「あ!」という大声につられて視線を落とせば、ナマエの懐からまろびでたその桃色に、炭治郎は反応できなかった。慌てて持ち主である彼女が手を伸ばすが、勢いづいた指先でさらに向こうに弾いてしまった。
ぽちゃん、と呆気なく水の張った手桶にそれーー香り袋が沈んだ。
「ナマエ……」
「わーーっ!!」
ひっくり返して香り袋を取ろうと、炭治郎が提案する前に、真っ青になったナマエは大慌てで桶に手を突っ込んだ。その真冬の寒さをたっぷりと蓄えた水に、ナマエはまた悲鳴を上げることになる。
香り袋は中身だけ出して、とりあえず絞っておいた(炭治郎が)。絵柄は歪むだろうが、大事ないだろう。
「少しあったまったら戻ろう」
「ん」
白い指先が痛そうなくらい赤くなっていた。実際に炭治郎がその手を包んでやれば氷みたいにひんやりとしていた。
いつもなら多少抗議の声をあげるのだが、よっぽど寒いのだろう、ナマエはされるがまま、炭治郎の手から温度を吸い取っていた。
「あんなに慌てたナマエ、初めて見たな」
「当然よ」ナマエは心外とばかりに柳眉を逆立てた。「だって、あれは鱗滝さんからもらったものだもの。替えはきかないの!」
「そっか。……白い狐か」
刺繍された白い狐はナマエのように、右耳の下で赤い紐を蝶々の形に結わえてある。
白い狐と赤い隈取りといえば、真菰たちもそれのお面をつけていた。花柄模様の着物で身を包む真菰のものには頬に花があり、錆兎のものは、ー多分彼の頬には傷が走っているのだろうー口の端から耳にかけて一線の傷が描かれていた。
弟子の個性に合わせた狐たちに、炭治郎は微笑ましい気持ちになる。
「ナマエの狐は、なんだか可愛らしいな。蝶々結びしているところが、特に」
「ふ、ふふ。そうでしょう」
「お母さんとお揃いなのよ」とナマエはえくぼを作ってはにかんだ。その姿も可愛らしくて、炭治郎は思わず「ナマエはもっと笑った方が良い」と言うと、思い切り背中を叩かれた。平手なので音は大げさに響くが、案外痛くないというのを炭治郎はよく知っている。
ふう、と炭治郎は息を吐いて、不思議に思った。
一昨年と昨年の冬と違い、凍てついた空気に肺を刺されるような感覚はなかった。それをナマエに言うと、「炭治郎の肺がよく鍛えられてるからよ」と視線を落としたまま答えた。
「全集中の呼吸ができるようになったのかな」
「全……しゅ?」
耳慣れない言葉だと言わんばかりの顔に、炭治郎は虚をつかれた。鱗滝に師事を仰いでいた真菰たちが言っていたから、同じく彼の弟子であったというナマエも知っているものだと勘違いしていた。
「今みたいに体中の血の巡りと、心臓の鼓動を早くさせて体温を上げるんだ。すると鬼みたいに強くなれるんだって」
「あんた、それ何処で知ったの」
「岩が斬れないって悩んでいる俺を見かねて、真菰……鱗滝さんの弟子だっていう子たちが教えてくれたんだ」炭治郎は首を傾げた。「ナマエも知らなかったんだな」
頭をあげたナマエは、顔色が悪かった。それからなにもないのに、炭治郎の顔を見つめて、何かに怯えるような匂いを発していた。
「どうしたんだ、ナマエ?」
「う、ううん。なんでもない」
ナマエはかぶりを振った。
「呼吸術、昔習ったことがあるけど、それだけなの。だから言われるまで忘れちゃってた」
「そうなのか」
意外だった。呼吸法だって、習うだけでなく実践で行えるほど鍛えているのだとばかり思っていた。
炭治郎が鱗滝に基本的な内容を習っている時から、ナマエにたびたび助言をもらっていた。
彼女の言は、正確でわかりやすい。それこそその知識や分析力だけみれば、普通に鬼殺隊に入っても大丈夫なのではないかと思うくらいだ。鬼に恐れを抱いていた者とは思えぬほどの、鬼を殺すことへの熱量と執着を感じた。
炭治郎はそんなナマエがどうして習うところでとどまったのか、わからなかった。
