ディアソムニアの談話室は、かのグレート・セブンである彼女の王座をモチーフにしたのだという。緻密で荘厳な意匠に、確かに、と感動をもって頷く者も多いはずだ。しかし、ナマエという男は雰囲気にそぐわぬ緩慢な動作でふかふかのソファに深く沈み込み、くわぁ、と大きくあくびをした。眠気よりも、体の軸の深いところからだるさが押し寄せている。

 ナマエは、昨日ジャックと別れた後に(もちろん恋仲解消というわけではなく、物理的に)、眠れないまま夜を明かしてしまったのだ。
 ご飯は喉を通らず、部屋に戻る足取りも重たくて、かといって何かをする気になれないまま、ナマエは談話室に腰を下ろしたままだった。

「――ナマエ?」
「おっ、シルバー。お疲れー」

 ふらりと現れた銀髪に、ナマエは手を振った。同学年の縁でよく話す彼は、マレウスの護衛、なのだという。リリアと話していると時折話題に出るし、一年生で合同実習のある授業では同じ寮のよしみでよく一緒にする(そして、シルバーとセベクの仲裁をするのは、ナマエの役割だ)。
 彼はトレーナー姿のまま周囲を見渡した。その手には木刀が握られている。

「この時間帯で会うのは珍しいな」
「だな。俺はこの時間には出てるし」

 シルバーは今からトレーニングか、と尋ねれば、彼は頷いた。ジャックといい、シルバーといい、うちの学年って暇さえあれば己を鍛えるような、けっこうストイックな面子が揃っているな。
 ジャック、とふと頭をよぎった名前に、一人内心で唸った。いや、ほんとうにどうしたものか。

「どうかしたか?」
「いや、なんでもねえ」

 シルバーは端正な顔で、首をかしげると、ナマエの向かいのソファに腰がけた。

「多分だが、お前は自覚している以上にひどい顔をしている」

 オーロラの瞳に自分の全てを見透かされたようで、ナマエはとっさに自分の下まぶたを撫でた。そういえば、昨日今日は鏡も窓すらも見ていない。
 シルバーは、柔らかい笑みを浮かべた。

「そんなに深刻そうにしなくても。少し気になったくらいだ。……話ぐらいなら聞いてやれるが」

 ナマエは虚をつかれたような思いになる。
 人に相談するという選択肢が、まるっきり頭になかった。しかし、良い選択肢なのではないか?という気がした。
 シルバーは、真面目で、主人であるマレウスが絡まなければ中立的な態度を取っている。この学園にしては珍しく穏健派だし、何より、人間だ。ナマエよりもずっと正確にジャックの気持ちや状況を理解して、真摯なアドバイスをくれるのではないか。
 相談するにあたって、ナマエは当然の疑問を投げかけた。

「ちなみにリリア先輩から何も聞いていないな?」
「おや、……リリア先輩から?何をだ?」
「ん、いや……」

 やはり、まずはジャックと付き合った話からしなくてはいけないらしい。当然だ。なんせ、このことはリリアにしか教えていない。気恥ずかしさがぬぐいきれないものの、わざわざ相談相手になると言い出した、このシルバーの人柄ならば茶化すことはしないだろう。
 さて、どこから話したものかーー顎にやった手は、ガツン!と突然響いた硬い音に大きく震えた。
 そして、からからから、と足元に何かが転がってきた。靴先に当たったのは、彼が持っていた木刀だった。

「落としたぞ、ほら。…………シルバー?」

 木刀を拾って、呼びかけるも返事がない。シルバーはうつむいたまま、頭を一漕ぎした。
 ナマエは立ち上がり、顔を覗き込んだ。瞼は閉じており、そりゃあ見事に穏やかな寝息を立てていた。彼は時折眠気に抗えないとか言っていた気がするが、こんなに唐突に寝てしまうとは。いや、朝早い時間帯だからだろうか?
 出鼻をくじかれて、ナマエは途方にくれた。
 しかし、こんなに気持ちよく寝ている彼を起こす気にもなれない。それにタイミングの悪さに、結局自分一人で考えるべきだという思し召しなのだろうかと諦めさえつく。

 そのつむじを見下ろしているうちに、照明の火が揺らめいて、彼の銀髪をきらびやかに照らした。

「……んん?」

 胸の中に詰まるものを感じて、ナマエは首をひねった。


「なんじゃ、揃ってどうした」
「あ、リリア先輩。おはようございます」
「ああ。おはよう」

 ナマエはシルバーを見やった。

「シルバーに、ちょっと相談事をしようとおもってたんですけど寝ちゃって……」
「そうか、寝かせてやってくれ」リリアはシルバーの頭を上からぽんぽん、と柔らかく撫でてから、ナマエを見やった。「それで、おぬしが相談したい事とは、もしかせんでも……ジャック・ハウルのことか?」
「察しがいい……」
「そりゃな、おぬしを悩ませるのはあやつくらいだろうよ。恋仲なのだから」

