オリアスは恋に落ちる音を聞いた。
入学式、位階さえまだもらえていない彼は、まだ見ぬ学園生活にほんの少しの不安と大きな期待を背負ってこの悪魔学校にやってきていた。学業はほどほどにやるつもりだが、もっと別のことーー例えば師団活動だとか、友人関係だとか、恋愛ごとなどを謳歌したいものだった。
早速気の合いそうな奴を探すべく、オリアスは校門の前で視線を巡らせた。
とつんと、隣で何かが降り立つ音がした。つられるようにそちらへ向けば、まず白く染まった羽根が視界に入り、オリアスは瞠目した。
意志の強い瞳をまっすぐと学園に注いで、毅然と歩く彼女。
一目見て、あ、イイな、と思った。
オリアスがそう思った瞬間に、今度はズシャァ!あるいはズベン!となんとも情けない音を立てて彼女が盛大に転ぶ。
オリアスの恋情劇は、そんな奇天烈な開幕の音で始まった。
彼の家系能力は「占星(ラッキーハッピー)」だ。占星というからには、使用者にとって一番都合の良い、「ラッキー」なことが発生する。
オリアスのクラスメイトとなった彼女、ミョウジ・ナマエが門前でこけてしまったのは、彼が無自覚にその家系能力を発動したために起こったのではないかと考えられた。
当初ではただの仮説にすぎなかったのものの、最近となっては真実味を帯びてきている。
例えば、入試でヤマが当たり、良い使い魔を召喚し、そして上位クラスに入ると彼女がいたこと。
これだけでなく、飛行試験では後方を飛んでいた彼女が突然の追い風によりオリアスの腕の中に押し流されて「ラッキー」だったし、師団を決めるときには、オリアスが遊戯師団にたどり着くと、次いでやってきた上級生が「獲ったどー!!!」と一年生争奪(ルーキーハント)で捕まえた彼女を担ぎ込んだこともある(そしてやむなく彼女も遊戯師団に入り、「ラッキー」だった)。
こうしてオリアスが幸せな学園生活を謳歌できているかといえば、案外そうでもない。
その日、ナマエと師団室で「たまたま」二人きりだった。
入団は勢いで決まったものの、ナマエ自身楽しんでいるようで、自分から新しいゲームの製作に力を入れていた。
「このルールは少し変えた方がいいかな」
ナマエがホワイトボードにするすると文章を連ねていく。欲目があるかもしれないが、彼女の軸がしっかりとした書き方は見ていて気持ちがいい。
「……あ、そこ誤字してる」
「どこ?」
「ほら、横から二行目」
気づいていないらしく、ナマエは困った風にどこ、と繰り返す。オリアスは立ち上がり、ナマエに近づいた。彼としてはペンを探すようにホワイトボードの溝に手を伸ばしたつもりだったのだが、ナマエが大げさなほど肩を跳ねさせた。
ため息をつきたいところをこらえて、オリアスはハットのブリムを押し上げて、相好を崩した。
「いや〜、ナマエちゃん、いい加減慣れない?」
「いや、慣れない慣れない」
「すこしかなしいなぁ」
わざとらしく眉尻を下げて、弱々しい己を演じてみせるもナマエの口元は引き攣ったままだった。
「ほんと、呪いかけてるとしか思えないから」
親の仇を前にしたかのような刺々しさをナマエは抑えるつもりはなかった。
「ラッキー」と名のつくこの家系能力を「呪い」と称されるのは初めてのことだった。
確かに、人の幸運は、他人の不運につながることはままある。そう、オリアスが「ナマエといたい」と求めれば求めるほど、ナマエは運命を強制的に「オリアスと居る」方向へと転換させられるのだ。
二人の間で何度も事故染みた出会いが起こっていき、ナマエはそうして気づいたのだ。自分が不幸なことに見舞われるたびに、近くにオリアスという少年がいることを。
師団帰り、オリアスと別れる直前にほとんど嵐のような雨に降られて「オリアスくんでしょこれ!!帰れないじゃん!!!」と悲鳴帯びた怒りをぶつけられたのは昨日のことだ。
「呪いだなんて。むしろ俺は君の幸せを願ってるとも」
「嘘だぁ」
「君を不快にさせるつもりはないよ、本当……」
この言葉に、偽りは無かった。
オリアスはナマエの表情をほんの一部しか知らない。登校初日の毅然と面差し、クラスの中で高い位階になれた時の誇らしげな顔、ゲームの勝ち負けでほんのすこし表情がしまったり、緩む瞬間。
どの彼女だって好ましいが、自分に向けられるものがそんな厳しいものだと、やはり満足できない。
もっと、俺に笑ってくれたり、しないかな。なにをしたら、喜ぶのだろうかーー考えているうちに、何故かオリアスの視界は徐々に狭まっていき、完全に真っ暗闇に落ちていった。
――目が、開けられない。
ろうそくのような頼りない明かりがちらちらとまぶたをすり抜けて、オリアスは本能的に身じろいだ。
そうしてオリアスが肘や首をほんの少し動かすと、背中に何かがぶつかり、こもった音が響いた。どうやら自分がとても狭い場所に座り込んでいるらしいと、オリアスはまどろみの中で気がついた。
