十歳にも満たないナマエは、体づくりの段階でつまずいていた。幼いため、まだ体の中身が未熟だったのだ。それでもナマエは兄弟子たちと一緒になって鍛錬を重ねていた。
 彼らは時折ナマエに呼吸術のコツを教えた。鱗滝さんは十歳になったら教えると言っていたが、知っていて損はないとナマエに知識を与えたのだ。ナマエもたくさんの人が救えるようにと、懇切丁寧にナマエにあれこれと教えてくれた兄弟子たちは優しく、正義感に溢れていた。
 そして彼らは弟子の中で最も硬い岩を斬ったという、鱗滝門下生の中で剣士としての輪郭が明瞭で、強く、完成された人たちだった。
 兄弟子たちは鱗滝手製の狐の面を頭にかけて、笑って最終選別へと向かった。ナマエも一緒になって笑顔で見送った。兄弟子たちは強いのだ。選別なんてあっさりと通って、帰ってくる。そしてみんなでまたあったかいご飯を囲むのだ。

 ーーそう、信じていたのに、帰ってきたのは薄暗い顔の兄弟子と、もう一方の兄弟子の着物だけだった。

 ナマエは急に現実に引き戻されて、怖くなった。頭の隅っこで隠していた、鬼に喰われる家族の姿が浮かび上がる。

 あれに、勝てるわけがない。あの尊敬してやまなかった兄弟子すらも帰ってこられなかった。それが非力で頭の弱い自分に、なんとかできるものだろうか。立ち向かうことができるのだろうか。
 ーー錆兎さんだってやられてしまったのに、お母さんたちが喰べられてる時に、台所のしたで震えていた私が鬼を斬れるの?

 ナマエは鬼への復讐と、世話になった鱗滝への返礼として鬼殺隊を目指していたが、その恐ろしさにナマエは蝕まれていった。

 ナマエが十歳になり、いよいよ入隊試験に向けて本格的に呼吸術を学ばなければならなかった。しかし、その時にようやくナマエは「鬼殺隊になりたくない」と零した。どうやっても、胸を蝕む恐怖にナマエは打ち勝てなかったのだ。
 「お前は行かなくて良い」と鱗滝は弱々しく告げた。

「死んでしまったら、元も子もない」

 ナマエの頭に置いた手をゆっくりと動かして、撫でる力は言葉と同じく弱々しいものだった。

 あの時の彼の胸中に渦巻くものを全て理解した。彼はナマエを手放したくなかったのだ。
 鱗滝と同じく、見送らなければならない立場で言ってから身に沁みた。ナマエも炭治郎たちに死んで欲しくない。
 すっかり家族みたいに過ごしてきた彼らを、失いたくないのだ。


 扉が勢いよく開かれる。「岩が斬れた!」と姿を現した炭治郎の笑顔に、ナマエは言葉を失った。隣の鱗滝も、嬉しそうではなかった。ただ、この時が来たかと覚悟を決めるような間を空けて、炭治郎とともに岩がある場所へと足を送った。ナマエは脳裏に白い狐の面がちらついて、家に残った。

 後から鱗滝に聞くと、岩は本当に斬れていたのだという。切り口は美しく、文句の付け所がないほど見事に二つに分けられていたらしい。
 これで、炭治郎は来年度の最終選別に行ってしまえるのだ。炭治郎は眠る禰豆子の手を握って、「待っていろよ」とつぶやいた。妹を見下ろす瞳は優しく、それでいて決意に満ちていた。ナマエは呆然とその様子を見守ることしかできなかった。ただ、彼を引き止めてはいけないのだと自分の中で大きく釘を刺された気がした。
 最終選別までまだ時間はあったため、炭治郎は朝になるとまた鍛錬をしに出かけて、鱗滝は狐の面を彫りだした。

 ナマエは、どちらの側にも居たくなかった。森にいても、家にいても、ナマエは“あの時”のことを思い出させられて辛いのだ。
 今でもナマエは鮮明に思い出せる。あの、“森の中で、鍛錬疲れのせいか眠りかけていた炭治郎に、狐の面をつけた少女が触れようとしたとき”。
 ナマエは心臓が撫でられたようにゾッとさせられた。彼女の身を包む花柄の着物と、狐のほおに彩られた花を見て、ナマエは直感的にわかってしまったのだ。――あの面は、兄弟子達が身につけていたものと同様の、鱗滝手製の厄除の面だと。
 森の奥にもいろいろな表情の狐の面が並んでいた。ナマエは途方にくれてしまうほどの意味合いをそこから引き出していた。
 あの少女が、あの面の持ち主たちが、炭治郎を自分たちのところに引き摺り込もうとしているようだった、と。
 ナマエの焦燥は、自分でも気づかぬほどに彼女の思考を鈍らせており、奇異的な現象でそれはさらに悪化していた。