錆兎の木刀がしたたかに頭の横に叩き込まれる。炭治郎はうめき声をあげて、地面に伏せった。頭の中で金だらいが落とされたのではないのかというぐらい、視界が揺れて、耳にキーンという音が響く。「後は任せるぞ」という錆兎の声と、彼の足音が遠くに消えていく。
ーーああ、惜しかったなぁ。
数ヶ月前のように顎に一発くらって即失神、ということはなくなった。もう少しで、錆兎に剣先が届くかもしれないという予感があった。隙をつけそうで、つけない。悔しい。
最終選別の日まで斬れなかったら、また来年に持ち越さなくてはいけない。急に強くなれるわけではないというのは理解していたが、自分の至らなさに多少苛立ちさえ覚える。一年半ほど前から禰豆子は寝たきりで、いい加減何かしらの行動を取らなければいけないという不安と焦燥ばかりが募っていく。
考えるうちに連日の鍛錬で己の体はいい加減疲れてきたようで、まぶたが重たくなってきた。舟を漕ぐように、頭が上下する。
目の前の花柄模様の着物で身を包む少女ーー真菰は、そんな炭治郎の目の前で屈んで、花開くように微笑んだ。お疲れ様、寝ていいよ、とやんわりと言われる。
真菰は優しいから、先の闘いの助言は後で教えてくれるだろう。だから今だけは、彼女の気遣いに甘んじようと思った。真菰に頷いてみせると、彼女は「おやすみ」とその手を炭治郎の額に伸ばした。
「炭治郎に触るな!」
閑散とした森の中に貫いたのは、少女の鋭い声だった。炭治郎の意識はすぐに覚醒し、その場で飛び起きた。真菰はいつの間にか姿を消していた。首を巡らせると、木々の向こうからナマエがこちらに駆けてきた。
「どうかしたのか?」
急に大きな声をあげて、こちらに全力で来た彼女は、周囲を見渡してから、太く息をついた。
「ーー……はぁ、なんでも、ない」
「そ、そうか」
「そう。ちょっと、様子を見に来ただ、け……」
ナマエは岩に視線にやって、目を見開いた。あっけにとられたように見上げて、「大きい」と呟いた。
「前は、ここまで大きかったかな」ナマエが軽く岩を叩いた。「……硬い」
「前?」
「私の兄弟子……義勇さんたちの時ね。お弟子さんの中で、一番硬い岩を斬ってたの」
「……冨岡さんの他にもいたのか」
ナマエは岩を見上げたまま頷いた。
「義勇さんともう一人いたの。彼もとっても優しくて強かった。……それでも、選別から帰ってこられなかった」
ナマエは振り向いて、炭治郎の手を取った。いつもと違って、熱いくらいだった。
「私、炭治郎も禰豆子も……その、だ、だい……大事におもってる!」
ナマエはすがるような視線を炭治郎にやった。
「試験に炭治郎は行かなくていいよ。死んでしまったら、元も子もないじゃない」
つかの間の沈黙が落ちた。炭治郎はナマエの言葉が真実のものだと、理解して、それに対する言葉を探した。こんなに切羽詰まった思いになるのは、初めてだった。
「ありがとう。ナマエ……だけど、ごめんな」
「それはできない」と炭治郎は首を振った。
鬼となった禰豆子を治す道を、炭治郎は見つけなくてはならない。
これは炭治郎の償いであり己の慰めだった。
自分がいない間に家族の味わったであろう苦痛と、鬼となった禰豆子の苦悩。炭治郎は、それらを考えるだけで罪悪感に身が引き裂かれそうなのだ。助かった代わりに己が身を粉にしても妹を幸福してやりたかった。
彼女にはかなり辛抱させてしまっている。だから、人間に戻ったあかつきには新しい着物を買ってやりたいし、昔から我慢させていたぶん飯だって食べさせてやりたい。炭治郎は、そうやって壊れた幸せをとりかえさなければならないと思っている。
だからたとえナマエが自分たちを大事に思っているが故に引き止めてくれても、炭治郎は立ち止まれなかった。
「うん。分かってる」
「分かってるよ」とナマエは寂しそうな笑みをみせて、濡れた声で言った。