1
ナマエは欠伸を噛み殺して、机で小さく伸びをした。今日の一限は魔法史なのだが、この調子では教科書を枕にしかねない。
「随分と眠そうだな」
「あぁ、昨日はマジカメ巡回しまくってて……」
降ってきた低い声の耳慣れなさに、ナマエは途中で口を閉ざした。はて、自分の友人にこんないかついヤツがいたかしら。
ナマエが頭の中にわだかまる眠気を押し流す間も無く、声の主は彼の隣にどっかりと座った。ナマエはつられるままに首を横にやり、魔法史の荘厳な教科書の表紙に危うく皺を刻むところだった。
夜空の星々のようにまばゆい銀髪がナマエの言葉を奪った。頭頂部には同じ色の大きく分厚い獣の耳がそびえたっており、ナマエが瞬きをすると、それらはぱたりと小さく震えた。
「はよ。ハウルくん」
彼の名前は、ジャック・ハウル。サバナクロー寮の狼の獣人であり、運動部からの勧誘の声が多い彼は一年生の中でも有名人だ。
ナマエは彼とはクラスメイトではあるが、――寮が別ということもあるし――雑談に興じることもそうそうなく、実習中に必要最低限の言葉を交わす程度の仲だ。
ジャックは狼らしくフサフサとした大きな尻尾をゆるりと揺らし、椅子の背を軽く叩いた。
「その呼び方、やっぱり落ち着かねえな。ジャックでいい」
やっぱり、という言葉に、ナマエはふと口元を緩めた。
ナマエが軽く声をかけるときに、垂れた前髪から覗く琥珀の瞳がたまにもの言いたげな色をにじませていたのは知っていた。だが、わざわざその場で言うのは、彼の性格が許さなかったのだろう。
彼の生真面目さについては、ナマエはこの身をもって学んでいる。その琥珀が授業中に私語したり、居眠りする生徒に対しては鋭いものになっていたことも知っている。だって、そいつらの隣の席は俺だったし。
名前の呼び方なんて、その場で言えば変えるのに。真面目クンここに極まれりなのだ。もっとも、誠実な人間は嫌いではないが。
「そんな気はしてた。俺も名前で良いよー?」
「わかった」
返事は一言だったが、言葉尻は先ほどよりもこころなしか柔らかい。サバナクロー寮の生徒、引いては獣人属は血の気が多いイメージだったが、生真面目な彼は違うようだ。……もっとも、ディアソムニアの自分には思われたくないだろうが。
ジャックはおもむろに、カバンから取り出した一枚の紙をナマエに差し出した。
「ほら、これ」
「え、なになに」
手元を覗き込めば、それがなにかのレポートであることはすぐに分かる。ナマエの中で、すぐに「今日何か提出するものがあっただろうか?」という疑問が浮かんだ。
「おとといの、錬金術の授業で作った薬の作用機序がわからないとか言ってただろ。これにまとめたんだよ」
「へ?」
提出用じゃないから、レポートの体裁はそんなにとってないけどな、と彼はぶっきらぼうに言った。
ナマエは、紙を受け取りながらも、脳内では疑問符であふれていた。というか、おとといの錬金術の内容から思い出さなくてはいけなかった。その時の課題はなんだったか、痛み止め?成長剤?……そもそもジャックと一緒にやっていたっけ。
一日二日も過ぎてしまえば、自分の発言など頭からすっかりと抜けてしまうのが普通だろう。
ジャックの几帳面な文字をなぞりながら、ナマエはゆっくりと思い出す。そうか、眠り薬を作っていて、なんで眠くなんだろうねとか軽く話していた……気がする。あと、教科書の内容が難しいとぼやいたか。
ジャックはA4サイズのレポート用紙いっぱいに、体内の現象とか、だから薬はこう効くとかを図解してくれていた。その内容は、学年順位が下から数える方が早いナマエが理解できるほど、わかりやすく書いてある。――しかも、全部手書きだ。
