ストッキング越しではあるが、足の裏に湿った地面の感触が広がった。エリザベッタは、不快感よりも途方にくれた気持ちになり、目尻にじんわりと涙がにじむ。歪んだ視線の先には、彼女の両手のひらに乗せられた傷だらけのパンプス。

 登校中に靴がすっぽ抜けて、林に落ちてしまったのだ。落下地点をしかと確認したエリザベッタは急いで降下し、青々とした葉の中で、その赤を見つけられたことに安堵を覚えた。
 そのパンプスは、熟れたイチゴのような赤みが可愛らしく、それにエリザによく似合うと両親やクラスメイトから褒められた分、余計にお気に入りのものだった。しかし、今やあの蜜のような美しい光沢を失い、木々の枝に揉まれたせいで裏地が見えてしまうほどボロになっていた。
 落ちてしまったものを拾えば良いと、横着せずにいればこうならなかっただろうか。


「――お、やっぱイクスさんか」

 どす、と重量感のある着地音の後に、聞き知った男子の声。エリザベッタが振り返れば、彼は不思議そうに「どーしたのよ」と首をかしげた。

 エリザベッタへ救いの手を差し伸べた王子様はクラスメイトのミョウジ・ナマエだった。たまたまエリザベッタと通学路を同じくする――とはいっても、王の教室(ロイヤル・ワン)へ向かう途中の生徒なぞ限られてはいるが――彼は、彼女の姿を一目認めると、すぐに降り立ってくれたらしい。
 事情を聞いたナマエは、得心したように頷いた。

「俺は修復魔術とか知らないけどさ、ライム先生ならわかるだろ?」
「あ!」思わず、エリザベッタは声を出して驚いた。「確かにそうね。やだ、私、気が動転しちゃったみたい……」

 よくよく考えれば、同じ女性であり、親しい教師である彼女に相談すればよかったのだ。解決策が出てしまえば、なんてこともない。小さなことで涙しかけていた自分に、ほんの少しだけ顔が熱くなった。

「怪我とかじゃなくてよかったわ。飛んでる時に林の中でイクスさんの姿を見たときすげぇ焦った」
「心配してくれてありがとう」
「気にすんなって。授業始まるまで時間あるし」

 ナマエは龍を思わせるほどに太く長い尻尾をふるりと揺らして、にっこりと笑った。エリザベッタが見上げなければ目を合わせられないほどに身長が高く、がたいが良いものの、彼の笑みには愛嬌が滲んでいる。
 なんて、かわいらしい方なのだろう。エリザベッタもつられるように微笑んだ。

「俺のでよければ靴貸すよ。不便だろ?」
「え、そんな悪いわ!」

 慌てるエリザベッタをよそに、ナマエは「俺の足ごついからへーきだよ」と、シューズと靴下を脱ぎ始める。履き口から猛禽類を思わせるごつごつとした岩のような足が現れた。確かに、その足ならば地面の砂や石ころだってへっちゃらだろう。しかし、大好きなクラスメイトにそうさせるのは気が引けてしまう。煮え切らないエリザベッタにナマエは一言、「男の顔を立ててくれ」と押しきった。

 蝶よ花よ、私たちのかわいい小悪魔よ。両親たちに大事に育まれた彼女は、今日初めて、異性の靴に足を入れた。エリザベッタとは異なり、この靴は随分と荒く扱われたのだろう。底は擦れており、先っぽはデコボコしていた。

「ごめんなさいね、ナマエくん」

 エリザベッタの視線に、ナマエは居心地悪そうに肩をすくめた。

「こっちこそ悪い。貸すと分かっていればもう少し綺麗なものを履いてきたんだけどさ」
「ふふ、私だって落とすとわかっていればストラップ付きのものを履いてきたわ」

 試しに一歩だけ踏み出したところで、エリザベッタの体が傾いだ。ナマエが慌てて彼女の肩を持たなければ、危うくこけてしまうところだった。

「ナマエくんって、手も足も、大きいのねぇ」

 突っかけるように歩いても、靴が脱げそうになる。足首からして余裕がありすぎるそれに、エリザベッタはおもわず含み笑いをした。

「あー……妹に言われるよ。『兄貴は色々とかさばりすぎ』って。俺はでかいし、イクスさんは華奢だから、余計に差がでちゃったみたいだな」

 「ここに座って」とナマエは上着を脱ぐと、それを地面に敷いた。もう遠慮してくれるなよ、と視線で語る彼に、エリザベッタは素直に従うことにした。スカートを後ろ手でなでつけてそこに座れば、ナマエは満足げに頷き、彼女の隣であぐらをかいた。

 エリザベッタの履くシューズの紐を緩めて、中の足に合わせるように側面を寄せる。そこまでは良かったのだが、たゆんだ紐をまた穴に通す作業でナマエは苦戦していた。立派な体格の彼は、指もエリザベッタのそれより大きい。細々とした作業が苦手なようだ。
 エリザベッタは自分が代わりにやったり、上手なやり方を教える気はさらさらなかった。彼は彼のままが一番可愛らしいと、本心から思っていたからだ。
 心の中で鼻歌を歌いつつ、奮闘する王子様の大きなツノやつむじを眺めておくことにした。


「――おし、できた。……んだけど」

 語尾をぼやかしたナマエは、それから気まずそうに間をあけた。

「なぁに?ナマエくん」
「イクスさんの髪結んでるとこにさ、葉っぱが入りこんでるんだけど……取った方が良いよな?」
「あら」

 エリザベッタは身を硬くした。今の今まで己の見た目を気にすることを忘れていただなんて。それは彼にとっては小さくとも、彼女にとっては大きい衝撃を与えた。
 「お願いするわ」となんとか冷静な声を取り繕えば、ナマエはエリザベッタの髪をまとめていたリボンをほどき、手ぐしで毛束をほぐした。異性に髪を触れられるのは父親以来かもしれないーーナマエの手つきは、彼の性格通り、優しいものだった。
 葉を取り除くと、ナマエはエリザの髪をまとめあげた。意外なことに、今度は一息で終えていた。触れて確かめれば、リボンの左右の膨らみもきちんと均等だ。

「手際がいいのねぇ」

 エリザベッタは、そう口にしてから、失言だっただろうかと口元に手を当てた。おそるおそると顔をあげれば、照れ臭そうにしているナマエと目が合った。

「妹の髪いじってたから慣れてんの。まぁ靴紐結ぶの下手なのは認める」ナマエは続けた。「でもイクスさんの髪は細くて綺麗だから、下手なフリしてゆっくりすれば良かったかな」

 なんてな、とナマエは相好を崩した。相変わらずの愛嬌のある表情に、エリザベッタは発した。

「……ねぇ、ナマエくん。私のことはエリザって呼んで良いのよ。クラスメイトでしょう?」

 良いのよ、なんていうのは建前で、本当は今すぐにそう呼んで欲しくなった。先ほどまでは彼はそのままで良いなんて考えていたのが、嘘のようだった。

 きっと、彼は冗談で、クラスメイトとしてエリザベッタに向かって「もっと貴方に触れたい」と言ったのだ。その冗談が彼女の心に火をつけた。自分はこんなにナマエの一言にときめいているのに、そうさせた本人は、ただの戯れで、なんとも思っていないだなんて!
 そんな彼に、自分への恋心を芽吹かせてやりたいと、貴方に触れさせてくれと、願わせたくなった。

 まずは名前で呼ばせる、という一石を投じた結果を知る者は、数年後知ることになる。

  

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