放課後の教室は閑散としている。師団に所属している者は教室塔へ向かっているし、そうでない者はとっとと帰宅するか、食堂や廊下で溜まり場を作る。遊びに行く計画を立ててみたり、どこどこの師団へ見学に行ってみやしないかだのと盛り上がっているのだ。
オロバスはと言えば、そんな彼らを尻目に図書館へ足を運ぶのが日課となっている。
授業で学んだことはその日のうちに復習して、それに合わせて予習もやってしまいたいーー雑音がほとんどなく、膨大な資料を備えている此処は、彼にとって都合が良かった。
この図書館を活動場所にしている師団は図書師団や魔王師団といった比較的穏やかな面子だ。加えて私用で訪れるものは皆悪魔にしては勤勉といえる。
だから耳に運ばれるのは師団活動に勤しんだり、勉学に励む彼らの声や、本のページがめくられる音ぐらいだ。
オロバスの妨げとなるものは一切ない。実に、居心地がいい空間なのだ。
少なくとも最初のうちはそうだった。
オロバスは眼鏡のつるを押し上げて、周囲を見渡した。
ここまで、露骨だと流石に気になる。
他の悪魔が、近くに全く居ないのだ。少なくともオロバスが席についている場所から、半径数メートル内は誰も寄りつこうとしていない。来たとしても目的の本を見つければ、半ば逃げるように別のテーブルに向かうし、先ほどオロバスと目が合った者には「勉強の邪魔してごめんね。二番がとれるといいね」と泣きそうな顔で謝られた。
腫れ物のような扱いに、オロバスは困惑しか覚えない。
確かに、騒がしい環境で資料を読み込むのは嫌だと感じていたが、ここまで避けられるのもおかしいだろう。
原因に見当はついていた。
いつからだったか、誰が口にしたのかは分からないが、オロバス・ココは妙な宗教の信者であるという噂が立っていた。
その名も二番信仰。
信者は“二”という数字を崇め奉り、あらゆる“二”とつく記録に名前を刻むことに血道を上げているーーという、オロバスにとっては理解不能、また迷惑極まりない代物だった。
そんな宗教に入信した覚えはない。これはオロバスが入試や他の昇級テストでひたすら二位をとった事実に対して、おひれがついた結果だ。
もちろん、一位が取れないのは己の実力不足なのだ。そんな信仰は知らないと、自分が取りたいのは一番だと、何度主張しようとしたことか。
ただ、悪魔にとって信仰とは特別だ。なんせ畏れを見せないはずの悪魔が、畏れの対象を定めて、わざわざ尽くすのだ。
そこに尋常でないこだわりがあることは明らかで、他者がうっかり触れれば跳ね返りが強いだろうことが分かる。
同級生の悪魔はオロバスを二番信仰の悪魔と恐れて、避け続けている
隔絶されてしまった世界は、オロバスにとって心地の良いものではなかった。
打倒二番、目指せ一番。
オロバスは本棚を睨み付けるようにして、タイトルをあらためていく。知らない出版社のものもあり、あとで確認しておこうと記憶にとどめた。近頃実技や筆記で問題児クラスが目立っているが、オロバスは一位という結果をどうにか叩き出して挽回を図りたかった。
資料漁りに没頭していた思考は、ぽすぽす、と腰元で意図的に何かが当てられた感触で引きずり戻される。視線を下ろして、オロバスは柄にもなく声を上げかけた。
「よー!コ、ムグッ」
「静かにしないか」
咄嗟に手で彼の口を塞げば、モゴモゴと抗議の声らしいものが手の内に響く。視線で廊下に出るように促せば、オロバス・ココの幼馴染、ミョウジ・ナマエは素直に応じた。
「ココちゃんひでーー!死ぬかと思った」
開口一番のセリフにオロバスは苦い顔をした。
「ココちゃんと呼ぶな」
「え?じゃあコッコちゃん」
「ちゃん付けをやめろと言っている」
そう呼ばれるのは女子のようだし、侮られている気がして不快なのだ。オロバスが険の入った眼差しを向ければ、ナマエは「じゃあさ」と人差し指を立たせた。
「ココぴょんでいい?あ、そういえばなんかシャンプー変えた?」
「駄目だ。それと何故シャンプーの話を突然持ち出すんだ」
「廊下まで一緒行くときにすっげーいい匂いって思って。あ、もしかしてこの前でてた新作?ココぴょんってそういうのキョーミ無さそうなのに」