「字が雑なのは勘弁しろよ」
「雑!?まさか!すごく丁寧で、優しい字だし!」ナマエは息を荒くして、用紙を指差した。「こ、これ!ほんとうにすごいよ!俺でもわかる!すげー感動した!」
「お、おう、なら良いけど」
ナマエはすごいすごい、と興奮からひとりでに言葉をこぼした。
「すごいなぁ、ジャックと付き合える子とかすっごい幸せじゃん」
「変なこと言うなよ」
「本当のことだよ、本当に思ってる、本当に、マジで」
「ふーん……」
ナマエはため息をついた。同級生のたった一言の疑問に、彼はA4サイズのレポート用紙一枚にたっぷりと書いて答えてくれた。これ以上にすばらしい好意の形はないだろう。
真面目だと微笑ましさを覚えていたが、こうされてしまうと嬉しさと感動の方が強くなる。
「俺と付き合えるヤツが幸せね」
「うん」
「じゃあ」ジャックは発した。「付き合ってみるか」
「うんうん。……うん?」
聞き捨てならない提案に頷いた気がして、ナマエは用紙から顔を離した。
「決まりだな」と、ジャックはにやりと口の端を釣り上げて、鋭い歯牙があらわにした。同時に獲物を目の前にした獣のように鋭さを帯びた琥珀の視線がナマエを射抜き、一切の反論を許すことはなかった。
2
学園と、ディアソムニア寮の空模様は随分と様変わりする。ディアソムニアのそれは、空の雄大さを忘れさせるほどに暗雲が立ち込めているのだ。ナマエは、寮自体に不満はないのだが、この暗闇は苦手だった。
「あっはっは!」
そんな門前の陰気さは、彼の軽快な笑い声ですこし和らいだ。
――彼、それは我らが副寮長、リリア・ヴァンルージュ。
「ほ、本当に付き合っておるのか、それで!今日から!」
腹を抱えて、くふくふと幼げに笑う彼に、ナマエはスマホを差し出した。
「付き合ってます。ほらツーショ」
「ほお、なかなかの男前ではないか」
少年のような彼に顔を寄せられると、ふんわりと上品な香水のにおいが漂った。ナマエにも言えたことではないが、相変わらず年齢不詳感が否めない。まあ、だからこそ、話相手になってもらったのだが。
ナマエは、ジャックと付き合いを始めたことを本来ならば誰にも打ち明けるつもりはなかった。変に噂されてしまえば、お互い不都合が生じてしまうかもしれないし。しかし、経緯が経緯だ。流れが面白くて、つい話したくなったのだ。
このリリアという人物は、あっけらかんとしておりナマエと気があうし、かといって万事てきとうに済ませることもない。ナマエを含めたディアソムニアの寮生は、リリアが、あのマレウスの右腕として非常に頼りにできることを知っている。なんせ、式典などでは姿を現さない寮長に代わって、寮生らの先導や統率などを行い、その手腕をいかんなく振るっているのは彼なのだ。
彼にならば、話してしまっても良いだろうと、ナマエはこの放課後に話をしに来たのだ。
「ジャックって、すごく良いヤツなんだと思います。だからもっと仲良くなれたらいいなって」
「同意の上ならばわしとしても文句はない」
「それはもちろん!男と付き合うのも面白そうだし!」
「うむ、うむ。存分に楽しむがよいぞ」
リリアの白い手がナマエの顔に伸びた。背をかがめると、柔らかな指先がナマエの頬を何度も撫でた。
3
ナマエの茨の谷で過ごした日々――特に、付き合った女の子との思い出を随想すれば、日記が何冊にも及ぶ。自分の恋愛経験は、人数だけでいえば豊富なのだ。
ナマエは植物の妖精だ。魔導は常に植物と密接な関係にあるため、必然的に他の妖精族との付き合いが増える。だいたいみんな呑気で移り気だ。くっついたり、離れたりを繰り返しているのがいつものこと。
初デートはお気に入りの草原で、恋人と花の蜜を飲ませ合うのがお決まりだ。
