きゅっ、きゅっ、と上靴の音が廊下に響く。他の音がないことを確認して、ナマエは廊下に滑りでた。
今からすることをクラスの仲良しの子にだって、優しい担任の先生にだって、見られたくない。いや、見られるわけにはいかないのだ。
グラウンドから差し込む西日に目を細めつつ、靴箱に到着したナマエは首を巡らせる。大丈夫。誰もいない。
安堵する余裕はなかった。すでに心臓がはじけてしまいそうなほど動いていた。ナマエは決心したように足を動かし、同じ学年の靴箱にむかう。
そのずらりと並ぶ靴の群れを半ば睨みつけるように見渡して、ナマエは右の人指差しで隣のクラスの群れに狙いを定めた。
「あー、あめみや……いそたけ………う……え……」
指の震えは止まらないが、失敗は許されない。明日の忘れ物がないかを点検するように、ナマエは慎重に上靴の名前を確かめていく。
「乙骨……」
ナマエの指が止まった。自分でも驚くほど明瞭に名前がでた。乙骨憂太。ナマエが知らないはずがない。
その名前を聞いて脳裏に浮かぶのは、いつも……ーーぐちゃり、と左手に抱いていた手紙をしわだらけにさせかけて、ナマエは息を整えた。
「えっと……」
「憂太がどうかしたの」
「!」
冷ややかな声にナマエは肩を震わせた。上靴の群れを見つめまま、ナマエは動けなくなった。こつこつと、誰かが足音を立てて近寄ってくる。
「ねえ、こっち向いてよ」
鈴の転がるような、かわいらしい声だった。思い当たったナマエはそっと体を反転させた。はたしてナマエの視界にうつったのは、祈本里香だった。
――里 香 ち ゃ ん! !
身体中に走る、叫びだしたくなった衝動をナマエはおさえた。
正真正銘祈本里香だ。ナマエの大好きな祈本里香だ。ナマエが恋してやまない祈本里香だ。会いたくてたまらなかった祈本里香だ。一緒にお話ししたい、一緒に遊びたい、一緒にご飯が食べたい祈本里香だ。
ああ、息をするだけでつらくなってきた。
ナマエは、祈本里香が好きだ。
クラスの皆とは違う雰囲気に惹かれて?たまにみられる笑顔が可愛くて?
どう理由付けしたって無駄なのだ。入学式で一目見たときから好きでした。そして今もずっと大好きです!これに尽きた。
そうだ。名無しの、いくじなしのラブレターを届けようとしたのはそういった膨れ上がった好意を吐き出すためだった。ただの、ナマエの自己満足だった。
どうしてよりにもよって本人に現場を見られてしまったのだろうと、ナマエは泣きそうになる。
「り、里香ちゃん……、どうしたの?」
「それはこっちのセリフなんだけど」
里香の目が細められる。いつもならば誰にも熱を届けない無機質な眼差しなのに、今日はナマエに向かって一心に注がれている。――これが、嫌悪でなければどれだけ良かったか。
「それ」
「?」
「手の中に何を隠してるの」
「あ、こ、これは」
「出して」
里香の白い手がナマエの前に突き出される。鋭い目で早くしろ、と言われている。
ナマエは蛇に睨まれた蛙、という言葉を思い出した。どう動いても里香にぱっくりと食べられてしまいそうで、怖い。別の意味で息をするのが辛くなってきた。
ナマエは里香ちゃん、と大きく書かれたそれをぶるぶると震える両手で差し出した。
里香は不思議そうにラブレターを受け取った。
「……私に?」
と、里香は純粋に驚いた声をあげた。目を丸くして、ナマエに訝しげな視線をちらりと投げた後、そのまま便箋を取り出した。
ナマエは今すぐそれを奪って捨ててしまいたかった。
ナマエは里香が好きだが、里香とは同じクラスになったことはない。わざわざ声をかけたところで、彼女は他の生徒と交わらない。一緒にお話しなんて、遊びなんて、ご飯なんて、夢のまた夢だった。
それでもナマエの視線はずっと里香を追っていた。廊下ですれ違えただけでも、声がほんのちょっと聞けただけでもその日はハッピーだった。それだけで、良かったのだ。
「り、里香ちゃん、えっと、あのね……違うの、これはね、」
ナマエはわなないた声で否定した。
ミョウジナマエが里香を好きだということを、本人が知らなくても良かったのだ。
むしろ、知って欲しくなかった。ーーだって、私たち、女の子同士だし。
里香が顔をあげた。つやつやとした黒い目と視線が合う。怖かった。西日に縁取られた彼女の目はガラス玉みたいに綺麗で、なんの感情も伺えない。むしろ自分が観察されているようで、ナマエは居心地悪さを感じた。
「……ねえ、お友達にならなってあげられるよ」
「え?」
顔を上げると、里香と目があった。
「どうする?」
その柔らかな口調に、緊張が解けていくのをナマエは全身で感じた。
「あ、あの」
「うん」
「いいの?」
「いいよ」
里香はにっこりと笑った。余裕のある、大人っぽい笑みにナマエの心臓は高鳴った。
それから「おねがいしまぁす……」と、泣きながら、ナマエはようやく言葉を紡いだ。あとは頷くことしかできなかった。
「よろしくね」