 恋仲、という一単語に、ナマエの胸に複雑な気持ちが去来した。改めて言われると、照れるような、困ったような称号だ。リリアは眉根を寄せた。

「惚気かと思ったが、その様子だと喧嘩か?」
「喧嘩、というか、価値観の相違?みたいな……」
「ほう、聞かせてみなさい」

 ナマエは記憶を解きながら、かいつまんでリリアに説明していった。
 ジャックと自分では恋人の感覚が違うらしい。ナマエはそれを自覚しはじめて、打ち明けたところ、それでもジャックは自分とそのまま付き合う気でいると迫ってきた。――自分は、漠然とした先が見えないのがなんか怖くて、逃げたくなった。

「それで、俺はどうするのが良いのか、分からなくて……」
「では、おぬしにとって、良い選択肢とはなんだ?」
「……なんで、しょう。俺にもジャックにも都合が良い、とか」
「ほう?」リリアは、両手を挙げてそれぞれの人差し指を立てた。「ジャックはおぬしとの関係を続けたい。おぬしは縁を切ってしまってラクになりたい。両立はできぬ。二つに一つだろうて」
「切ってしまいたいだなんて」

 極端なことを言う彼は、立てていた人差し指をクロス状に重ねて、そのまま拳を外側にひねった。手で作ったハサミが、何かを切るような動作にみえた。

「切ってしまえば前と同じ仲には戻れぬよ。おぬしとジャックでは感覚が違うのだから」

 雪解け水のような冷ややかさが肺を通り、口の端が緊張で引き締まる。
 リリアの言う通り、切ってしまうと今の仲から変質する。
 放課後の図書室で一緒に本を漁ることもないし、朝の植物園でジャックと言葉を交わすこともなくなる。ナマエは、今まで通りの日常に戻されるのだ。
 ……それは、嫌かもしれない。
 明確な拒絶の意思が浮き上がったことに、ナマエは自分自身戸惑っていた。

 ナマエは改めて、シルバーに視線をやった。

「リリア先輩は、ジャックを見たことは、ありますよね」
「ああ」
「シルバーとジャックの銀髪は、比べてどうですか」
「ふむ。それは難しい問いだのう。シルバーには妖精が編んだ剣のような力強いかがやきがあり、あの狼には陽光を受けた雪原のような細やかなまばゆさがある。どちらも、甲乙つけがたい」

 リリアはしみじみと頷いた。
 ナマエは先ほど抱いた違和感の正体を、つかめた気がした。

「わかります。シルバーの銀は芸術品みたいで、ずっと眺めたくなる美しさがある。……それで、ジャックの銀は、まぶしすぎて、綺麗で、たまに息ができないくらいドキドキするんです。それなのに、あったかくて、手放したくなくて……困る。俺、すごく困るんです」
「悪い銀じゃのう」

 ふふ、と微笑むリリアのらんらんとした眼差しには、眉を下げながらもなさけなく口を緩ませる自分がいた。


10

 ナマエ・ミョウジといえば、どういう奴なのか。
 ディアソムニア寮生。よく笑い、話しやすい。頬に植物の根が張っている。絵本が好き。運動音痴。飛行術の授業はたまに草花に紛れて休憩している。
 奔放という二文字がよく似合う男だ。気まぐれな振る舞いはまさに妖精。

 しかし、ジャックは、彼の行動にもきちんと筋が通っているものがあることを知っていた。


 ナマエと付き合う前の、ある日のことだった。
 放課後になり、鏡舎に向かっていたジャックはふと足を止めた。廊下のずっと先にある実験室から物音がしたのだ。
 ジャックの耳に入るのは課外授業でもしているわけでもなく、誰かが、何かを漁っている音。クルーウェルや他の先生のものにしては乱雑がすぎる気がする。
 大方、探し物でもしているのだろうか。知っている先輩だったら手伝おうと、ジャックの足は実験室へと向いた。

