ナマエはそわそわとした気持ちを抱えながらも、膝を揃えて立ち上がった。そして皺なく畳まれた隊服と羽織、脚絆を見下ろして苦笑する。――ああ、着物なんていつ以来だろうか、と。
ミョウジナマエは鬼殺隊であり、隊員として日輪刀を持ってから今日までまる三ヶ月ほどは任務とそこで負った怪我の治療を繰り返していた。
昨晩だって任務を終えたナマエはまた任務が来るだろうと覚悟していたのだが、鎹鴉から明日は休みだと言い渡されたのだ。
その時の衝撃は形容しがたいほどで、やっとまともな休みが!とまともに喜べたのは今朝のこと。
――もちろん、骨にヒビが入ったり、傷ついた体を治療する期間中任務はなかったが、そんな痛みや苦しみに悶えるだけの日々をナマエは休みとは言わない。
浮かれたナマエは意気揚々と今回の逗留先である藤の家紋を掲げた家の女将にそれを告げた。すると彼女は「今日は上天気ですから」と着物を提供してくれたのだった。
鬼殺隊の隊服は通気性のよい繊維だから、出歩く上では支障はない。しかし女将の好意を無下にするわけにもいかないし、襟詰めで首元が窮屈な隊服から一時的に解放されるという誘惑には勝てなかった。
隊員としてのさがなのだろうか、結局ナマエは刀袋にしまった日輪刀を背負い、そして有事のさいに連絡が受けられるように鎹鴉を連れ立って町に出た。
雑踏に紛れつつ、ナマエは道端に立ち並ぶ蔵造りの家並みに視線をやる。酒屋に薬屋や鍛冶屋――珍しいものは特にないし、寄りたい気持ちはあまり湧かなかった。
ナマエが欲するのはもっぱら美味そうな飯とか甘そうな菓子だ。銀座名物の、ほんのり塩っけがある桜が入ったアンパンだとか、冷たくてとろけるアイスクリンだとか。一度だけ口にしたことがあるそれらを思い出すだけでも口の中が潤ってきた。また寄れたら良いだろう、ついでに同期の友人と一緒だったら尚楽しいだろう。
カアーー!と一際激しい鳴き声にナマエは顔を上げた。菓子屋の看板に二匹の鴉が止まっていた。一方はナマエの鎹鴉だ。もう一方も鎹鴉だが、誰についているのかわからない。知り合いの鴉だろうか。
釣られるままに店の中を覗いて、ナマエは目を瞬かせた。
店内を覗く少年が一人いた。
彼だ、とナマエは見えてもいないその顔を思い浮かべられた。ナマエが数週間前に見た彼よりも背が高いし、肩もがっしりとしている。しかしナマエはあの後ろ姿は彼のものだと確信して、大きく息を吸った。
「――玄弥!」
びくりと広い背が揺れる。ナマエ自身も少しだけ自分の声に驚いた。思ったよりも知己に会えたことが嬉しかったらしい。
「すっごい奇遇ー!元気してた?」
半ば跳ねるように近寄ったナマエを玄弥はまじまじと見つめてくる。
「お、おお……お前は今日は休みか」
「そう。玄弥は任務帰り?」
「そんなところ」
「お疲れさま。お店入るの?」
顔を覗き込むように首をかしげると、玄弥は「いや」とすいっと視線を逸らした。
「やめとく」
「やめる?玄弥は餡のお菓子好きじゃなかったっけ……あっ!?」店内には饅頭も大福もある、とナマエが示そうとすれば玄弥はすでに歩き出していた。「待ってよ!」
玄弥を追うようにナマエは駆け出した。
玄弥とは他の同期と比べてよく任務が被っていた。
そこでわかったのだが、日輪刀の玉鋼を選ぶ時には口汚く粗暴な態度を見せた彼は、根っこは腐ってないらしい。
鬼殺中での負傷でナマエが苦しんでいたときには彼は懸命に介抱をしてくれるし、血や涙やらで汚れても気にしないでナマエを安全な場所まで運んでくれることもなんどもあった。その都度、礼を言えばやや恥ずかしげに応じてきた。
彼は顔つきこそ強面だがむしろ気立ての良い人間で、悪いやつではない。
だからこそ、ナマエは玄弥には積極的に関わっていた。
「ねぇー、玄弥。すっごい背が伸びてるじゃん」
「おう」
「最初アンタだって気づかなかったんだよね。でもその服きてるからピンときたわけ」
「そうか」
「なんでそんなにおっきくなったんだろうねー」
「さあな」
そう、何度も交流を重ねた身からすれば今日の玄弥は挙動がおかしいと確信を持つ。先ほどから生返事ばかりだし、顔がこわばっているし、目も合わせてくれない。
ナマエは玄弥が鬼さえ関わらなければ彼はよく笑うような少年だと知っている。つまりそんな態度を取られる謂れは自分にはないのだ。
「玄弥ぁ」
「なんだよ」
「今日機嫌悪いの?あ、もしかして急におっきくなったから骨とか痛いの?」
「そんなんじゃねえよ」
「えー?じゃあこっち向いてよ」
「ねえ」とナマエは玄弥の腕を引いて、玄弥の体を反転させた。玄弥の黒い目に着物姿の自分が映り、二人の視線が交わったのをナマエは明確に感じた。
「……っ!」
口をつぐんだままの玄弥が喉を鳴らして唾を飲みこんだ。一緒に任務を行った時でも見なかった神妙な面。いったい何にそんな緊張しているのかーーナマエが問う間もなく、玄弥の頬に赤みが一気に広がった。
「なんか顔赤いけど」
彼の右頬から鼻筋までを横断する傷の淵にも血が渡って見事に赤が芽吹いている。なぜ。どうしたのか。
目を丸くするナマエに、玄弥は口を小さく開いて閉じるを繰り返した後、ようやく喉から絞り出すように発した。
「………き、もの」
「きもの?あ、着物?」
なるほど、見慣れない格好のナマエに動揺したらしいと得心する。
理由が判明してすっきりとしたナマエは胸を反らせて、にっこりと白い歯をみせて笑った。
「今日泊まったところの女将さんが貸してくれたの。良いでしょ」
「……ん、うん」
「なにその反応?」
ことさらゆっくりと、人見知りの小さな子みたいにこくりと頷く玄弥にナマエはますます首をかしげた。前に羽織を新しく買った時などは「似合ってる」などと褒めてくれたのだが。どうも歯切れが悪い。
やはりどこかが悪いのか。
「ねえ」
と、ナマエが一歩近寄ると、玄弥はナマエが近寄った分、むしろそれ以上に後ろに下がった。またナマエが一歩近寄れば、玄弥は三歩下がる。
続いてナマエは砂埃が立つほどの勢いで距離を詰めてーー二人は結局互いがバテるまでその無駄な追いかけっこを続けることになる。
ナマエは玄弥の行動についてよくわかっていないし、玄弥もまさかナマエの着物姿に照れを覚えたなぞいえるわけがなかった。
晴天の下、屋根に止まった二匹の鎹鴉が訳知り顔で「鈍感!鈍感!」「ヘタレ思春期ー!」などと互いの主人を嗤い合うのだった。