ナマエが手を伸ばしても、遅かった。

「一点集中!」

 ロビンの声が天高く響き渡り、不死鳥を思わせる炎をまとった矢が瞬く間に彼方まで走り抜けていく。キリヲのバリアを難なく通り抜けたそれを、ナマエが止め切れるわけがない。
 ナマエはへなへなと、力なく膝から崩れ落ちた。

 申し訳ございません、バール様。ごめんね、キリヲくん。ミョウジ・ナマエは失敗してしまいました。
 胸の内で謝罪の言葉を繰り返していると、ナマエに気づいたらしい、同僚のロビンが頭上に手を突き出して、こちらに向かって誇らしげにはにかんだ。


 位階一つで一喜一憂するこの構造が面白くない。そんな少数派の意見を持つナマエを拾ったのはバールという、後に雷皇となる男だった。
 彼はナマエを自分の手足としてよく使い、ナマエもそれによく応じた。数年前に、彼は機嫌よく言った。自分がこの悪魔学校にまで“手”を伸ばせるようにしろ、と。だからナマエは、教師として此処に配属されるために尽力して、彼の要望を叶えた。
 彼はナマエの功績を讃えると、次に腹心のキリヲの面倒をよく見るよう言いつけた。正しくはキリヲの計画――師団披露をめちゃくちゃにするのを手伝うこと。それが悪魔学校の崩壊、ひいては位階制度の崩壊の一歩となるらしい。

 だから、ナマエは止めなくてはいけなかったのだ。
 ロビンを。彼が、理事長のサリバンに緊急の連絡を入れることを。


「ナマエ先輩?顔色、悪いですよ」

 大丈夫ですか、と人懐っこい笑みとともに手を差し出されて、ナマエはやっと呼吸の仕方を思い出した。震えたまま伸ばした腕は空を切りかけた。しかしロビンの手は目ざとくナマエのそれをつかむと、今度は薄氷を扱うかのように、ゆっくりと降ろさせた。
 彼はそのままナマエと同じく地に膝をつけた。「先輩」と不安そうな声色で、きっとナマエよりも青い顔で、ナマエと視線を交じ合わせた。

「具合悪いなら早く診ていただきましょう!広場ならブエル先生がいらっしゃるだろうし……」
「ごめんね」ナマエは目を伏せた。「私、今日でいなくなるから、引き継ぎお願いね」

 言葉を連ねるごとに喉が締まっていき、最後はほとんど吐息のようになった。
 ここは悪魔学校。三傑のサリバンの威光が届くここにいては、きっと一連の事件の首謀者がキリヲであり、ナマエも同罪だとバレてしまう。そうなれば、きっと、ここにもいられなくなる。キリヲと仲良く檻の向こうに行くだろう。

 こぼした言葉に自分で疑問が湧いてきた。これは彼には言わなくていいことなのだ。どうしてこんなセリフがついて出てしまったのか。ナマエ自身わからない。
 ロビンはナマエの手を握った。彼の気持ちが一層こもっているのだろう、鉄の枷のように力強かった。

「どうしてですか?先輩、今日までいつも通りだったじゃないですか」
「ええ、いつも通りにしていたの。だけど、もうダメみたい」
「悩み事なら話してくださいよ、それともご家族のこととか?」

 ナマエは視線を落としたまま、首を振った。

 ナマエの人生を決めたのは、バールだ。彼はナマエの精神の柱で、良き悪魔だった。内心を全て打ち明けて、「それは淘汰されるべきじゃない思想だ」と認めてもらったのはいつだったか。初めて誰かの前で涙を見せたのはあの時だったのは覚えている。
 それから彼と仲間達に囲まれて、何度も混沌とした世界の想いを馳せた。同志らと言葉を交わすたびに、自分は間違っていないのだと、進もうとして暗かった道が灯で照らされるような心地がして、安心できたのだ。

 なのに、どうして。どうしてこのロビンという男にはなにも話さずにいたいのだろう。
 どうせ明日には何の縁もなくなる。ここで全てをぶちまけて、大事に育んだ彼との信頼を壊せばいいのに。そうすれば、胸がすっとするはずなのに。崩壊と混沌こそが、悪魔たる自分の幸福ではなかったか。
 喋ろうとするたびに、舌がもつれそうになる。

 バルス・ロビン。彼が研修生の時から、ナマエは彼を見ていた。
 なんせ彼はあの魔谷大戦三大英雄の一人、軍略もさることながら家系能力百射百中を名の通り実現し、大戦において味方を勝利へと導いたとされる大頭領バルバトスの傍系なのだ。警戒の目と、うまいこと利用できればいいという思惑で、ナマエは彼のことを見ていた。
 見ていると近づかれて、近づかれると自然と彼のことをよく知ることになった。

 家系能力の都合上、バルバトスの血を継ぐ悪魔は一人の世界に沈むことが多いーーというのはロビンの言だ。
 彼らは没頭することに苦しみも辛さも感じない。それが、普通だから。
 悪魔らしく飽き性のナマエにとって、最初こそは理解できなかった性質だ。しかし理解はできないものの、「一点集中」と資料に熱中する彼の横顔がまっすぐで、楽しそうで、ナマエはやがて監視という名目さえも忘れて、彼に見入り始めた。文字を追う眼差しを、ナマエは網膜に焼き付けて、人知れず穏やかな気持ちになっていた。
 ああ、貴方、一人の世界でも楽しいのね。

 いま思えば、そこからナマエの人格にひびが入ったのだろう。

 彼の中に居るナマエは、とても綺麗だろう。研修時代からよく自分をサポートしてくれたり、師団披露で一緒にまわるかなんて言い合えるような、信頼出来る先輩だ。
 ナマエは、それを壊したくなかった。彼の中でくすぶるだろう、ナマエと過ごした日々をいつまでも美しいままにしておきたかった。

 ごめんなさい、バール様。ナマエは失敗しました。もうお手伝いできそうにありません。私は不完全な悪魔でした。だって、私は彼に笑っていて欲しいと、ほんの少しでも思ってしまいました。

「私は多分、貴方と会わない方が良かったのよね」

 ナマエは微笑んだ。海水でも飲んでしまったような気持ち悪さに、ほんの少しだけ目尻が熱くなった。

  

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