「……お前、何してんだ?」

 ジャックは、彼の背中にそう疑問を投げた。薬草がたっぷりと入った箱に手を突っ込んだまま、彼――クラスメイトであるナマエが振り向いた。

「あれ、ハウルくんじゃん」

 ナマエはへらりと笑うと、呑気に「実験室は土足禁止だぜー?」とおちゃらけてみせた。ジャックが近寄っても逃げる風でもなく、ナマエはまた薬草を鼻に寄せては箱の中に戻し、葉脈を撫でるとそれを箱の外に出すのを繰り返していた。
 ジャックは記憶を頼りに彼はどこか部活に入っていただとか(サイエンス部などであれば、薬草を扱うのは当然の行為だ)、薬草を管理するクルーウェルと何か話していたかを思い出すがーー引っかかるものはなかった。

「これなぁ」ナマエはひとりでにつぶやいた。「毒があるのとないのが混ざってる」

 ジャックは目を丸くして、男の横顔をまじまじと見つめた。ナマエは視線をまっすぐと葉に向けて、薄いそれを照明にすかしたり、葉先を折ったりしていた。
 ナマエの発言が、ジャックには信じられなかった。彼の手つきはまるで教科書のページでもめくっているような気楽さで、とても毒草に触れているとは思えなかった。

「産毛が銀色に輝いて綺麗だろ。でもアブねえの」
「なんで毒があるってわかるんだ?っていうか、なんて植物なんだ、それ」
「うーん、感覚。名前は分からないな」

 分からないって、なんだよ。
 確固たる知識の下でやっているわけではないのか。首をかしげるジャックに目もくれず、ナマエは作業を続けている。
 雑なようでいて、すでに判別したものは避けて別のものをとっていたり、葉に触れたり息を吹きかけたりとなんらかの判断基準をもって、職人のように手早い動作でそれらを選り分けていた。

「植物には傷がつくと、他の仲間に危険だぞって伝えるやつがいる。そんで、伝えられた仲間は何かしらの抵抗する手段を講じる。今回は毒だった」

 ジャックの無言の疑問に答えるように、ナマエは答えていく。古いやつが特にそうだったとか、まあ多分気難しいやつだし授業では使わないのかもな、とか続けていく。
 こいつ、本当にナマエ・ミョウジなのだろうか、とジャックは彼の様子をただただ訝しげに眺めた。

 ジャックとナマエは知らない仲ではない。
 錬金術や魔法薬学などのグループワークでは食事をよく一緒にする、友人のエペルとやるのだが、大人数でやるものには大抵ナマエを呼ぶことにしている。
 エペルは体の華奢さと端麗な容姿で、ジャックは狼特有のガタイの良さで、周囲からあやをつけられることが多い。そのため、クラスメイトの大半と友人関係を築いて、なおかつディアソムニアのナマエがいるだけで、文句を口にする者は少なくなる。彼は、自分たちにとって良いかすがいとなるのだ。
そうして必要最低限の会話を交わしたことがあったし、クラスメイトとして彼を見ていたが、こんな律儀な面があるとは想像だにしなかった。

「……お前のそんな顔初めて見た気がする」
「そんなって?」

 ナマエはようやく振り向いて、ジャックと目を合わせた。

「真面目そうに、なんかしている顔」

 ジャックを写した瞳が、きょとんと点になる。彼は顎に指をあてがうと、眉間に少し皺が刻んだ。想定外の言葉に、答えを窮しているようだった。
 ひるがえった彼の手の中を、ジャックはこの目で確かにとらえた。毒草に肌が負けてたのだろう、白い手の平には痛々しい赤がまだらに散っていた。

 ジャックは、胸のうちでざわつきに近いものを覚えた。例えば、授業で新しい分野に入ったときのような。自分の好奇心というものが、くすぐられているのだと気づくのにそう時間はいらなかった。
 だって、そうじゃないか。
 改めて言ってしまうと、ジャックにとってナマエは根無し草のような男だった。
 彼はちょっとした対人関係は上手くやっていて、それ以外はてきとうなのだ。教科書を枕にするし、大食堂で見かけたときには食事をつまらなそうにつついていたし、部活には入っていないし。どうにも、目的が不透明だった。
 それが、今や痛むだろう手を動かして、せっせと毒草をより分けている。
 友人知人を守るためなのか、それとも内申がほしいのか?
 何がこの男をそうさせるのか、ジャックは気になった。

 ナマエは片手で葉っぱを持ったまま、腕組みをした。

「――別に、この毒で誰かが倒れても、俺はどうでも良いと思ってる」

 ジャックの様子をうかがうように間を空けると、彼は続けた。

「植物みたいなもんなんだよ、俺。そういう種族。だからこいつの方が、犬とか猫よりもずーっと可愛いの」ナマエは、手の内で葉っぱを仰ぐように揺らした。「薬を作るつもりで、こいつらを使って、毒による“被害”が出る。ってことは、こいつらは“無駄”に使われたってことだ。そしたら、多分、そのまま廃棄されるだろ?そういうのはさ、まあ、見たくねえわ」

