男は笑みを浮かべた。天啓を得たかのような、清々しい心地だった。
 彼は指先を動かすのも億劫であり、その上死ぬのならば肉体を寄越せと、悪魔がやってきたのにも関わらず。

「俺が持ってるもの、全部あげるよ」

 男は、悪魔にこうも続けた。

「その代わりにマキマさんの力になってくれ」


 ナマエは息を詰めて、ベッドからゆっくりと這い出た。
 湿ったバスタオルに足をとられかけながらーーこれも、床に落ちた服も片付けるのは後で良いだろう、と勝手に決めてーー、窓辺まで近寄ると、カーテンの裾を見下ろした。陽光は漏れておらず、まだ日が昇っていないのだと分かり、ナマエはまるで大仕事が終わったと言わんばかりに深くため息をついた。

 寝室の隅っこに転がしたバックからタバコを手にして、その透明の包装紙をばりばりと乱暴に剥がす。床に落ちたゴミを窓辺のへりに蹴りやりながら、タバコを咥えて、火を灯した。

 暗い部屋では、この小さな赤い光だけが明かりとなった。ナマエの呼吸に合わせてちらちらとするだけの光には頼りなさすら覚える。
 もっとも、魔人のナマエには、光量など関係ないのだが。

「マキマ様、起きてます? ……吸いますねー」

 事後報告だし、声のボリュームは限りなく0。マキマを起こしたくはないが、「声はかけた」という口実を作りたいがための行動だ。
 対してベッドに横たわるマキマには、ナマエの呼びかけに応じる気配が一切ない。ナマエがいなくなり、その余った分の布団を抱き込んで、安らかな寝息を立てていた。
 ナマエの視線は、時折身じろぎする足元から、呼吸に合わせて上下する彼女の胸元、そして掛け布団からはみ出て、外気に晒された細い二の腕や鎖骨までものぼっていく。

 彼はとっさに肺いっぱいに息を吸い込んで、喉が痛くなるほど何度もむせた。

 ――マキマの肌は柔らかくて、すべすべで、ぬくかった。
 この感想が全てを物語っているが、あえてつまびらかにさせていただけば、魔人ナマエは飼い主のマキマと生殖したというか、セックスしたというか、**ックしたというか、凸凹の粘膜をさしあわせたというか、雄しべと雌しべをなんたらしたというか。
 決してナマエがレ**したわけでもない。なんと両者(?)同意のもとである。
 (?)とつけたのは、昨夜マキマに自分を犯すように言われたからだ。
 ナマエはそれに従うしかない。ナマエはマキマに飼われている魔人なのだから、彼に関する全ての権利は彼女の口先一つでどうとでもなる。

 それにしてもセックスは最高のコミュニケーションだと言うが、誰だそんなことを言ったのは、とナマエは憤りを覚えていた。
ナマエは作法を間違えば、首をとられそうな恐怖に怯えながらギシギシしなければならなかったし、その間萎えなかった己を褒め称えたい。実際マキマの中がよろしかったのもあるが。

「あ、吸ってる」

 その軽やかな声が耳に届いた瞬間、ひやりとした空気がナマエの肌を舐めた。

「や、すんません。一応声はかけたんですけどー」言いつつ、ナマエはタバコをくわえたまま会釈する。「灰はちゃんと皿に入れてます」

 しわくちゃのシーツに座り込んだマキマはむ、と口を曲げて、眉間に少しだけ皺を作っていた。
 そんなことを言いたい訳ではない、と表情で語られている。これ以上ごねると物理的に捻られてしまいそうだったのでナマエはしぶしぶ灰皿にタバコを擦り付けた。

「ナマエくん、こっちにおいで」
「ワン」
「……はい、だよ」
「はい、はい」

 ナマエは言われるがまま、ベッドに上がり込んでマキマに向かい合うように正座する。

「キミの身体は誰のもの?」
「全部マキマ様のです」
「違うよ。元々は“彼”のもの。だから、彼のように振舞ってって言わなかった?」
「言われました」
「いつ?」
「……会った時から、何度も?」

 そうだね、とマキマの雰囲気が和らいだのを感じて、ナマエは額の汗を手でぬぐった。首の皮大丈夫か俺。

 ナマエは、ある男と契約した。男の全てと引き換えに、ナマエは力をこのマキマのために使うのだ。
 ナマエは男の皮を被って、マキマに近づいた。接触した瞬間に「どうして悪魔が入ってるのかな」と殺されかけたのは、嫌な思い出だ。命乞いをして事情を話せば、付き添うことを許されたためことなきを得た。
 その時から何度も言われているのだ。その男に添った言動をとれ、と。

 とはいってもマキマはこの体の持ち主だった男のことはそんなに話さないし、ナマエは悪魔だしで、なかなか上手くはいかない。
 ほとんどの場合、ナマエが察するしかないのだ。
 さっきのようにナマエがタバコを咥えた時がいい例だ。マキマが不機嫌になったと言うことは、男が吸わなかったからだろう。だから、ナマエはあまり吸わないように努力しなければならない。


 マキマはシーツに紛れていたシャツを着て、するりと猫のようにベッドから抜け出していき、通り際に、柔軟剤の匂いがふわりと香る。
 昨晩の、ナマエの汗と、むせかえるような彼女のにおいが消えていた。まるで、全て無かったことにされたようだった。

「お腹すいたし、ご飯にしよっか」

 朝日は昇っていたらしい。彼女がカーテンを開くと一層強い光に目がくらむ。
 ナマエは手でひさしを作って、口を開いた。

「あのぅ、マキマ様」
「うん」

 彼女が昨晩の記憶に、完全に蓋をしてしまう前に、ナマエはかねてからの疑問を口にした。

「マキマ様とヤるのも、この男っぽい行動なんですか?」

 マキマの動きが、一瞬だけ止まった。
 陽光にさらされた、彼女の横顔が一枚の写真のようにナマエの目にやきつく。睫毛一本一本の隙間から白い光がこぼれおちていた。
 おかしなことに、彼女に注いだそれは、光る涙に見えた。

「あのね、ナマエくん」

 小枝のような指でナマエの顎をすくい上げた。

「彼は、私を呼び捨てで呼ぶんだよ。いつも」甘咬みするように、ナマエの耳元で囁いた。「……呼んでみて」
「――」

 魔人ナマエはマキマには絶対服従だ。だから、その通りに言ったのだ。
 次に、ナマエは目を丸くすることになる。

 マキマの表情に奇妙なことが起きていたからだ。
 彼女は、ナマエのタバコを見咎めた時と同じ顔をしていた。

  

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