今日のゲームは月の河公園で始まった。
 長い川が広い土地を二つに分け、それぞれの島にサーカステントやメリーゴーランドが設置してある。此処は軍需工場や湖景村と同じく人から捨て置かれた施設のようだった。だというのに背後のメリーゴーランドは、軽快な音楽を垂れ流してぐるぐるとまわっている。
 姿の見えない人間の息遣いを感じて、ナマエは薄気味悪さを覚えた。

「ただでさえ、気分悪いのに……」

 ひとりごちて、ナマエは懐越しに胃を撫でた。中身が今にもうごめきだすような圧迫感に、冷や汗が吹き出てきた。

 再び暗号機に触れる手は震えていたが、解読速度は落ちていない。良かった。
 サバイバーは全員残っているし、暗号機は残り一台だ。ナマエが進めているものをあげてしまえば終わりである。

 考慮しなければいけないものといえば、――己の体調だろうか。
 内臓が鈍く痛みだし、ナマエは暗号機からまた手を離した。


 この荘園に訪れた時よりも前の話だ。ナマエは胴や脚に銃弾を受けたことがあった。ナマエの有り様を診た医者は、食べ物を通る体の管がちぎれなかったり、脚を触られる感覚が残っただけまだマシだと言っていた。

 マシだ、と言ってもナマエの体は常人のそれより弱くなっている。ゲームをする上でナマエは他のサバイバーよりデメリットが多かった。
 ナマエは時間の経過とともに体が使い物にならなくなる。例えば解読速度が増すのを境にナマエの体には、心臓部を中心に痛みが走る。ナマエが耐えきれなくなった時には、窓の乗り越えや板倒し、そして解読を失敗するのだ。
 ナマエは万が一を考えて、解読を失敗した通知がハンターにいかないように内在人格を設定してある。ただ、終了が数秒も遅くなるのはこのゲームにおいて痛手だ。

 ハンターの妨害もなく、やっとの思いで暗号機の寸止めを終えた。反対側の土地にいた仲間たちにー幸いなことに全員無傷だー、そう合図を送ればやや間を開けてから解読を終えるように通知が来る。ゲート前に待機できているのだろう。
 通電したと示すようにサイレンが響き渡った。ナマエは近くのゲートへと向かおうと視線を巡らせる。
 すると目の前でジェットコースターのレールが、ナマエを引き止めるように低く唸った。「ハンターが近くにいる!」という言葉にナマエが気づいた頃には、既にこの終点に車体は下りてきた。

「ダイアーさん!?」

 車体から傷を負ったエミリー・ダイアーが転げ出た。そして、共に降りてきたのはヘラジカの頭を被った巨漢のハンター・断罪狩人。

 二人の姿を認めたナマエは、足をもつれさせながらその間に駆け込んだ。
 エミリーの具合をみるに今回のハンターは一撃必殺の異能は持ち合わせていない。ならば自分が間に入り壁となれば良いと考えていた。

 鷹が飛翔したような、鋭い音がナマエの耳をつんざいた。反射的に振り向いた頃にはすでに遅い。
 ハンターの放った鎖はナマエを捕まえると、バネでもついたように彼と共にハンターの手元へと戻っていく。
 ナマエは足が地に着いた瞬間、ゲートから遠ざかるよう一目散に走りだす。背後からハンターのいきばりと得物がから振る音がした。ナマエが愚直にゲートまで向かうと読んだのだろう。

「早く逃げて!」

 言葉を叩きつけるように怒鳴り、首だけで後ろを向けば、ハンターの肩越しにエミリーと目があった。彼女の顔には恐怖が張り付いていたが、やがて口元で何かを言うと、開いたゲート扉の向こうに消えていった。謝罪の言葉だろうとナマエにはすぐ見当がついた。
 私を助けなくて良い!と重ねれば、反対側の二人も脱出したと通知が来る。

 ――勝った!
 胸で快哉を叫びながら、ナマエは地につきそうな膝を必死に上げる。ナマエの背に向けて、「逃げられると思うな!」と言わんばかりに断罪狩人のしなった鎖が鳴っていた。

「――ぁ」

 体の中心に鋭い痛みが走った。ナマエは胸元をおさえるも、痛みは紛れない。頭の重みさえも煩わしく、勇ましく駆けていたナマエはほとんど這う形になる。
 ハンターはそれを見逃すほど甘くはない。減速したナマエを速やかに殴りつける。衝撃と痛みでナマエはめりこむように地面に転がる。