 二人きりの実験室は、水を打ったように静かになる。
「なぁ」と葉に声をかけるナマエの眼差しは、やはりジャックが見たことがないほどに、優しい光を宿していた。


 この男は、一人で同じことを何度もしてきたのだろうか。

 ジャックは疑問を抱かずにはいられなかった。
 そりゃあ、ジャック自身、己を研鑽するために費やしている時間はいつも一人だ。
 だけどその先に目指すものは必ず名声だってついてくるし、隣には気兼ねない友人も尊敬する先輩もいるだろう。ジャックがスクールの陸上大会やらで一等賞をとったときに、自分が確かに一番をとったのだと充実感を得る瞬間は、そういった周囲の声なのだから。
 だけど、ナマエはどうだ。身内を無下にされたくないという理由で一人で何かをして、一人で満足しているのだろうか。
 植物の言葉や価値観なんてわかりはしないが、今、彼の行動を讃えるものはいないのは明白だ。

「……炎症に効く薬、持ってきてやるよ」

 ナマエはジャックの言葉に、「ああ、それ助かるわ」と目を細めて、くるりと振り返った。また、葉を漁るような乾いた音が耳朶を打つ。

 笑みに不釣り合いなあの手の赤さが、いつまでもジャックの網膜に焼き付いていた。


11

 植物園の扉を抜けて、ナマエは肩を落とした。
 ――ジャックが、いない。
 いつも集まっていた時間に対して、随分と遅刻してしまった。しかし、ジャックならば、それでもいるだろうと淡く期待を抱いていたのは都合がよすぎただろうか。いれておいたメッセージにも既読がつかないし、自分の想像よりもずっと怒らせてしまったのだろうか。
 このまま来なかったら、と考えるだけでも心臓が凍てついてしまいそうだ。

「……うん?」

 陽光を受けてきらりと輝きに、ナマエは視線を奪われた。吸い寄せられるように歩くと、それが赤、青、黄と原色の石で紡がれたブレスレットであることがわかった。
 持ち上げて、手の中でくるくると眺めていくと、ナマエは喉元で引っかかるものを感じる。これ、妙に、見覚えがあるような。

「おっと、先客〜」

 扉が開かれる音と、知らない声だ。振り向けば見慣れない生徒が立っており、目があうと彼はナマエに向かって愛想よく笑った。

「どもども、おはよッス。朝早いねー?」

 ゆらゆらと彼の黄色い腕章が揺れる。
 ナマエはその顔立ちをみて、頭を軽く下げた。

「おはようございます。――ラギー先輩、ですよね?」

 雲のように青みがかった灰色の瞳が、ぱちりと見開かれた。

「うん?どっかであったことあるッスか?」
「ジャックが先輩のことよく話してるんで」

 ラギー・ブッチという先輩は、副寮長と正式に定められていないが、参謀役としてサバナクローを支えている偉大な先輩だと、よく聞いている。たまにジャックが彼に声にかけているところも見かけていたので、ナマエは確信をもって話した。
 しかし偉大な先輩は、「ああ、ジャックくんね」と、呟いて、耳をへにょりと重たそうに下げた。ちょっと気分を害した時とかにジャックがやるやつだ。

「――ってことは一年生?授業用の薬草でも取りに来たッスか?」
「そういうわけでは……」
「ってああ!?それ!」

 急に彼は大きな声を上げて、ナマエを指差した。
 なにかよくないことをしてしまっただろうか。ナマエが慌てて、足元や周囲に目を走らせていると、ラギーは「それッスよ!」と言った。

「そのブレスレットどこで!?」
「えっ、そこに落ちてました」

 ぐっと寄った明るい髪色に、ナマエは思わず早口になる。
 ラギーは構わず、一人で心底軽蔑したという風に表情を崩した。

「うっっっわ、ありえねー!ほんとレオナさんってば物使い荒いんスから、傷ついたらもったいねえのに。まあその時は俺が拝借するとして……」
「ラギー先輩?」

 何事かを呟きつつ、目を伏せて一瞬悪い顔をしていた先輩を呼ぶと、彼は両手を見せるように手を挙げて、またにっこりと笑った。

「あ、なんでもねーッスよ。えっと、それうちの寮長のだから、渡してくれると嬉しいなーだなんて」
「それはもちろん」ナマエは頷いてから、「あ」と発した。「一つ聞きたいことが」
「……ま、聞くだけならいっか。どうぞ?言ってみて?」

