ臭そうに口元を緩めた。「や!いや、なんか、ここ、すごく暑いなぁ!?」
ひゅう、とジャックの背中を涼やかな風が通り、お互い沈黙を保っていた。ジャックは一心に、首やら額にまで赤さを滲ませたナマエを見つめていた。いつもと何か違ったか?こんな馴れ合い、いつだってやっているのに。
――ナマエは変わった。
――特に情緒がよく育った。
先刻の、あの副寮長の声がぐるぐるとジャックの中を巡りだした。
もしかして、という希望が、ジャックの中で輪郭が浮かび上がってくる。
「……お前、照れてんのかよ。」
一言、ようやく発した自分だって、十分顔が熱かった。