思えば鱗滝と出会ってから、丸一日、本当に丸一日歩き通しだった。それでも狭霧山の麓の彼の家についたかと思えば、休む間も与えられずに夜明けまでに山の頂上から麓まで下りるようにと言いつけられた。
 この狭霧山はただ濃霧に包まれるだけでなく、上から下まで罠まみれだった。落とし穴だったり、滝のように降ってくる竹に背中を打たれたり、まるで炭治郎が鐘だといわんばかりに丸太がぶつかってきたり。思い出すだけでも胃のあたりがしくしくしてきた。よく生きておりられた俺!
 沼にでも落ちたのではないかというほど、泥まみれになった顔や服に構う暇はない。空が群青に染まりつつあったのだ。早く行かなければならない。途中で拾った手頃な枝を杖にして、必死に鱗滝のにおいをたどる。
 やがて木々の隙間からぽつねんとした長屋が視界に入った。

 扉を開けて、中にいた鱗滝ー禰豆子に布団をかけてやっていたーに、戻ったと、途切れ途切れに一言声をかけてから、炭治郎は膝から崩れ落ちる。玄関口だ。こんなところで力尽きては迷惑になってしまう。しかし炭治郎の体は糸が切れてしまったかのように動けない。

「……お前を認める。竈門炭治郎」

 鱗滝の言葉に、安心した。とりあえず鬼殺隊とやらに入る前段階には来れたのだ。
 朦朧とした意識の中で、後ろから抱かれて何か強い力で引きずられる。靴を脱がされて、襟巻きも抜かれる。やがて炭治郎は背中に柔らかいものを感じ、自分が布団に寝かされていることに気づいた。礼を言いたい炭治郎の意に反して、瞼と口が糊づけされたように開かない。

 ふわりと鱗滝とは別の、甘い匂いがした。顔を触れられる。泥を拭ってくれているのだろうという手つき。それはいつかの、炭で汚れた己の頬を拭ってくれた母のような優しいもので、ひどく気持ちがよかった。
 緊張感から解放されて、安堵に包まれた身体は、だんだんとポカポカとぬくもってきた。ああ、本当に、寝てしまう。

 炭治郎の意識はそのままプッツリと途切れた。


 扉の開く音と花の匂いに炭治郎は目を覚ました。思い切り起き上がると、手桶を持ったままの少女が口を開けて炭治郎を見つめていた。

「起きた?」玄関に手桶を置いてから、少女は言った。「かまどたんじろう、だっけ」
「うん」
「動ける?」

 彼女がこちらに振り向くと、右側で髪をくくっている赤い紐が揺れた。それに視線を奪われつつも、炭治郎は頷いた。

「そ、じゃあ布団を片付けてこっちを手伝って頂戴」
「鱗滝さんは?」
「夜まで帰ってこないわ。食い扶持が増えたからその分の食料を調達しに行った」

 言葉の端に棘のあるものを感じて、炭治郎は萎縮してしまう。

「俺は此処に置かせてもらう身だし、後でお金を渡すよ」

 布団を畳み終えて、顔を上げると不機嫌そうな少女と目があった。

「あんたのしみったれたお金なんか鱗滝さんは貰わない。お礼は働いて返しなさい」

 これまた人を突き放すような物言いで返事をする。なんとなく鱗滝を思い出して、身内なのだろうかと疑う。
 此処の住人であろう彼女の言であったし、もとより働くつもりはあったので、従うことにした。少女は炭治郎をその場で立たせると、箪笥の中を漁りだした。
 衣服を漁る背中は小さい。炭治郎と同い年くらいだろうか。少女は腕に何枚か上着を乗せて、一枚一枚それを炭治郎の体に当てていった。

「その服はあの籠に入れておいて。代わりの服を渡すけど、お古だからって文句言わないでよね」
「もちろん。……あの、君のことはなんて呼んだらいいんだ?」
「私?ナマエで良いわよ」
「そっか、ナマエ。昨日はありがとう」

 ナマエが目を点にした。

「何が?」
「ほら、俺の体拭いてくれたりしたの、ナマエだろ?」
「気絶したんじゃないの」
「あの時まだ意識があったんだ」
「へえ。でも目を閉じてたのに、よく私って気づいたわね」
「何かの甘いにおいと、あとナマエのにおいがしたからな」
「は!?」

 ナマエが炭治郎から飛びのいて、その拍子に腕に通していた衣服が何枚か足元に落ちてしまった。

「に、に、においって」
「ああ、におい。何かおかしいこと言ったか?」

 何を驚いているのだろうか、と思いつつ、ナマエが落としてしまった服の群れを拾う。汚れはついていないようだった。ナマエに渡そうと足を一歩出すと、炭治郎の頬に衝撃と部屋に乾いた音が広がった。

「変態!馬鹿!寄るな!」

 真っ赤な顔をしたナマエは、羞恥のにおいを発していた。そんな彼女に頬を叩かれたようだった。尾を引くほどの痛みはなかった。それよりもーー

「ま、町の皆にはすごいぞって言われたのに……」

 と、炭治郎は物理よりも精神的に傷ついていた。「そんなに言われることなのか……」「言われないと思ってるの!?」
 応酬を遮るように、もぞもぞと布の擦れる音がした。弾かれたように振り向けば、壁際に俵みたい布団にくるまった禰豆子が頭を覗かせていた。

「禰豆子?」

 様子がおかしかった。う“ぅう”ぅと、ナマエを見据えて禰豆子は猫みたいに威嚇していたのだ。しかし、どこか苦しそうでもあった。

「あの子、私たちを襲ってこれないわよ」
「どういうことだ?」
「そりゃこれがあるから」ナマエが巾着を懐から取り出すと、一層甘いにおいが強まった、「ーー藤の花の香り袋。藤って、鬼が嫌うみたいなの」

 横目で禰豆子の様子を伺うと、どうにもその香り袋が禰豆子を苦しめる原因らしい。

「……禰豆子が苦しそうだから、それどっかにやってもらえないか?」
「な!馬鹿言わないでよ!」

 ナマエは叫んだ。

「妹だかなんだか知らないけど!鬼は鬼よ!襲われたらどうするの!?」

 ナマエから発せられたにおいには嫌悪、ーーそれと、明確な恐怖があった。それが直に伝わってきて、炭治郎は妹を拒絶された怒りよりも申し訳なさを感じた。
 炭治郎は直感的に気づいた。多分、この少女は鬼と遭遇したことがあるのだろうと。

「わ、わかったわかった……無理言って、ごめん」

 炭治郎の謝罪に面食らった表情になり、「わかればいいのよ」とナマエは気まずそうに顔をそらした。

「……着替えたら籠を持って外に来て。洗濯、あんたにもやってもらうから」

 言い終えると、ナマエは手桶を持ってそのまま外に出て行った。
 ぽつねんと、妹と取り残された炭治郎は禰豆子の頭を撫でてやってから着替えだした。

  

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