 顎で先を促されて、ナマエは続けた。

「ジャックは……、今、なにしてます?連絡とれなくて」
「ジャックくん?ああ、今は中庭で走りこみ中ッスね」
「走りこみ?」

 素っ頓狂な声で、ナマエは聞き返した。
 確かに、ジャックの日課にはランニングが組み込まれているのは知っていた。ただ、信じられなかった。ジャックがそちらを優先するときには毎回ナマエに一声かけていたし、それに昨日の出来事を踏まえると、何もなくルーティンをこなしているとは考えにくかった。

「そ。いつからやってるか知らねーけど、俺が起きた時にはもう元気に駆け回ってたような……って、いっけね、そろそろ行かないと」
「あ、ありがとうございます」
「満足っすか?」
「はい。引き止めてすみません」

 「んじゃ、これで終わりってことで」と、ラギーは手に持っていたブレスレットを掲げた。「マジ!?」「いつのまに」とナマエが空っぽになった手を慌てて見やる姿を、片頬を上げて愉快気に眺めていた。


 今日は一限から飛行術で、ナマエの気持ちは憂鬱さを増すばかりである。なんせ、ジャックと話す機会は無いし(グラウンドに直接集合だったし、大抵運動神経良い組はまとまって群れているのだ)、それに、ナマエはこの飛行術を座学よりもずっと苦手としていた。
 だって、植物は地中に根を張る生き物だ。どこかへ行きたいのならば、風や他の生き物の力を借りればいいのだから。道端の花に空を飛べなんて言われても、困る。

 しかし、今日はラッキーな日だった。なんと、学園長が見学に来ている。みんな良いところを見せようと、箒を握りしめて息巻いていた。
 ナマエは彼らの背を見て、よしと頷き、忍び足で列から離れた。

 ――ナマエがそれをラッキーとしているのは、生徒や講師のバルカスの注目が全て学園長に向かうため、一休みできるから。早速日当たりの良さそうな場所に息を殺したまま走り寄って、座り込む。

 急にわっ、と、空を割かんばかりの歓声が上がり、ナマエは視線を持ち上げた。予想通り、ここぞとばかり複数の生徒が上空を思い思いに泳いでいた。大体、飛行術を得手としているのは魔法の扱いに長けているディアソムニアか、獣人属特有の身体能力を遺憾なく発揮しているサバナクローだ。だしうるかぎりのスピードで空を進み、そのまま軽やかに三回転。
 遠目で、真っ黒衣装の学園長が、バルカスと楽しげに話し合っているのが見える。

 今日はラクに終わりそうだ。このままぽかぽかとした陽気に包まれて、時を過ぎるのを待てば良い。両膝を顎起きにして、まどろんでいると、ナマエの目の前が一瞬暗くなる。

 頭上に何かが通ったようだ。他の生徒だろうか。
 ナマエは身を振り仰いで、肩を震わせた。

 空で、傾いだ影があった。遠目に見ても影は大きく、決してカラスなどではない。ナマエがそれをジャックだと認識するのに、瞬き二つといらなかった。
 ジャックはそのまま、ふと重力を思い出したかのように箒ごと空から落ちていった。

 ナマエはすでに駆け出していた。彼が落ちるだろう場所は幸いにして背が高い草原の上である。ナマエはポケットに突っ込んでいたマジカルペンを取り出し、ほとんど投げ出すようにして矛先をそこへ向けた。
 クッションとなるもの、クッションとなるものと念じてナマエは魔力を流す。切迫した中で、確実に出現させられるものは、もちろん植物の類だ。なるべく柔らかいものをと、出現させていくと局所的に花畑が作られていった。

「――ッ」

 どす、と重たい音があたりに響く。

 ナマエは、思わずつむってしまった瞼をゆっくりと開いた。

「やってしまった……!」

 と、ナマエは一人、唇をわななかせた。

 眼前には、落下したジャックはおらず、代わりに一本一本が腕ほどの太さを持つ、茨でできた繭が鎮座していた。クッションと念じて、なぜ荊が出てしまったのかは、予想がつく。悪戯用によくしかけていたのが災いして、頭の中に一瞬でもよぎってしまったのだろう。ジャックを怪我させるような生え方にならなかったのは、もっけの幸いか。
 ――とはいえ、彼は高所から落下したのだ。植物のクッションで受け止められたとはいえ、完全に無事とは限らない。

 試しにツルに対して波状に生えた白いトゲを、つついてみた。即座に人差し指に赤い雫が膨らんでいき、重力に従ってしたたり落ちていく。青草に赤い斑点ができるのを、ナマエは硬い表情のまま見下ろした。