 ナマエは、自分でも驚くほど追い詰められていた。

 それを自覚したのは、この狐の面が月明かりに照らされた時だ。
 ナマエは襟巻きに顎を埋めて、白い息をついた。真冬の森の下は寒いはずなのに鑿(のみ)を握りこむ手がわずかに汗ばんでいた。喉が、胸の中がいがいがする。どくどくと脈打つ心臓がうるさかった。
 ーー盗ってきてしまった。
 これをどこかにやってしまっても、壊してしまっても、炭治郎が最終選別に行ってしまうのはわかっていた。ただ、この面があると、炭治郎があれらの仲間にされてしまうのではないか、とナマエは不安に駆られてしまったのだ。
 平生の己ならば、きっとこれを持ち出すにまでは至らなかっただろう。ただ見つめて、歯がゆく思うだけで終わっていたはずだ。

 ナマエはかじかむ指先で、面の輪郭をなぞった。炭治郎の額のやけどの痕ー昔、火鉢を倒した弟をかばって負ったらしいーに合わせて、お日様が描かれていた。炭治郎らしいとナマエは感じた。
 彼の耳飾りの模様を彷彿とさせる太陽だから、ではない。これは彼の陽だまりのようにあったかい性格を表しているのだ。
 ナマエはそう思って、息が詰まった。これは鱗滝の、炭治郎と過ごしたなにものにも代えがたい時間を現した作品の一つなのだ。

「ナマエ」

 静まり返った森の中に、しゃがれた声が通った。

「何をしている」

 怒っているのかいないのか、よくわからない。だけど、黙り込むのはよくないのはわかっていた。ナマエはゆっくりと振り向いた。
 鱗滝はナマエの手元を見て、ぴくりと面の横から覗く彼の頬が動いた。

「め、面を……面を、割ろうと思ってたの」

 実際には割っていないというのに、ナマエは申し訳なさで胸が張りつめられそうになっていた。

「……なぜだ」
「あのね、この面があると、炭治郎が、他の子に連れていかれてしまいそうで、怖くって、」ひっ、ひっと息がつまりだした。「で、でも、わ、わた、私、鱗滝さんがちゃんと心込めてるってわかって……割れなくて、」

 ぼたぼたと生ぬるい涙が頬を伝っていく。歪みだした視界の中で、目の前の鱗滝に抱きすくめられた。離すまいと感じさせるような力強さでナマエを抱きしめると、やがて鱗滝は言った。

「……帰ろう、ナマエ。夜は危ない」

 ナマエは、そこでようやく鱗滝が此処に来たのは、自分の身を案じたからだと気づいて、あったかいもの胸の内が満たされるような感覚になった。
 大きな手に引かれて、ナマエは家へと戻る。その道すがら、「炭治郎は」と鱗滝が口火を切った。

「錆兎らよりも硬い岩を斬ってのけた。この二年間、己を奮い立て、十分に努力した。……あの子には、それ相応の目的があるから、できたのだ。その道を儂もお前も止めるわけにはいかない」

 己にも言い聞かせるような言葉に、ナマエはどう答えればよいのかわからなかった。ただ、その通りだと思った。

「そしてお前にも、何か目的があったのだろう。すまない。優しいお前を儂の寂寞で引き止めてしまった」
「鱗滝さん……」

 懐からたちのぼる、藤の花とは別の甘いにおいに、ナマエの冴えていた意識が一つの答えを見つけた。
 どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのだろうか。

「ねえ、鱗滝さん」
「うん?」
「鱗滝さんが育ててきた子たちって、どんな子だった」
「炭治郎と同じくすごい子たちばかりだった。それはお前もだが」

 ナマエは気恥ずかしさから思わず含み笑いになりながら、言った。

「あのね、鱗滝さん。此処においてくれてありがとう。私ね、鱗滝さんのこと大好きだよ」

 炭治郎には照れが勝って言えなかった言葉を、鱗滝に告げた。

「だからね、炭治郎に、お面を渡してあげてほしいの」

 鱗滝は立ち止まって、ナマエを振り向いた。意外そうにする鱗滝にナマエはにっこりと笑った。

「だって、その子たちだって鱗滝さんのことが大好きだもん」香り袋をしまってある場所を着物越しに触れた。「だから、鱗滝さんを悲しませる真似はしたくないっていうの、分かるわ。そんな子たちが、炭治郎を連れていくわけない」

 炭治郎が死んでしまえばきっと鱗滝だって深く傷つく。
 死んだ後も、ずっと鱗滝手製のお面をつけてるほど彼のことが大好きな子たちが、死んだ後も此処に帰ってくるような子たちが、そんなことするわけないのだ。


 自分に今できることは、彼の帰りを願うことだけだ。決して、引き止めてはいけないのだ。すやすやと寝息を立てる炭治郎の額を撫でて、ようやくナマエは眠りについた。

  

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