だんだんと近づいてくる足音を、バラムは耳の底でとらえた。
 誰かが来た。
 そう認識して、椅子から立ち上がる頃には扉が押し開けられていた。

「あ、バラム先生」

 ひょっこりと姿を現した少女にバラムは身を固くした。

 ノックをしなかったということは入間以外の者だ。友人のカルエゴか、同僚の誰かだろうと踏んでいた。

 生徒が質問に来ることは滅多にない。
 一応、バラムは空想生物学の講師ではあるが、生徒らは魔歴においての空想生物学を修めたダリや魔生物を担当するスージーといった他の講師に流れていくのが常なのだ。なんせあのコンビは学校の行事でよく顔を出すため、生徒からの信頼が厚い。

 しかし、実際はどうだ。多少着崩しつつもこの悪魔学校の制服で身を包んだ少女が、扉の前でたたずんでいた。
 彼女は、まぎれもなくこの学校の生徒だ。

 バラムは一瞬のうちで驚きと感動さえも覚えた。
 触れようとすれば蜘蛛の子を散らすように逃げ出していた存在が、目の前に居る。

「先生?」
「あ、ごめんごめん……ええと……一年生の子、だよね。この前僕の授業に出てた」

 確か魔歴の担当講師ダリに代わって、自分が授業した際に出席していたはずだ。あの入間ーー人間を目の当たりにしたあの数日前の出来事を、バラムはすぐに思い出せた。
 少女は目を丸くして、首元を包む鱗の縁をむずがゆそうにさすった。

「そうだよ。問題児クラスのミョウジナマエ」
「ミョウジさんか。僕に何か用事かな?」

 彼女はバラムを見つめたまま、首をかしげた。

「用事が無かったら来ちゃ駄目なのか」
「き、」

 カチャ、とバラムの口元から金属音が響く。裏返りかけた声を諫めるように、マスクに手を当てたのだ。

「――そんなことないよ! 全然!!」
「そっか。なんか怒ってるみたいだったから」

 指摘されてから、バラムは見下ろしていたミョウジをよくよく観察した。彼女は年相応に小柄な生徒であり、対してバラムは雲をつくような体格である。怒ってるみたい、と言われた通り、バラムの振る舞いが威圧的に感じたのも無理はない。
 悪いことをしてしまった。
 バラムが頭を下げて、口を開こうとする前に、目の前からくすくすと小さな笑い声が上がった。

「先生って、真面目だな」

 「さっきのは冗談だよ。ジョーダン」と、彼女は目を細めた。


 てきとうにタオルを濡らして、窓際にかけておく。ついでに水瓶に水を溜めたものを部屋の隅に移動させた。
 実験と鑑賞を兼ねて栽培してある植物の葉をつまみ、厚くてよく湿っていること確認すると、バラムは座っているミョウジに目を向けた。

「大丈夫?あつくない?」
「全然」

 おいしい、とミョウジはバラムの淹れた茶をすすって呟いた。
 自分が聞きたかったのは気温の方の暑さだったが、確認できる限り快適そうで内心ほっとする。

「入間が居座るのもわかるな。噂に聞くよりもずっと過ごしやすい」
「それなら、良かった」

 噂に聞くよりも、という発言は気になったがおおむね自分が知っていることだろう。
 バラムに捕まれば食われるだとか、実験に使われるだとか、そのあたりだ。だからこそこの部屋を訪れる生徒はそらであげられるぐらいには少ないのだし。
 ミョウジは物珍しげに本棚や天井にしきつまった植物を仰いでいる。

 そんな彼女と向かい合うようにバラムも席についた。

「そうそう、言っておかないといけないことがあったんだった。僕が一年生のテストに関わるのはこの前授業で教えたところだけだよ」
「人間をどう扱うか、っていうあたりも?」
「あ、その項目は皆の考えを聞きたいんだよね。そこを教科書でじっくり勉強する時間は他の科目にまわしてほしいな」
「わかった」ミョウジは任せろと言わんばかりにこくりと深く頷いた。「他の子にも私から言っておく」
「お願いね」

 早速ス魔ホを取り出して打ち出すあたり、現代っ子というか、行動派というか。テスト前の学生は時間と情報が命なのだから、当たり前か。

「入間には教えてなかったんだな」
「言うの忘れててね」
「そっか、先生に他の科目も教えてもらっているって言ってたな。……あ、手作りの教材とかは私たちもお世話になってる。すごいわかりやすかった」
「本当? なんか照れるなぁ」

 読んだ感想を面と言われて、くすぐったさに目元が緩んだ。

「入間くんがちゃんと話しを聞いてくれるから、僕も気合いが入るんだよね」

 教材――もとい、絵本作りは趣味なんだけど、とそっとつけたしておく。
 ミョウジは液晶画面に視線を落としたまま、空いた手でス魔ホを持つ手の甲の鱗を撫ぜた。そして考えているような間を空けて、口火を切った。

「ほんと入間のこと気に入ってるよな。先生って」

 ぐ、と溢れそうになった唸りをなんとか喉元で抑えた。
 入間の名前が出された瞬間、脳裏に彼は人間であるという事実が浮かび、背中に冷や汗が滲む。
 この時ほどマスクをしておいて良かったと思うことはなかった。