「壊す魔法は、あんまり得意じゃないんだけど……」

 マジカルペンの先で茨を押しやって、ナマエは魔力を込めた。ばつり、とツルの一箇所が中から破裂して、繊維が周囲に弾け飛ぶ。目の前の茨をそうして上から下へ直線上にちぎっていき、ナマエは靴先や手で扉を開けるようにツルを押しのけた。そして、暗がりとなっている繭の内側に無理やり体をねじこんだ。
 ナマエは、ペン先に装飾された、魔法石を撫でた。泥にでも塗れたような黒さに、苦笑する。今は、精神状態がよくないし、先ほど魔法を連発したせいで、蓄積できるブロッド量に限界がきたようだ。

 ペンの柄で茨を叩いてみると、太くみずみずしいツルはしたたかに跳ね返り、ナマエの手の中に痺れを覚えさせた。
 かといって、ここで引くわけにはいかない。ナマエは手に上着を巻きつけて、視線の高さほどの茨を一本掴んだ。そのまま掲げたマジカルペンの底をツルに深々と突き刺して、何度かえぐるように刺してみる。あるていど傷んだ茨を割いてみる。苦肉の策だったが、わりといけるのではないか。

「おい、ジャック。起きてるかー?」

 作業を続けながら、茨の層の向こうに声をかけても、返事はない。かといって痛みを耐えるような声もない。気絶してしまっているのだろうか。

「……ナマエ?」
「ジャック!?」かすれた声に、ナマエは茨に耳を寄せた。「お前!落ちたんだぞ!怪我は!?――いてっ」

 勢いあまって茨を掴んでしまい、上着越しにトゲが深々と刺さりナマエは小さく悲鳴を上げた。手の平に血が集まっていき、次第に発火したように熱くなっていく。
 すん、と、ジャックがにおいを感じとるように鼻を鳴らした。

「怪我、したのか」
「あはは、鼻がいいな。相変わらず。でも大したことねえから」

 もうすぐ繭の中心部、つまりジャックのいる場所にたどり着く。安堵と興奮からか、不思議と痛みはなかった。むしろ先ほどより作業スピードが上がっていく。

「ナマエ」
「おう、もうすぐ出すから……」

 ジャックが、小さく、はっきりと言った。

「ごめんな」
「ジャック?」

 それっきり、言葉は無かった。代わりに穏やかな寝息が、彼の存在をナマエに伝えていた。


12

 ジャックは保健室へと運ばれて行き、ナマエが彼の様子を伺えたのは昼休みだった。

 扉をくぐると少し涼しくて、アルコールのにおいが鼻を抜けた。保健室に訪れるのは、入学してから初めてだ。
 行儀よくならんでいるベッドの流れを視線で追うと一つだけ、足元が膨らんでいる布団があった。ついたてで枕元は見えないが、彼がいるのだろう。

「ジャック〜……?」

 靴音を床に吸わせつつ、起こしたくないのか、起こしたいのか、判然としない声色でナマエは囁いた。返事はない。寝ているのか。

 ベッドを覗いて、ナマエは肩から力が抜けるような心地がした。ジャックが、気持ちよさそうに眠っている。視線を横にはわせて、指先まで確認すると彼に絆創膏一つもついていないことがわかった。

 真昼間の太陽は空高くましましている。強い光が窓ガラスをすり抜けて、彼の銀髪に輝きを与えていた。ナマエの手は、吸い寄せられるように美しい毛並みを撫でた。手のひらいっぱいが暖かくなり、ナマエはふと笑みをこぼす。

「狼のくせに、ねぼすけめ」

 こうして、彼の寝顔を見下ろすのも新鮮な気分だった。いつもは授業中などで自分が起こされているからなおさらである。

 ベッドサイドに腰を下ろして、ナマエは褐色の手をすくい上げる。あんまりにも抵抗がないものだから、ぬいぐるみでも抱えているようだ。ぬいぐるみと違うところは、熱が通っているところか。
 彼が狼らしく、自分の体は大きいと言った通り、手の平はナマエのそれよりもふた回りは広い。爪は厚くて大きいし、節は硬い。
 やわやわと握ってみると、キノコのかさのような弾力が返ってきた。
 こんなに頑丈な彼が、どうして飛行中に落ちてしまったのだろう。