だからこそ、ナマエは目の前の光景に衝撃を受けた。
「本がいっぱい」
「そりゃ図書室だからな」
もう少し声抑えろ、とジャックの指摘を受けて、ナマエは頷いた。
彼に放課後の部活がないことを確認されて、一緒に来たいところがあると誘われた。そして行き着いたのが、この学園の図書室である。
初デートってことでいいのかしら。彼らしいといえば、らしいけど。
「なんか課題あったっけ」
「課題以外にも用途があるだろ」
「小説とか好きなの?」
あ、絵本コーナーある。思わず向いた足は、襟首を引っ張る力に方向転換させられた。
「今日はお前について調べんだよ」
「えぇ?なんでぇ?」
「俺からすれば妖精族はわかんねえことが多い」
ナマエは首をかしげた。彼をここまで導いたのは、単純な好奇心なのだろうか。それにしては真剣な面差しだ。
「ええと、俺はさ、植物の妖精なんだ。心臓から花生えてんの」ナマエは首筋から頬を通る、“管“を指した。「で、首にふとーい一本の茶色い管があるでしょ?これは茎」そして、手のひらで頬を撫でた。「で、管が頬に来た時に、ビャーって放射線状に何本も細い線が生えてんじゃん?これは根っこ」
「待て」
ジャックが手を挙げて、ナマエの言葉を遮った。彼は褐色の手を眉間にやり、皺を揉んだ。
「妖精ってみんなそんななのか?習ったこともねえ」
「妖精の博士なら知っているんじゃない?妖精族と一言にいっても、いろいろいるしね」
「ふーん?」
「ジャックは何が知りたいの?妖精族について」
「そうだな……弱点を知りたい。妖精族が鉄と毒以外に、何に弱いか」ジャックは琥珀の瞳をナマエに向けた。「俺、というか獣人属は、嗅覚が人並み以上だから刺激臭に弱い。ねぎとか、薬品とか。本能的にぞっとくるんだよ。俺は入学してからそれを思い知った。だから、お前にも何かないのかと思って」
自覚しているもの以外にも、あるかもしれねえしな、とジャックは締めた。
ナマエはといえば、さも当然のように並べ立てられた理由に、目を丸くさせる他なかった。妖精族の知らない弱点だとか、そんなの、自分でも考えたことがない。
「深刻に考えすぎだよ。もっと気楽にしてもいーのに」
「お前な……」
ぐる、と、ジャックの喉元から唸り声がこぼれた。不満だ、とでも言っているようだった。
ちょっとした軽口のつもりだったのに、そんなに不機嫌になるとは予想外だった。だって、一時的な関係でしかない相手にそこまで心を砕くなんてことない。お互いに好きなものを好きなだけ語り合って、飽きたら元どおりになるものだ。
ジャックは今まで、一人一人にこんなに真摯に付き合ってきたのだろうか。
「何か心当たりとかないのか?」
「んん……弱点じゃないけど、ちょっとめんどくさいことはある」
知りたい?と、改めて聞くことは無かった。なぜならすでに彼はその大きな掌にメモ帳を用意していたからだ。
4
この学園は茨の谷よりも空気の魔力が薄い。その代わりに魔法石から供給される魔力を受けて、妖精たちが快適な空調となるように保っている。ナマエにとっては、そこだけは救いだった。
朝の日差しを背に受けて、ナマエは植物園へと向かった。すでに入り口にはトレーナー姿のジャックが佇んでいた。
「ごめん、待たせた?」ナマエは駆け寄った。「ジャックって早起き得意なんだね」
「そうか?まあ十時には寝てるしな」
「はやぁ」
自分だったらまだスマホいじってまだ十時だ余裕だまだ起きてよう!とか思っている頃だ。
……というか、よく此処に来たものだ。確かに、自分の厄介な性質を教えるために、「日が昇った頃に植物園に来て」と頼んだのはナマエ自身だった。それでも彼は二つ返事で頷いて、実際に来たものだから、普通に驚いた。
