吊り下がった屍体を付知が黙念とほどいていく。まるで瀬戸物を扱うかのような丁寧で繊細な手さばきだが、地獄絵図を圧縮したこの光景は目隠し(もざいく)必須だ。
一通りの作業を終えただろう頃合いでーこの頃合いというのはほとんど勘とか雰囲気とかで図っている。首周りの構造以外には興味のないナマエからすれば、何がなにやらという状態なのだからーナマエは、「付知殿ぉ」と兄弟子の小さな背中に緩く声をかけた。
付知はすぐさま振り向くと、殺風景な黒々とした瞳をナマエに向けた。
「またやらかしたの?ここは駆け込み寺じゃないんだけど」
「ダメでした?」
「ううん」
付知はかぶりを振ると、途端にいたずらが成功した子供みたいに口の端が上げた。
「ちょっと悪態をついてみたかっただけ」
お団子あるから一緒に食べようか、そう続いた言葉にナマエは「はい!」と元気良く返事をした。
ナマエが盆に乗せた茶を持って行く頃には付知は血が染み付いた解剖衣から普段着に着替えて、縁側で団子を用意していた。
ナマエは湯飲みを手渡した。
「いつも通り苦めにしておきました」
「ありがとう」
「気が利いてるでしょう!」
「うんうん」
頷く兄弟子に満足感を覚えながら、ナマエは彼の隣にひょいと腰を据えた。
付知は薬の製作や趣味のために人を解剖しているーーそれを知っている他の門弟ならばこうも簡単に付知に近づかないだろう。しかしナマエはさらに知っている。彼から血の臭いも他の不快な臭いも一切漂わないことを。
むしろ無臭。汗臭い他の兄弟子よりもずっと好感を持てる。ちなみにこれを口にすると、当たり前だと額を突かれた。
「あ、このみたらし団子美味しいです。何処のですか?」
「仙ちゃんが贔屓にしてるとこ」
「うわぁ、じゃあ高いところじゃないですか?」
「そこそこね。美味しい?」
「美味しいですけど」
「ほらもう一本」
「どうも」
付知は湯飲みを口にしてから、ふ、と細く息をついた。
「――それで、今日は何をやらかしたの」
「なぁんにもしてないですよ?」
“やらかした”という言葉にナマエは口先を尖らせた。
「ただ、典坐と出かけた時にですね、私たちはとある瓦版を目にしたんです。で、何かっていうとその瓦版には見世物小屋で出てた見世物が描いてあったんです。なんだったかな。ら、ら、らく……そう、駱駝っていう動物が出てたみたいで。あ、形はこんな感じ」
ナマエは団子が刺さったままの串で、背に山を二つ乗せた馬の形を宙に描いた。
「それがなんかすごくまつ毛がふっさりとしてて。可愛い顔してたんですよ。私言ったんです『士遠先生みたいだね』って。そしたらなんか典坐が怒っちゃって、そのまま逃げてきました」
ナマエが様子を伺うと、付知は持っていた団子の串を皿に置いた。
「まあ、それは、ナマエに非があるよ」
「なんでです?」
「自分の慕ってる人を見世物の動物に似てるって言われたらいい気分じゃないと思うよ。特に典くんはお世話になってるからね」
「あ、あーー……そういう……」
ナマエは得心するように頷いた。
「ナマエだって仙ちゃんがタヌキとかに喩えられたら嫌でしょ?」
「え、可愛いのに」
「あー、僕がカエルっぽいとか」
「雨の時に出てくる子かわいいですよね!目が丸っこいとこが愛らしくて私好きです!」
「……うん。多分そういうところが駄目なんだろうね」
「なんです?」
「や、ナマエは相変わらず人と話すの上手じゃないなって」
「付知殿には言われたくありませんけど!?」
「ええ?」
ナマエの発言に渋い顔をしているが、付知だって大概だ。とっても変態(やば)い。
どの臓器がどう魅力的なのかだとか語ってくる(先日なんかは腎臓の形態の可愛らしさとその機能がいかに健気かを日没まで聞く羽目になった)し、いかに効率良く綺麗に腑分けを行えるかを徹底的に突き止めるべく、藪から幕府お抱えの医者まで聞き込んだり、四つ足の獣肉を使ったゲテモノ料理を出すあのももんじ屋に通ったとか聞いたこともある。
楽しげにそれを話すものだから思わずナマエもうんうんと聞いてしまうが、概要だけで聞けば人間によってはドン引きして、付知との交流をそっと取りやめるだろう。
そう指摘してみても、付知の口はむっとしたままだ。
「いやいや、僕はナマエみたいに人を怒らせたりはしてないじゃん」
「ウッ……それを突かれると痛いところです。いやほんと、なんで皆怒るんでしょうね?今日も源嗣殿から雷どかーんでしたし」