 ナマエが足を漕いでリズムをとりつつ、鼻歌まじりに彼の手の感触を楽しんでいると、ふと背後から布がずれたような音がした。ジャックが寝返りを打った様子はない。首を傾げていると、今度はとんとんと何かを叩くような音。不思議なことに、ナマエには聞き覚えがあった。
 ジャックは相変わらず瞼を下ろしたままだったが、ナマエはその頭頂部まで目をやって、「あ」と声を上げかけた(すんでのところで口を閉ざして、ごまかすように咳払いをした)。
 ナマエはおそるおそる、彼の腹の辺りに顔を向けて、発した。

「あー、ジャックの手は硬いし、大きいなあ。こんなのマジフトで円盤をもたせたら誰にも取られないだろうな」

 ――彼の足の間で、何かが動いている。
 ナマエは今度は手のひらで強く口をおさえた。それが、大きな狼の尻尾だと気づくのは容易だった。ナマエは、笑いを逃がすようにため息をついてから、続けた。

「ジャックの耳は大きいなあ、なんでも聞こえるんだろうね。それに、今は見えないけど、目も大きくて鋭くて、なんでも見据えてしまうかも。その大きな口は俺だって一口で食えたりするかもな」
「……俺の腹に小石でも詰めるつもりかよ」
「ふふ、ははは、バレてた?」
「あんだけ小刻みに震えてりゃわかる」

 む、と口を不機嫌そうに曲げた彼は、ナマエを映した瞳を伏せた。先日は妙な解散の仕方をしたために、言葉の接ぎ穂が見つからない様子だ。
 急に核心をつくのを恐れたナマエは、いつもの調子でたずねた。

「今日、体調悪かったのか?ジャックって実技得意だし、珍しいな」
「ん、いや……」

 歯切れの悪い答えに、ナマエは質問を重ねた。

「朝から走ってたってラギー先輩から聞いた。オーバーワーク?ってやつ?」

 体を動かし過ぎると支障が出るからと、彼はいつもトレーニングに関しては細心の注意を払ってた。学園長が来て、張り切って体力を使いすぎたのだろうか。
 ジャックは首を振って、「んなやわな体じゃねぇ」とつぶやいた。

「つうか、ラギー先輩に聞いたって、お前うちの寮に来てたか?」
「いや。今朝、植物園に行ったら、忘れ物とりにきたラギー先輩と会った」

 「植物園」とジャックはナマエが聞き取れるぎりぎりの声量で言うと、彼の大きな耳が下がった。そして、上体を起こすとナマエに深く頭を下げた。

「悪い。その、今日は行かなくて」
「いや、別に気にすんなよ。だって前はずっと一人だったし、俺は――」ナマエは胸にぞわりとしたものを覚えて、心臓のあたりをおさえた。「――いや、嘘。ジャックがいなくてちょっとヒヤッとしたな」落ち着かなくて、足を揺らすとベッドがぎしりと鳴った。「でもさ、元はと言えば、ジャックがあんなに怒ったのは、俺が曖昧な態度なままにしてたせいなのもあるだろ?だから、俺はもっと悪かっただろ」

 今日は口の端が重たくて、上手く笑えていないだろう。ジャックはじっとナマエを見据えたまま、品定めでもしているようだった。

「お前と付き合い始めた時は、俺はお前のことをそういう目で見ていなかった」
「え!?」
「ダチの延長戦にするつもりだった」
「ハァ!?」

 衝撃的な事実に、ナマエは狼狽した。そういう目ってそういう目だよな!?

「俺は、ただ単に、お前が一人で何かして、一人で怪我するのが見たくなかった。放って置けなかったんだ。だけど、いざ付き合ってみると、悪くねえなって。魔法でもかけられたんじゃねえかって、勘違いするくらいにはお前はいつの間にか、俺の好きなものに入ってた」ジャックは、淡々と続けた。「お前が最初から俺のことを好きになってくれていたのに、お前の好きは俺と違ってて、それに苛ついていた。お前も、薄々気づいてたみたいだけどな」
「まあ、後半はさすがに……」
「どうすれば良いのかって、あれから考えた。俺はずっと付き合うつもりだったけどよ、お前が嫌だったらどうするかって考え込んでて、起きてたし、落ち着かなくて走ってた」
「まさか寝不足で空から落ちたってこと!?」

 ジャックは不本意そうに頷いた。あの、真面目くんジャックが、とナマエはめまいさえ覚えた。

「……そこまで俺のこと考えてたんだ」
「そりゃあな」
「てっきり、ジャックが別れるとか言い出すと思ってた」
「あ?なんで急に別れるだのの話になんだよ」

 想定外の返事に、ナマエは「え?」と訝しげに聞いた。

「なんか苛ついてたみたいだったからそうかな、とか……というか俺が嫌だったらそうするつもりじゃなかったの?」
「っ、ははは!」

 ジャックは「舐めんな」とにやりと、心底楽しそうに笑った。気づけば、琥珀に浮く黒い瞳孔が数字の1みたいにすぼまっていた。

「どうやってお前の気持ちしばれるか考えてたんだよ。狩りを失敗させるなんて、狼の血が許さねえからな」
「うわぁ」ナマエは思わず声に出していた。「ジャック、そういうとこあるよな……」
「ま、その必要もねぇみたいだけど」

