選抜から帰ってきた頃から、ナマエの様子がおかしい。なんというか冷たいというか、炭治郎に構わなくなってきたというか。炭治郎が一人で羽織を繕おうが、日が暮れるまで鍛錬しようがナマエは何も手を出してこない。
 炭治郎だって一人じゃ何もできない子供ではない。ナマエに甘えたいというわけでもない。ただ、平生のナマエを考えると、おかしいのだ。炭治郎が針を探すのを見つければ勝手に羽織を持っていってしまい、綺麗に繕ってしまうだろうし、炭治郎が一人で外にいれば定期的に様子を見に来るはずだからだ。

 それなのに、禰豆子には構う。とことん構う。炭治郎が狸寝入りしていると、「これから長い旅路になると思うけど、無茶しちゃダメよ」と話しかけているのが聞こえた。それも毎晩続いた。今日になると禰豆子の美しい黒髪に一箇所だけ鮮やかな赤い紐で結われているのを発見した。そしてナマエの髪を結うものが白いものに変わっていた。
 その様子に胸になにかがつっかえて、苦しかった。なんだろうか、これは。


 箱を背負ってみると、ナマエが肩紐と炭治郎の間に指を通して、上へ下へと動かした。それから炭治郎に腕を回させたりしてから、渋い顔をした。

「もう少し余裕があった方がいいかも……うぅん……」

 唸りつつ、ナマエはそのまま座り込むと「下ろして」と言った。それに従って炭治郎は箱をおろせば、ゴトン、と鈍い音を響いた。

「これじゃ、駄目だったか?」

 背負ってみた感覚としては、そんなに窮屈には感じなかった。ナマエは相変わらず口をへの字に曲げてふるふると頭を振った。

「うん。駄目」ナマエはやや険の入った眼差しを炭治郎にやった。「隊服は厚手だし、その上に羽織も着るもの。今の長さでぎりぎり腕が動くようだったから、もう少し伸ばす必要があるわ」
「そっか」

 ナマエにとってはたかが肩紐、されど肩紐らしい。
 淡々と箱の肩紐を調節するナマエを見守りつつ、先のことを思い出して、炭治郎はしみじみとそう感じた。

 炭治郎はこれからこの箱に禰豆子を収めたまま戦わなくてはならない。なので試しに石を詰めて、禰豆子が一番小さくなった時の重さに合わせたものを担いでみたのだ。
 四半刻ほどで血の巡りが悪くなってきたのを感じた。だがまだまだいけるかと耐えているときにナマエから、肩の調子はどうかと尋ねられて、素直に「ちょっと痛いかも」と口にしてしまった。
 あの時のナマエの様子は、多分、これ以上にないってくらい動揺していた。ついでに炭治郎は「炭を売って歩くのとは違うんだから!」とか「自分が我慢すればいいって話ではないのよ」だとか、内容はとにかく、炭治郎が親の仇かのような勢いで叱ってきた(そしてナマエは文句を連ねつつもすぐに幅を広げた肩紐を縫ってくれた)。
 ーーいやぁ、多分今までで一番怒られた気がするなぁ。でもあんなに怒るものなのか。
 そうは思いつつもナマエの言や匂いからは炭治郎の道中を真面目に考えて、気遣っているものなのだから、炭治郎はその厚意をありがたく頂戴していた。
 内容が内容なので、炭治郎だって真面目に取り合っているつもりなのだが、こうしてナマエと面と向かってあれこれ言い合えるのも久しぶりで、つい嬉しさに気が緩む。

「なぁ、ナマエ」

「なに」と気もそぞろな声が上がる。炭治郎は続けた。

「もう明日か明後日には刀が届くそうなんだ。それで刀をもらったらその日のうちに任務に駆り出されるらしい」
「そう」
「だからな、俺を応援してくれないか」
「しておくわよ」

 ナマエはむすりとした顔で返した。当たり前じゃないかという顔でもあったし、何か別の気持ちも匂いとして感じ取れた。

「違う。そうじゃなくて……」やや間を空けて、炭治郎は言った。「今してくれ」
「は?」
「ナマエの明るい声が聞きたいんだ。このところふくれっ面ばかりだし」
「なにそれ」

 単純に、そう思ったというのもある。
 加えて、炭治郎は自分がナマエから何かを欲していることに気づいた。
 これは禰豆子の髪に揺れる赤い紐をみて、胸を痺れ、つっかえさせたと同じものなのかもしれないと思い至った。だから自分も何かを与えられれば、それの正体が掴めるのかもしれないと期待した。

 ナマエは立ち上がって、炭治郎は訝しげに見つめた後、目をそらした。

「……鬼殺隊になっても頑張りなさいよ」
「もっと」
「もっと!?えー……、禰豆子と元気に……」
「なんかこう……簡潔にでもいいから」
「簡潔に?」
「頑張れ炭治郎とか」
「はぁ?」

 ますます呆れ顔を深めるナマエだが、炭治郎はもっとはっきりとその声を聞きたかった。

「……頑張れ、炭治郎」
「もう一回」
「頑張れー、炭治郎」
「もう一回!」
「頑張れー!炭治郎!」

 やけになって顔を真っ赤にするナマエだが、やがて口の端がゆがんで「……ぅ」と小さい声をあげた。その瞬間、ナマエの目からぽろりと大粒の涙が転がり出た。

「も、ぉ、なんなのよ……」肩で息をするたびにナマエの目から涙が流れていく。「あんたの顔を見るたびに、ほんと、辛いのに」

 あんなに避けてられていたのは、こういうことだったのか。
 返す言葉を見つけられずに、炭治郎は堪えるように落涙するナマエを唖然と見つめることしかできなかった。

「ほ、んとに頑張りなさいよ、ひっ、ぅ」眉間まで真っ赤にさせて、ナマエは嗚咽した。「たまには、帰ってこないと、怒るんだからぁ……」

 炭治郎は目を丸くした。すんすんと鼻をすすったナマエの口からは、自分を引き止める言葉は出なかったのだ。ナマエは今もとても葛藤して、苦しんだ末に炭治郎の意を汲んで送り出してくれようとしていた。

 そう気付いた時に、炭治郎は胸につっかえたものがなくなった気がした。
 そうか、と腑に落ちる。炭治郎は、あの赤い紐を与えられた禰豆子と同じようにナマエからこれからの道中を心から想われて、そして、背中を押して欲しかったのだ。

「俺はいつもナマエを泣かせてしまっている気がする」
「そうよ。この馬鹿、馬鹿治郎……」
「ごめんな、ナマエ」

 炭治郎は禰豆子と二人だけとなってしまった時も、選抜の時も待ってはくれない不幸に散々打ちひしがれた。これからもこの身も心もこの二年間の比ではないくらいにめちゃくちゃにされてしまうだろうと、無意識のうちに恐れていた。どうにかしてその不安を払拭して、支えてくれるようなものが欲しかったのだ。
 ナマエの声はそんな炭治郎のやわらかいところをしっかりとつかみ、奮い立たせてくれた。

「ありがとう」

 自然と出た感謝に、ナマエは「ばか」と小さく罵倒した。

「そういうの、恥ずかしいから、直で言わないでっていったじゃない」

  

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