「気に入っているというか、一生徒として興味深いというか……」
「ふぅん」

 一通り連絡を入れたらしい、ミョウジは顔を上げてバラムに訝しげな視線を投げた。

「そこで少し、気になってたことがあって」
「気になってたこと?」

 ミョウジは頷いた。
 打ち切られると思っていた話題を掘り起こされそうな予感に、バラムはまた顔が強張るのを感じた。
 平静を装って先を促すと、ミョウジは変わらぬ顔で言った。

「先生はどうして私を撫でないんだ」
「え」
「先生は、どうして、私を、撫でないんだ」

 ミョウジのつるりとした瞳には、目元だけでもあっと驚いてると分かるバラムが映っていた。
 その通り、彼女がやって来た時の驚きや感動を飛び越えるくらいの意外さに、バラムは言葉を失っていた。
 彼女は今、さながらカルエゴのような厳粛さも持ち合わせる表情で、なんと言ったか。

 沈黙するバラムに、ミョウジは続けた。

「ほら、授業中にクララや入間を抱っこして撫でてただろ」ミョウジは空中で何かをさするような動作をした。「でも私は一回も無かったのが気になって」

 ようやく思考が追いついたバラムは、慌てて首を振った。

「や、だって、キミを撫でるワケにはいかないだろう」
「つまり撫でたくないってワケだな」
「そういう意味でなくてね! ――キミは肌が弱いから、撫でられないってわかってるでしょ!?」

 突きつけられた言葉に、彼女は不満そうに眉根を寄せた。しかし、バラムの言い分に間違いはなかった。

 この悪魔界の住人を全てひっくるめて悪魔、と呼称するものの、特性は同じわけではない。とりわけミョウジの家系は、本来ならば水中に住む方がマシと生徒名簿の備考欄にあるほどその身は地表に弱いのだ。
 彼女の天敵は高い気温、乾燥。そして、他者の肌の温度も例外でない。

「……別に、クリーム塗ってるから平気だけど」

 本人の言はこうである。そういう、自己判断はよくないんじゃないかなぁ、とバラムは頭を抱えた。
 下手を打てば自分の指先一つで、彼女を火傷させてしまう可能性がある。

「平気と言っても、実際はそうじゃない可能性がある。いいかい、生物である限り、絶対なんてことはない。キミの体は繊細で、複雑なんだ。慣れない環境に適応するのには時間がかかる。……それに傷がついて辛いのはキミだよ」

 認識が甘すぎる、と連ねようとした言葉は不発に終わった。これ以上責めるのはバラムの良心が咎めた。
 目の前の少女が、自分の想像以上にしょげていたのだ。
 伏せた眼差しは先ほどのまとった厳粛さはなく、ひょっとすれば泣いてしまいそうであったし、閉じきった口は悔しそうに歪んでいた。オペラのような獣耳や尻尾があればきっと垂れてしまっているだろう。

「その、ごめんね。体質だけは、どうにもならないよね」
「……別に良いよ。そこまで言われると、諦めるしかないし」

 つい頭が熱くなってしまったが、そもそもの問いは何故自分だけ撫でられないのか、というものだということを思い出して、バラムは首をかしげた。
 抗議する、ということは不満を持っている、ということだ。

 つまり彼女はバラムに撫でられないことに不満がある、ということで。

「あの……ミョウジさんは、もしかして僕に撫でられたいのかい」
「いや、そこまでというほどじゃ」
「正直に言って」

 しばらく、ミョウジはバラムを見据えていた。言葉を口の中で何度も噛み殺した末に、ミョウジは「そうだよ」とふてくされたように、一つ頷いた。

 虚偽鈴(ブザー)に反応はなかった。つまりは、そういうことなのだ。


 生物の中身を巡る血というものは、体の隅から隅にまで至り、そこに熱をもたらす。
 だからこそバラムにできるのは、冷水に手をつけることで手の表面を冷やし、血の通りを悪くすることだけだ。

「少しでも痛かったり、しびれる感覚があったら言ってね」
「平気だって」

 頭に手を置いてまずは直接肌に触れない髪から撫でていく。それから頬を挟むようにして、手のひらで柔らかくおせば、ふかふかとしたすこし冷やっこい感触が返ってくる。
 当然だが、念子とも魚とも違う。冷たい水を薄い膜で覆ったものに指を滑らせているというか、なんとも形容しがたい。

 他の生徒にやるように顎の辺りもさすっていけば、爪先に何かの取っ掛かりがあることに気付いた。指の腹を首に添うように這わせて、彼女の耳の裏にまで辿るとそれが鱗であると分かった。
 バラムの手足を覆うものよりも柔らかく、規則的に並んでいる。
 用途が違うのだろう。
 バラムのそれは陸上で生活する上で水分の蒸発をできるだけ防ぐためのもので、ミョウジのそれは水中で生活する上で外敵から身を守るもの。

 正直、悪魔のこうした違いは興味深い。
 バラムが根負けして彼女を撫でている、というていだったが、生徒から懐かれるのは嬉しいものだし、こうして自分と異なる種族の者に触れられる機会が得られたのは役得というものだ。

 ふと指先に自分のものとは異なる熱さを感じて、バラムはとっさに視線を下ろした。

「ってミョウジさん、顔赤いよ!? 痛かったんでしょ!!?」
「い、痛くない! 全然」

 彼女は何度も痛くないから、と「嘘」の無い言葉を重ねる。その頬にサラマンダー・フラワーを思わせるような赤さをにじませて。
 しかしバラムにその意図はわからない。ただ、傷はついていないこと、嫌われてはいないことにほっとするのだった。

  

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