 肯定を確信するような言葉に、ナマエは言葉に詰まった。ああ、どうやって答えればいいのだろうか。絵本のように自分も好きだとか言ってしまうのは、安直すぎるだろうか。
 ジャックの琥珀を見上げていると、不意にベッドに立てていた左手をとられる。ナマエの包帯まみれの手を、ジャックはまるで壊れ物を扱うように撫でた。
 これは先の時間で、茨のトゲが突き刺さった手だ。すでに鎮痛薬も聞いて痛みはない。ただ、ジャックの目は痛ましいものを見つめるかのような、悲しげな色を帯びていた。

「もう、こんな怪我はさせないようにしねえとな」

 手を握られているのに、胸が締め付けられたように痛くなる。乾きかけた喉を、ナマエはどうにか動かした。

「俺は、そんなに大層なこと、言えないんだけど」ナマエはジャックと握ったままの手を持ち上げて、彼の手の甲に頬を擦り付けた。「ジャックなら、ここ、触っても良いよ」

 頬の根が、誰かにここまでぴったりと触れさせるのは初めてだ。頬にびりびりとした痺れが広がり、眉根が寄るが、ジャックがもたらしたものだと考えると不思議と耐えられた。

「ちわーっす、ジャックくんいるっすかー?」

 出し抜けに、現れた訪問者にナマエは手を離して、ジャックは慌てて背筋を伸ばした。

「い、います!ここに!」
「お、なんだピンピンしてるッスね」ひょっこりと、ついたて越しに顔を出したのはラギーだった。「ああ、寝たまんまでいーから」

 起きようとするジャックを手で制止するラギーの隣には、もうひとり背の高い褐色肌の生徒が立っていた。グリーンの眼差しはジャックをちらりと見ただけで、すでに彼に興味を失ったのか、保健室の棚やら他のベッドやらに向けられている。確か、サバナクローの寮長、レオナだったか。
 話を聞けば、二人とも授業中に高所から落下したというジャックのお見舞いに来たらしい。ジャックは恐縮したように深々と頭を下げて、彼らに礼を口にした。

「うちの有望株に何かあったらことッスからね。よぉく養生するっすよ」
「うっす。お手を煩わしてすんませんした」
「いーって、何度も頭下げなくて。相変わらず超真面目クンなんだから」

 ラギーはやれやれ、といった様子で肩をすくめた。誰に対してもこんな調子らしい、ジャックにナマエは笑みを深めた。
 ふと、隣にいたグリーンの瞳と視線が交わった……気がした。

「……ふ」
「え?」

 いや、目が完全にあった。だるそうだったそれが、今度は半月を横たえたように細められる。リリアがよくする、面白いものを見つけた目。

「空じゃなくてお花畑でも駆け回ってたのか、ジャック」
「は?」
「レオナさん、ダメッスよ。俺だって耐えてたのに」

 ラギーはレオナをたしなめるようでいて、自分もほとんど笑ってしまている。花が、似合っている?
 何かの比喩か?もしかして、俺とジャックの仲か?と疑うのもつかの間、ラギーは拳を作った手を口元に当てて、「シシシ」と独特な笑い声をあげた。

「よぉく似合ってるッスよ、かわいいお花ちゃんたちが」

 ジャックの大きな耳が揺れた拍子に、ころりと頭から花が彼の膝に落ちた。ジャックはハッとした顔になり、そのまま頭を降れば、色とりどりのがくのついたままの花やら、花弁やらが。見覚えのあるそれらは、ナマエが先の飛行術で生成したものだ。きっと、救出してから、彼の頭や肩に乗ったそれらを取り除かないまま、寝かせられたのだろう。
 普段のジャックならば、恥ずかしげに全て取り除こうとするだろうに、彼は手のひらで花をすくいあげると、顔を寄せた。

「ありがとうございます。全部俺のです」

 視線は手元のそれに注がれているはずなのに、ナマエの直感はそれが自分に向けられているのだと言ってきた。いや、それは、そうなんだけど、ナマエは内心で返事しつつ、思わず顔を背けた。背後で、先輩二人が不思議そうに、あるいは興味なさそうな態度で、顔を見合わせていた。

  

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