ジャックを連れ立って中に足を踏み入れれば、温室特有の湿った空気が頬を撫でた。心地よさに、ナマエは目を細める。
「それで、わざわざ場所を指定した意味はなんかあるのかよ」
「一応?ここが一番快適だから」ナマエは胸の中心を撫でた。「俺、一日に一定時間日光浴しないと調子悪くなんのよ」
これは、茨の谷ではまず無かった現象だ。日差しを忘れたままでいると、立ちくらみから始まり、ひどい時には寝たまま動けなかったりした。どうやら、ナマエという妖精の存在に消費する魔力と、ナマエ自身が生成できていた魔力の釣り合いが取れていなかったようなのだ。
ナマエの性質は植物に近い。月光でも、日光でも良い。とにかく光を浴びれば、エネルギーを作ることができる。だから一日に、日差しを受ける時間を設けなくてはいけない。
「別に、日光浴できればどこでもいいけど、植物園の環境が一番すごしやすいの」
「なるほどな」
「ほら、ジャック」ナマエはジャックの手を取った。ナマエからすれば、彼の手は少し冷えている。「俺の手、あったかいでしょ?元気が出てきてるってこと」
それで、とナマエはジャックから手を離して、足元に向かって指を振った。
「何をしたんだ?」
「茨が生えるようにした。このあたりって授業用の薬草集める生徒たちに踏み荒らされるから、かわいそうでしょ」
適度な刺激は植物を強くするが、このあたりは踏まれ過ぎていて、草も生えない状態になっていた。それではあんまりだ。
「いつもこんなことしてんのか」
「いつもは暇だからマジカメ漁ったり、他の植物の様子を見ているよ。枯れそうだったら手助けするくらい。ほら、たとえば向こうのサボテンとか」
「な、どれだ!?」
「あれあれ。あの子はちょっと葉焼けしてるから、そろそろ日陰に置いてあげないといけない」
言い終わるが否や、ジャックは慌てて植木鉢に駆け寄って、それを移動させた。
彼から他に危ういサボテンがないかと聞かれたので、ナマエは一つ一つ検分し、あいつはコブが出始めているから要観察、彼女はごはんが足りないから今度肥料いっぱいの土に植えかえるように、だとか説明することになった。
一通り言ったところで、ナマエは発した。
「ジャック、もしかしてサボテンが好きなの?」
「好き、だし、こいつらは俺が育ててる株だよ」
「あ、そうなんだ。通りで幸せそうなんだね、納得」
ふふ、とナマエがはにかめば、ジャックは怪訝そうな面差しになった。
「なんだよ、俺がこんなことしてたらおかしいかよ」
「え?違う違う。なんかようやく恋人らしいやりとりしたなって」
「はあ?」
「だって、普通は自分の好きなものを語り合うもんだよ。好きな空の色は?好きな花は?とっておきのお昼寝する場所とか!そこが一番個性が際立って、面白いんだよねぇ」
ナマエは銀砂のようにまばゆい星がきらきらと輝いている夜空が好きで、甘い蜜を持つ花が好きで、窓際でうとうとするのが大好きだ。それを彼女たちに語って聞かせるのが楽しくて、反対に彼女たちの好みを知るのが、これまた楽しいのだ。
「ねぇ、ジャック。ジャックが好きなものは、何?」
サボテンと、それと何が好き?
ナマエの問いに、ジャックの尻尾は心なしか重たそうに下へ垂れていく。
「俺は……」琥珀の瞳は、つ、とナマエから視線を逸らした。「……時間だ」
「時間?」
「いや、もうすぐ予鈴だ」
「え、――ほんとだ!」
サボテンの世話に躍起になってしまっていた。あいにく教材を持ってきてはないため、一度鏡舎に行って、着替えて、カバンを持って……。遅刻はリリアに怒られるという焦燥でナマエは包まれ、背後の狼の視線に気づくことはついぞなかった。