呆れるほどに強かな彼にはそのふざけたあだ名を止めるようにたしなめる気も起こらない。深いため息とともに、もうココちゃんで良い、とだけ返した。
「あ、何その顔」
「君には何を言っても無駄だと思っただけだ」
「おお、今更じゃん。よしよし」
「誇らしげな顔をするな」
能天気に手を6の字にしてヘラヘラと笑う彼は、何で勝ったつもりなのだろう。
「……それで、何の用だ?おおかたその頬についてだろうが」
オロバスはその幼馴染の頬にできた、目を引く赤を指差した。
「おっ、それよ聞いて欲しかったの!」
ナマエは大袈裟に何度も頷いた。そしてオロバスと向き合うと、身振り手振りで話し始めた。
「いや実はさ、この前気になってる子いるって話してたじゃん?」
「ああ、私のクラスの」
「そー!同じ師団入って、この前の師団披露で、なんとか一緒に勉強する仲まで漕ぎ着けて!………あ」
ナマエは上目遣いで、にやりと笑った。
「なんだ」
「ココちゃんはこういうのわかるかな?なんかお互い良い雰囲気なったって時っていうのがあるんだよ。脈ある悪魔同士そろえばさ」
「成る程。気分を害したから戻っても良いだろうか」
「ちょっ」ナマエがおもちゃを盗られた子供のように頭を振って、オロバスの裾を掴む。「だ、ダメダメダメ!もーココちゃんってば意地悪だな!!続けるからね!?」
裾を掴まれているせいでナマエの挙動に合わせてオロバスの腕が思い切り揺さぶられるのだが、お構いなしらしい。
それどころか諦めて脱力したオロバスを見て、逃げる様子がないとポジティブに捉え出す。
「よし!それで、思い切って告ったの。俺ちょうど師団の恩恵に預かって、位階上がったばっかだったからいったれーー!って、……で」
両腕を万歳にしたところで、ナマエの表情は一気に渋いものになる。空いた手で、赤くなった頬を労るように撫でた。
「……そしたらコレですよ」
「ほぉ」
やんわりと裾を掴んでいた指を引き剥がし、オロバスは言った。
「何をすればそこまでされる。どうせ図に乗って尻尾でも触ったんだろうが」
「ちっがーう!違うよ!そういうのはやめとけってココちゃんに言われてたから、俺ずっとおしゃべりしてたの。あ、勉強もちゃんとしたぜ!」
「話がずれ始めている」
「おっと!俺としたことが……」ナマエは後頭部を乱雑にかいた。「それで、理由聞いたんだけど、『あなたにはココちゃんがいるでしょ!』って言われて」
「……は?いや待て」
「でさー」といつもの調子で続けようとする幼馴染みの話を、オロバスは遮った。
「そこで何故私が出てくる?」
「や、聞いたよ聞いた!なんでココちゃんが!?って!関係ないじゃん俺のダチのココちゃんはさ」
「そうだろうな」
よもやナマエの話に真摯に相槌を打ち、傾聴の構えを取る日がくるとは思わなかった。
オロバスの熱い視線に気づいていないナマエは、指揮棒のように人差し指を上下に振った。
「で、あの子が続けたんだよ。『シャンプーの種類まで把握してる女友達なんていないわ』って……」
ナマエは唸りながら、発した。
「二番信仰のオロバスと、俺のダチのココちゃんが繋がってなかったみたいなんだ……」
「説明したとこでまたフラれたけどな」と、ナマエはがっくりと肩を落とした。それから抗議するように、オロバスの腕をぽすぽす、と二度小突いた。
「おしゃべり作戦失敗の大失敗だ。……って、おい。何笑ってんだ。ココちゃんのせいだぜ、これは」
「ふ、ふふ……いや、君の自業自得だろう?」
オロバスは肩を揺らして、ナマエに笑みを向けた。
「あ、ひっでーー!」
自分がフラれたことを指して笑ってるのだろうと、ナマエは勘違いして、ほおを膨らませていた。
実際には違う。彼が、「二番信仰のオロバス」以外の自分を知らしめていることに自然とオロバスの頬がほころんでしまったのだ。
ナマエの彼女と思われるのは不本意ではあるが、恐れの対象となるのよりもずっとマシだと思えた。
それに根本的な解決にはなっていないが、避けられている原因がオロバス自身ではなく、二という数字にあるとだけわかっただけでも良かった。
廊下で向かい合う二人組を尻目に、生徒たちは放課後の時間を思い思いに過ごしている。拗ねた様子の男子生徒と、それを笑っているもう片方の生徒があの二番信仰のオロバスとも気づかずに、靴音を弾ませていた。