 咄嗟に顔についた土をはらっていると、頭上から重々しく鈴が鳴った。
 ナマエはつられるように顔を上げた。

 ヘラジカの無機質な眼差しが、倒れ伏したナマエを射抜いている。ナマエは口を何度か開閉させ、やがて閉ざした。

 ハンター、断罪狩人。
 ナマエはこのハンターが嫌いだった。
 機会があれば何か言ってやろうと思っていたし、今、口にしたいのは決して謝罪などではなく罵倒だ。
 だが、いつもうまく言葉が出てこない。この黒鼻の鹿は、ナマエに身をすくませるような恐れを抱かせた。

 ナマエが目を逸らせば、ハンターの腕が伸びてくる。さあ、これでーーー。

「は?」

 と、ナマエは思わず素っ頓狂な声を上げた。

 いつもならば、ハンターは倒れたサバイバーの腹には風船をくくりつけて、椅子まで運ぶはずなのだ。なのに今日はハンターに土嚢のように肩に担がれている。
 ナマエの顔は青白さを飛び越して灰色にもなりそうだった。

 本来ならばここまで不思議がることはない。椅子まで運ばれる際にリッパーに横抱きされたこともあるし、芸者なるハンターにだって抱きしめられたことがある。
 問題なのはこの断罪狩人の腹に回った腕が、ナマエの内臓を通り越して背骨さえも砕かんほどに力強すぎるということだ。
 また体が悲鳴をあげだした。蟻かなにかに内側から一口ずつ、無遠慮に食われているような痛みがナマエを襲う。

「や、無理、駄目だ、も“、ぅ」

 途切れ途切れに溢れる言葉は絶望感に満ちていた。ナマエは、耐えきれずに胃の中身を吐き出した。
 食道はまた収縮し、さらに戻すようナマエに促した。結局ナマエは涙目になって、咳を交えてハンターの背にかかった毛皮を何度も吐瀉物で汚した。
 落ち着いたところでナマエは地面に落とされた。
 そりゃそうだ、という納得はあった。サバイバーに服を汚されたハンターがとる行動といえば憂さ晴らししかないだろう。

 カラスたちがナマエの周りを回旋しはじめた。まるでナマエを今から地獄にでも導くかのような気味の悪さだった。

 ハンターはナマエの無言をどうとったのか、ナマエの顎を掴み上げ、そのままもう片方の指をナマエの口に突っ込んだ。
 突然のことにナマエは目を見開くも、状況が飲み込めずに動けなかった。
 太い指はナマエの喉の奥までたどり着くと、表面にあるものを掻き出すように粘膜をさすりだした。ナマエが咳き込むと、指はあっけなく外に出た。
 喉をつっかえていたものが無くなり、少しだけ息をするのが楽になった。

 それにしてもこのハンターは奇妙な動きをすると、ナマエは思った。
 ナマエが吐瀉物を喉に詰まらせて喋れなかったとでも思ったのだろうか。

 はは、とナマエは自分の発想に乾いた笑みを浮かべた。

「まさか、お前……僕を助けようと?」

 冗談のつもりで、浮ついた口調のままたずねた。するとハンターが沈黙という形で返事をしてくるので、ナマエは思わず神妙な面差しになる。

「……サバイバーに懐かれでもしたいのか?物好きすぎる……」ナマエはハンターをねめつけた。「でも僕はお前には絶対懐かないよ。鹿狩りは嫌いなんだ」

 ハンターは吠えて、地面に得物を殴りつけた。

「なんだよ」

 と、低く返すもナマエは今の衝撃で及び腰になっていた。

「俺は……、鹿狩りじゃねぇ。獣を、狩ったことは、一度たりともない」

 随分と喋りにくそうな、舌足らずな言い方だった。ただナマエの行動を制限するには十分な圧力があった。
 ナマエは息を無理やり吐き出すような笑い方をした。

「いやいや、鹿の頭を被ってるのに?どうみたって変態の密猟者か蒐集家だろーー」

 ハンターはまた中空に大きく咆哮し、先ほどよりもナマエの足に近い位置で得物を振り落とした。
 ナマエの足が稀に無いほど大きく跳ねる。

「わ、分かったよ!分かった!お前は変態でも密猟者でも蒐集家でもない!!」

 ハンターがようやく得物をナマエから遠ざけた。
 じゃあ、こいつはなんなんだとナマエは思った。疑問を舌に乗せたわけでもないのに、ハンターは発した。

「俺は断罪狩人。荘園に侵入する罪人を裁くために居る」

「ああ、くそ……」ナマエは頭をかいて、口先を尖らせた。「調子狂うぜ」

 ヘラジカの頭が傾いた。首を傾げているつもりらしいが、雲を突くような体格の彼がすれば眼前の雄鹿が臨戦態勢に入った風にしか見えない。

 ただ、そんな彼を前にしてナマエは落ち着いていた。
 ハンターの言葉を聞いてから、ナマエの心には余裕ができていた。

「とりあえず、きついから移動させて欲しいんだけど」

 ナマエは眉間の皺を深めた。
 土に撒き散らした分と、ハンターの毛皮に付着した吐瀉物の饐えた臭いが風になびかれている。元凶の自分が主張をするのもどうかと思うが、鼻に届く臭いにまた催しそうで辛いものがあった。
 「立て」と、ナマエはハンターに腕を引き上げられる。
 椅子の近くを通っても、不思議とハンターの得物を持つ手は振り上げられなかった。ナマエは訝しみながら、引っ張られるまま進んでいけば、河沿いの欄干へとたどり着いた。

