「旦那様」
「名前で良い」
「……」やや間を開けて、ナマエは士遠の袖を握った。「士遠様」

 気の小さな彼女が囁くように発した。あとの言葉はなく、ナマエは士遠の腕の中に入った。ぎゅう、とー彼女の精一杯なのかもしれないがー力弱く抱きしめられる。
「いい子だ」と、士遠も華奢な体を己の胸板に引き寄せた。彼女の白襦袢越しの体温と鼓動が、冴え冴えとした朝の冷たさを和らげる。

 ナマエは亡くなった兄弟子の養子だ。また士遠にナマエを妻(め)合わせたのはその兄弟子の遺言だった。士遠は昔から兄弟子には目をかけてもらった恩もあったために、ナマエを娶ることにしたのだ。
 ”恋は盲目”?いや、”惚れた欲目"の方がいいかもしれない。この声の小ささと、少し言葉足らずなところ。そして小さな唇で紡がれるしおんという三文字を、これほどまでに愛しいものと感じさせるのはナマエだけだ。士遠は言った。

「ナマエ」
「はい」
「君の顔を視せてくれ」

 ナマエはギクリと肩を強張らせた後に、士遠の手を取り猫のように頬をすりつかせた。恥じらいが微かな指の震えとなって伝わる。
 最初にしたのは君の方なんだがな、と思いつつも士遠はナマエの柔らかさを堪能する。

 盲(めしい)の士遠は、嗅覚や聴覚といった他の感覚が鋭敏となっている。またーこれは後天的に得たものだがー生きているものからひいては無生物に至るまで、それらが持つ固有の波を知覚できた。そのような特殊な技能を持つため、不自由な暮らしはしなかったし、話す相手の細々とした容貌だって分かるのだ。
 しかしそれを兄弟子から教えられていなかったらしいーそもそも、彼女は士遠とは彼の死後に初めて面と向かって話したのだーナマエは、士遠の手を取ると今のように己の顔を触れさせた。私、父上と鼻や目元が似ているらしいのです、とナマエは発した。彼女はなれない手つきで士遠の指を導き、そのすらりとした鼻梁や眉の線をなぞらせた。
 それからどうぞお好きに、と言わんばかりに手を離した。妻といえどもどの程度まで触れて良いものかと測りあぐねつつ、士遠が恐る恐ると輪郭をなぞった。普段の自分ならばやめておこうと離すはずなのに、彼女の無防備さにじりじりとしたものを胸に感じて、吸い寄せられるように彼とは似つかない華奢な輪郭をなぞった。
 ナマエがふと笑った。「旦那様の手は大きいのですね」と。鼓膜を震わせた、あの声のくすぐったさは今でも覚えている。首斬り浅ェ門の己の手を忌避もなくああやって愛おしそうに撫でられるのはナマエだけだと思う。

 ナマエはもう士遠がこうせずとも視えるのは知っている。知っているゆえにこの行為は士遠がナマエに触れるための口実だともわかっている。欲望を乗せられているとわかっているからこそ、ナマエは恥じらった。この震える指も、温まってきた頬も、触れられだすと緩む口元の感触さえも全て士遠自身によるものだ。そう思うと、胸がスッとした。

「だ、……士遠様」
「ん?」
「本当に、本当に行かれるのですね、あの島に」
「ああ」

 幕府の下知のもと、今日から不老不死の薬を求めてとある島に行かなくてはならなかった。探すのは死罪人だが、士遠はそこに彼あるいは彼女の監視役として同行しなければならなかった。彼女の心配は、そのことではない。問題はあの島が、ーー

「ーーあの島から生きて帰りおおせたものはいないと」ナマエは目を伏せった。「士遠様の身に何かあれば、私は……」
「私は、果たせない約束をするわけにはいかない」

 士遠は言い聞かせるように発した。ナマエの言う通りその島からまともな遺体として帰ってきたものはいない。それに今回は海を越えなければならない。船上でそのままさよなら、という可能性だってあるわけだ。だから必ず戻ると言う約束は結べない。

「これだけは、安心しなさい」士遠はナマエの顎をなぞり、顔をもたげさせた。「私は君以外のものに"目移り”しないさ」

「……こんな時に、士遠様は」とむ、と口を曲げるナマエ。それから彼女の頬を伝った涙が士遠の指先を濡らす。わずかに罪悪感に苛まれたが、士遠はこのぬるさもやはり愛おしいものだと思えた。

  

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