そう言った里香はナマエが泣き止むまで側に居た。
夢みたいだった。ナマエはかみさまありがとう、ありがとう、となんども心の中で感謝した。
こう言っては、失礼なのかもしれないが、里香は存外ナマエに対して優しかった。ナマエが放課後や昼休みに遊びたいと誘えば彼女も乗ってくれたし、休みの日はナマエの家に彼女が来た。
里香はあまり話すのが得意ではないらしく、ナマエがよく話をした。彼女は人の話を聞くのがとても上手だった。ナマエは自分の話からクラスに流れている噂だったり、担任がナマエたち教え子にしか話さなかった身の上話だったり、あとは、とにかく里香の望むとおり話した。
彼女に微笑まれるたびに、自分が彼女を独り占めできているのだと思えてナマエは幸せで胸がいっぱいになれた。
ずっとずっと幸せだった。だからナマエは感覚が麻痺してしまったのだ。
宿題を机に突っ込んだままだと、家についてから気づいたナマエは大慌てで学校に戻った。いつかの日みたいに廊下は誰もおらず、窓からの日差しでオレンジ色に染まっていた。
ナマエは走る足を止めて、首をかしげた。廊下を一望すると、一つだけ扉が閉めっぱなしになっている教室があったのだ。
なんとなく足音をひそめて近寄れば、二人分の話し声がした。
「大丈夫だよ」
はっきりと耳に入ったのは里香のものだった。もう一人は、なんと言っているかはわからないが、男の子だった。ナマエはかかとをあげて、扉のガラスを覗き込んだ。
「あ」と思わず、ナマエは呟いた。
里香と乙骨がキスをしていたのだ。
数十秒もない出来事だった。ナマエは両手で口を押さえ、そのままへたり込んだ。中から物音が聞こえた。呆然と扉を見上げ続けるわけにもいかず、ナマエはやっとの思いで自分のクラスへと逃げ込んだ。
ぐるぐるとあの光景が頭の中でまわり続ける。
胸の中にひりひりとしたものを感じつつも、二人が離れるまでナマエは目を反らせなかった。里香の横顔がそれを許さなかったのだ。
「ああ……」
――やっぱり。やっぱり、あの顔、好きだなあ。大好き。可愛いもん。いつもの里香ちゃんも素敵だけど、乙骨を前にすると、里香ちゃんはお姫様みたいに可愛くなっちゃう。
「ナマエちゃん」
背後からの聞き馴染んだ声に、ナマエは悲鳴をあげかけた。心臓がさらにうるさくなる。
ナマエはゆっくりと振り向いた。はたしてナマエの視界にうつったのは、祈本里香だった。
「り、里香ちゃん」
「見たんだ」
里香の確信したような物言いに、ナマエは頷くほかなかった。床にくっついたままの足はてこでも動きそうになかった。
里香の眼差しは一心にナマエを貫く。
どうだろう、機嫌は、悪くなさそうだ。むしろ春の陽気を思わせるような雰囲気に包まれている。
――なに考えてるんだろ、里香ちゃん。
もしかして、友達やめるだなんて言わないだろうか。
「ねえ」
里香は、肩にかかった髪を遊ぶように人差し指に絡めた。
「ここにキスしても良いよ」
「へ」
つやつやとした、滑らかな髪にナマエの瞳がとらわれる。
ショーケースの向こうから眺めていたような存在が、急にナマエの目の前に現れた。触ってもいいよ、なんてーーとても魅力的な誘いだったが、ナマエの中には恥じらいと戸惑いにうずまく。
ナマエは結局「あの」、「えっと」と泣きそうな声を出して、途方にくれてしまった。
里香は小首を傾げて、笑った。仕方のない子ね、と言わんばかりの、姉か母のような笑みだった。
その白い手がナマエの襟首をつかむ。そしてナマエを思い切り引き寄せて、「ナマエちゃん」と里香はうそぶくように言った。
「いつもありがとう」
頬に落ちた柔らかい感触。ナマエは里香のしたことに気づいて、両頬を手で包みながら顔を赤らめた。
里香はくすくすと鈴のような笑い声をこぼして、ナマエの知る通りに大人っぽく、目を細めた。
「じゃあ、また明日ね」
「う、うん……」
あっさりと別れを告げると、里香はそのまま廊下に出て行った。揺れる黒髪が、完全に見えなくなるまでナマエは立ち尽くしたままだった。
「里香ちゃん……」
ぽつねんとつぶやいて、ナマエの瞳から一粒の涙がこぼれた。
全く違う。彼女がナマエに向けているのは、乙骨に向けているものとはまったく違う。
ナマエは確信してしまったのだ。自分が、里香に好きだということをまた伝えても、きっと彼女には響くものがないのだと。そして、あの頬の口づけに彼女のナマエへの熱は一切乗っていないことのだと。
彼女の全部は彼のものなのだ。
最初からわかっていた。乙骨を前にした彼女は、恋に染まったかわいらしい女の子になる。ずっと里香を見てきたナマエは、よく知っている。
ただのミョウジナマエは彼女を何にも染められない。
麻痺した感覚が無理やり現実に引き戻される。その感覚がじくじくと蟻にくわれているように痛く、ナマエには辛すぎた。夢だったら、どんなによかったか。
好きだよ里香ちゃん。舌に乗せたことはついぞなかった言葉をなんども口にして、今度は一人きりで泣いた。