 カァ、とカラスの鳴き声が聞こえた。ナマエにまとわりついていたものは全てどこかへはけていたと思っていたのだが、まだ残りがいるらしい。
 それにしては、随分と近いところにいるようなーーナマエがなんとなしにハンターを仰げば、その立派なツノにカラスが一匹。

「カラスいるけど」

 ナマエが腕を伸ばして、はらおうとする仕草をすればハンターは巨体を揺らした。

「放っておけ。気が済んだら何処かへ行く」
「あ、そ」

 慣れてるなぁ、毎度のことなのかぁ。
 ナマエは欄干に肘をついて、太く息を吐いた。そのため息とともに心のトゲが落ちていくような気がした。

「僕は、お前を密猟者だと思ってた」汚れていた口を拭って、ナマエは水面に視線を下ろした。「だから面と向かう機会があれば文句の十個も百個も心づもりだった」

 問わず語りをするナマエと、ハンターは一緒になって欄干に手をついて、大して面白くもない河を見つめていた。ナマエの話を黙って聞いているように思えた。

「この荘園には深い森林があるのは知ってるだろ?そこにドブ以下の密猟者共がやってきて、住んでいる鹿たちを撃ちつくした」

 ナマエは手すりを音が出るほど強く握った。

「酷いもんだった。生まれたばかりの子鹿を吊るして親を撃ったり、足ばかりを狙って苦しませた挙句にトドメをささなかったり……文句を言いに行ったら今度は俺も一緒に的になった。お陰で足も体の中もめちゃくちゃだ」

 ナマエは喉元の皮膚をさすり、上がっていた息を整えた。
 はっきりと思い出すのも喋るのも、久しぶりだった。
 ナマエはこの記憶を遠ざけ続けていた。思い出せば瞼にあの凄惨な光景が浮かび上がり、頭の中で銃声と鹿たちの悲鳴が響く。

 ナマエが苦しさを伴っても話したのは、この断罪狩人に森の隣人らを守れなかった自分を裁いて欲しかったのかもしれない。

「ナマエ」
「なんだよ」
「何故ここにいる。復讐か?それとも生き急いでいるのか?」

 ナマエは目を見開いた。踏み込んだ質問をされるとは、思いもよらなかったのだ。
 ただ、彼はここまで話を聞いてくれた。ナマエはこのハンターに嘘はつくまいと、正直に答えることにした。

「僕には森の番人をしている友人がいた。そいつと僕は鹿たちを保護していたんだけど、密猟者の一件から会えてない」

 友人の名前はベイン・ペレッツ。彼は大きな体をしていたが、森の侵入者を追い払う時に必要以上暴力を振るうのは嫌っていた。
 彼はそれよりも青空の下で鹿を愛でて、木々のにおいに包まれるのを好んでいた。

「だから僕はあいつが戻るのを此処で待っている。あいつは優しいから、鹿たちを心配して森に入るかもしれない。僕はそれを止めなきゃいけない」ナマエはひそひそ話しでもするように、身を縮めた。「森にはミノタウロスはいるらしいから、あぶねえぞって」

 返事はなかった。ただ、黒鼻のヘラジカが一心にナマエを見つめていた。魂の抜けた被り物に表情などないはずなのに、ナマエの目に映る彼はひどく悲しんでいた。
 ハンターは同情なんてものを持ち合わせているらしいーー、ナマエは彼に炉端で灰まみれになった床のような不憫さを覚えた。胸の内で何か声をかけてやらねばならないという罪悪感が広がっていく。

「――なあ、また話せる?」

 口をついて出たものは、ナマエ自身意外なものだった。ハンターとの歓談を求めるなんて狂ってる。
 それは分かっているのだが、ナマエの胸にはようやく言えた、という安堵が広がっていた。

 間をおいて、ハンターが発した。

「物好きすぎる」
「違いない」

 「お互いにな」と笑えば、ハンターもほんの少しだけ肩を揺らした。
 不意に、ナマエはメリーゴーランドから聞こえる音楽が自分たちの間を祝福していると思えた。賑やかで、不気味だが、嫌ではなかった。

  

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