隣の兄弟子から哀れむような視線を受けて、ナマエはその視線を振り切るように団子を頬張る。心なしかみたらしの塩っけがちょっぴり強い気がした。
彼が自覚なく人を引かせることがあるように、ナマエも自覚なく人をよく怒らせる。兄弟子たち曰く、「空気が読めない」だとか「一言多い」だとか。
そうした時には兄妹弟子の仙太や付知あたりに逃げ込んで、ついでに的確な助言(あどばいす)をもらうのだ。おかげで源嗣から雨あられのように降っていた拳骨もほんのちょっとだけおさまった。
「あ、ねえねえ。後で薬つくるの手伝ってよ。人の歯を使うんだけど、なかなか量があるし硬くて大変なんだよね」
「あー、付知殿は人体の理解に関しては天賦の才がありますけど、単純な膂力(パワー)だと少し難ありですもんね」
ナマエは雑用でもなんでもお任せください、と意気込んでみせると、付知は口を真一文字に結んだまま、瞬きもせずに見つめてきた。
おや、とナマエは目を丸くした。周りの空気が少しだけ変わった気がしたのだ。例えるならば、そう、カエルが蛇に睨まれてるような緊張感。当てはめるなら、蛇は付知で、カエルはナマエだ。
そして、付知は考えるような間をやや空けて、「ふむ」と二、三度ほど浅く頷いた。
「じゃあナマエ、ちょっとそのままでいて」
「え?はい」
付知の言に従って、座ったままでいると、彼はナマエから串を取り上げ、ナマエの膝下に左腕を差し込み、もう片方の腕を背中にまわした。
「よいせ」
「んぇっ!?」
突然の浮遊感にナマエの口から素っ頓狂な声が出る。よもやーーこの兄弟子に横抱きされるとは思いもよらなかったのだ。
「膂力(パワー)がないっていうけど、このくらいならできるよ」
「わ、わぁ、付知殿は力持ちですねぇ」
「でしょ?」
重心の取り方も完璧だ。腕の中にいるというのに、ゆりかごに乗せられたまま運ばれているような気分になる。まさに夢見心地ーーなのだが、付知がゆったりと足を進めるたびに、ナマエは顔の血が引いていくのを感じた。
「あのぉ、付知殿、そのまま屋敷に戻るんですか?」
「そうだけど」
「待っ、な、なんで!?」
「そりゃ今から屋敷の中で君を引き回すつもりだから」
「だっ」絶句しかけたものの、ナマエは慌ててもがいた。「やだやだ嘘ですよね!!?下ろしてくださいよ!私何かしました!?」
こんな姿を兄弟子たちに晒してしまえば何を言われるか分かったものではない。しかし案外力強い兄弟子の腕は、ナマエの脱出を許さない。
「あ」とナマエは思い出した拍子に声が出る。
そりゃそうだ!この兄弟子、少し改良(あれんじ)してるけど!二刀同時に扱えるんだった!そりゃ私なんて余裕だ!
ナマエが頭が煮立ちそうなほどの焦燥を覚えているのに対し、付知は涼やかな面差しで答えた。
「強いて言うならね、余計なことをまた言ってたよ」
「ご、ごめんなさい!?何か知らないけど!すみません!!」
とりあえず謝れば、謝ればなんとか許してもらえるのではーーほんのすこしの期待にすがるように、ナマエは喉が擦り切れる勢いで叫ぶ。
つと付知がナマエを見下ろした。途端に首筋から嫌な汗がにじんできた。
今まで思惑が見えなかった彼の瞳の奥で、ナマエを怒りで刺すような光が見えた。
「だめ」
「鬼ーーーー!嫌だーーーー!!大人気なーーーい!!」
ありえないことにこの兄弟子は有言実行してしまう。
佐切や威鈴ならまだいい!助けてくれる!しかし他の兄弟子にだけは見られたくない!絶対に絶対に嫌だ!
誰も屋敷の廊下を通りませんように、と祈った矢先、ナマエはまず衛善に鉢合わせてしまい「落ち着きを持て」と叱られ、彼に従っていた殊現にも小言をもらい、そして騒ぎを聞きつけ野次馬に来た十禾や期聖には丸三日はいじられる羽目になった。
ちなみに付知はむっつりの称号を得たという。
「……はっ!そういえば、どうして付知殿はちょっと怒ってたんでしょう!わかりにくい顔してますけどなんか怒ってたんですよ!いつもは私と話してても怒んないのに!私のなにが悪かったんでしょうか!」
「え、ええぇ……」
「仙太殿!教えてください!またやられてしまったらたまったもんじゃないですっ!」
神様仏様仙太様!と両手を合わせて、ナマエは深々と頭を下げた。
しかし仙太は、いつもならばナマエの疑問に答えを教えてくれるのに、今日に限っては「僕の口からは、ちょっと」と額の汗をぬぐうだけだった。