オリアスは目をつむったまま、耳を傾けた。自分以外に音を発する何かが、向こうにいるのを感じた。何か漁っているような、しなやかなものを折る音だったり、たまに「痛い」と女の子の悲鳴が上がっていた。
そこまで耳に入っているのだが、オリアスの頭はぐらりと船を漕ぎ始める。
鼻腔に蜜のような甘ったるい匂いが広がり、温度は人肌よりもすこし高めで、オリアスという悪魔の輪郭がとろけ落ちそうだった。居心地の良さはまさに極楽。
――オリアスは現在生きながらにして思考を放棄している状態だ。自分の目の前の事象はこの眠気の前ではどうでも良く、先程のものが夢ならば、また寝てしまいたいとさえ、望んでいた。
急に視界が白く染まり、オリアスは唸った。
「あ!やっぱり誰か居た!大丈夫!!?」
清涼な空気があたりに流れ込み、甘ったるいそれやまどろみが押し流されていく。オリアスははっきりと彼女の言葉を認識すると、混濁しつつあった記憶の中で一つ、確かなことを思い出した。
今は昇格試験の、「収穫祭」の真っ最中である。
オリアスがしみじみと思うのが、幸運だけではどうにもならない事はたくさんある、ということだ。
そりゃあ、能力を適用するものがゲームであれば、勝つか負けるか、あるいは引き分けるかの選択肢から、オリアスにとって色のよい結果が運ばれてくる。
しかし曖昧な事象――収穫祭においてはこの家系能力を行使すると、苦労が絶えない。ポイントが欲しいと望んでも、高ポイントの魔獣と鉢合いかけたのは記憶に新しい。逃げ切れた頃にはすでに日は沈んでいた。それから疲れた体を休められるところを求めた矢先に、鈍く重い疲労で思考を刈り取られていた彼は、あっさりと幻覚ヅルにつかまってしまったわけだった。
時刻を確認すれば収穫祭の二日目になったばかりだ。魔力はすっからかんで、食料も替えの服も入った荷物をごっそり他の生徒に持っていかれた。
だが目の前には、ずっとそばにいたいと思っていた少女がいる。
――オリアスは苦い顔をした。
本当に、“ついてない”。どうして、よりにもよって、自分を救出したのがナマエなのだろう。
「また使ったの、能力」
「いい加減にしてよね」と、呆れ気味にナマエは眉間に指を寄せて、ため息をついた。
「い、いやいやいや!」オリアスは大慌てで頭と両手を振った。「というか、む、むしろこれは不運だよ、俺にとって!」
「なんでよ」
「なんでってそりゃあ……言えない……」
言葉をちぎるようにしてぼやかしても、ナマエからの不審げな眼差しからは避けられない。
オリアスが暗い森に視線をさまよわせると、彼女は一歩踏み出して意地でも目を合わせようとしてきた。勘弁してくれ、とオリアスは大きく顔を背けて、ハットのブリムを下げた。
「うげっ!!?」
どろりとしたものが油断していたオリアスの顔に注ぎ落ちてきて、たまらず鋭い悲鳴をあげてしまう。
先の幻覚ヅルの粘液が、捕まっている間にそこに溜まっていたようだった。
ぬぐうことすら思いつかず、オリアスが目を固くつむって右往左往していると、不意に腕を掴まれて、引き寄せられる。
「――ナマエちゃん?」
腕を引いた存在へ、振り向いた拍子にぱふ、とやわかな布地が顔に押し付けられた。
「そんなに言いたくないの?」
と、先ほどより一層近くにナマエの声が降ってきた。オリアスはいよいよ逃げられないことを悟ると、罰が悪そうに肩をすくめた。
「や、だってよ、女の子に、こんな情けないとこ見られたくないもんだぜ?フツーはさ」
負けて悔しがる彼女を慰める役割ならば、喜んで請け負いたい。だが、反対に、今のように惨めなところを余すところなくつまびらかにされるのは、正直非常に恥ずかしい。
こうして面と向かって話している今だって、タイミングが許せば逃げ出す腹づもりでいる。
「そうなんだ」
ナマエはふふ、と鼻から抜けるような声で笑った。
顔の拭かれつつも、彼女の意味深な響きの相槌に、オリアスは胸の中でひやりとしたものを感じた。
「なんだよ」
「ふふ、ほら、目、開けて良いよ」
やっと取り返したクリアな視界の中心には、ナマエが佇んでいた。
「オリアスくんが私に慰められるの嫌なんだったら、ちょうどいいよ。普段嫌がらせされてる分、たっぷり返してあげる」
「かっこ悪いとこ、いっぱい見せてよオリアスくん」ーーにっこりと、ナマエは笑った。途端に、吹きこぼれそうなほどの熱が、一気にオリアスの体を巡っていった。
彼女の心底楽しそうな笑みは、正に悪魔的な可愛さ(デビかわいい)!と言うのに相応しい。
――オリアスはこの先の不運を憂う暇もなく、初めて自分に向けられた彼女の笑顔に、ただただそう思ってしまった。
スペシャルサンクス(ネタをいただきました):黄泉様
「オリアス先生の家系能力で不運に見舞われる夢主(例:会いたいなぁと思うと夢主が足止めくらう、オリアス先生のラッキースケベ被害)」