鶴瓶(つるべ)ー井戸水を汲み上げるための桶であるーを手桶に傾けると足元にこぼれた水が跳ねて、ナマエは「ひゃあ!」と悲鳴をあげた。冷たい、というよりも冬の冷気に包まれていた皮膚が裂けそうなくらい痛い。
 手桶の持ち手を両手で握り、ナマエは家へと足を向ける。ちょうど長屋が見えたところでナマエは目を丸くさせた。
 表に出ていた鱗滝が手ぬぐいをかぶり、どこかに出かけるような様相を呈していたのだ。

「鱗滝さん、どうしたの?」
「少し出てくる」
「今から?」

 鱗滝はナマエが呆気にとられるうちに手桶を取ると、入り口の傍の水瓶に中身を注いだ。それから懐から何かを取り出すと、手桶と一緒にそれをナマエに握らせた。
 ふわりと甘い匂いがたちのぼり、つられるままに視線を落とせばナマエの手のひらにすっぽりと収まる程度の小さな巾着があった。
 下地は薄い桃色で、真ん中に赤い隈取りをした白い狐が刺繍されていた。その狐は右耳に赤い紐をくくり、蝶々結びをしていた。ちょうど、ナマエが伸ばしておいた髪を結い留めるのと同じ位置で、同じ形だった。

「それは藤の花の香り袋だ。儂は今晩帰れないから、念のために持っておくんだ」
「えっ」

 狐に親近感を抱く間もなく、ナマエは驚かされた。
 元鬼狩りである鱗滝が居を構える狭霧山といえども、絶対に鬼が此処を襲わないなんて言えない。だから鬼の弱点である藤の花の香り袋を護身用として持っておけ、と鱗滝は言ったのだ。
 ナマエは胸の内でひやりとしたものを感じた。此処に一人でいなければいけない。たった一晩と言えどもそれが恐ろしくてたまらなかった。ーーかといって、自分の都合で鱗滝を引き止めておくわけにもいかない。
 ナマエは口を引き結んで「うん」と頷いてみせると、鱗滝も頷いて、「行ってくる」と音もないまま走り出した。
 あっという間に背中が遠ざかっていく。視覚で捉えられる限界のところまで見送ると、ナマエは渡された巾着を懐にしまった。
 ナマエを包み込む、藤の甘い匂いは、やはりナマエの不安を紛らわせてくれなかった。


 鱗滝は次の日の深夜にようやく家に帰ってきた。ナマエは鱗滝の姿に安堵を覚えるとともに、今度は彼の後ろにみえた少年に驚かされる。
 彼は全力で運動をしたかのようにぜいぜいと肩で息をしていた(ナマエに気づくと、しゃっきりと背を伸ばして「初めまして!」と挨拶をしたが、顔色はよくない)。
 鱗滝はそんな彼を気にする風でもなく、今から山に連れて行くから、その間に彼の荷物を降ろさせてくれと、部屋の隅に厚手の白い風呂敷に包まれたそれをおいた。それから質問を挟む暇もなく、半ば引きずるように鱗滝は少年を山に連れて行った。

 頂上から麓の道まで殺意しか感じられぬ罠が張り巡らされたこの狭霧山は、鱗滝が用意した鬼狩りになるための訓練場でもある。しかしこの数年間は、此処には鬼狩りを引退した鱗滝と辞退したナマエしかいなかったため、最後に利用してから久しい。

 鱗滝が新しく子供を連れてきて、その山に放り込んだということは、つまりそういうことだ。

 最初の試験は大抵、罠をかいくぐって麓まで降りてこい、だろう。時間もきっと無理のない範囲で設定しているはずだ。
 ナマエのときは濃霧の中をさまよった挙句に、罠地獄から外れたところから降りた。麓についてから鱗滝の家からも大きく離れていることに気づいて、探しに来ていた鱗滝がみつけてくれるまでナマエはうずくまって泣いていた。それでも鱗滝はお前は麓まで降りていたし、自分が見つけられるようにむやみに歩かず動かなかったと褒めて、ナマエを認めたが。
 記憶を掘り起こすと、ナマエは初期の修行風景を思い出し、ナマエは苦々しい面差しになった。

 ーー鱗滝さんの罠、結構すごいのよね。

 打ち身、擦り傷、捻挫は当たり前だ。初めて味わう彼ならきっとひどいことになっているだろう。
 あの少年が帰って来た時のために一通り治療する道具を出しておいた方が良いと判断したナマエは、箪笥に近寄った。あれでもないこれでもないと漁っているうちに、視界の端にたびたび入る白――風呂敷から、唸り声が聞こえた。
 ナマエは身を引いて、じっくりと部屋の隅を見つめた。
 風呂敷は生き物のようにうごめいて、ナマエはそれが見間違えではないことを確信した。何か、中にいる。獣のような息遣いにナマエの体がこわばる。逃げなくてはいけないのに、足が床に縫い付けられたように動かない。

 やがて袋の内側から、ぷっつりと布を切る音とともに指が突き出た。
 指だ。小枝のように細く、少し鋭利だが、貝殻みたいにちいさな爪を持つ、人の指。なんで、どうして、そんな中にーーナマエが考えるうちに、今度は乱暴に布を裂いて一気にそれは姿を現した。

「う“、ぅ」

 ――女の子だ。
 明かりもない家だったが、暗闇に慣れたナマエの瞳はその全貌をしっかりとうつした。長い黒髪を持つ、竹を口に当てた、不思議な少女。
 それだけならよかった。しかしナマエの本能が、この少女が人ならざるものとして認識しだし、肌が一気にあわだった。
 少女はまたナマエをねめつけて、唸る。すぐに襲いかかってくる気配はない。
 ナマエは少女と睨み合いながら、ゆっくりと距離を取っていく。できるだけ玄関まで近づいていった。

 少女の瞳が怖い。鬼特有の縦長な瞳だから、というのもあるが、なぜかナマエを何かの仇だと言わんばかりの、憎しみがこもっているようにみえるからだ。よくよく見ると、その全身を持って、彼女はナマエに威嚇していた。その様子に少し違和感を覚えた。鬼ならば、獲物を前にしてもう少し嬉しそうにするものだと思っていたのだが。

「――ナマエ?」と、外から訝しげに声をかけられて、ナマエは少女に背を向けるのを厭わず扉を開けた。

「鱗滝さんっ!」

 ひっくり返った声に、自分でも驚きつつもナマエは飛びつくように鱗滝のもとに駆け寄った。自分を受け止めた、大きな手に全身の緊張が解けていくのを感じる。

「どうした?」
「あっ!あの!鬼が、荷物の中に鬼がいたの!私を憎ったらしそうに睨みつけて、でも何にもしなくて!」

 でも危ないから、と思わず袖を引っぱりかけた手が宙をかく。ナマエの説明に要領を得ないと判断したらしい鱗滝が家を覗き込んだからだ。
 それでもあの鬼は部屋の隅にいるらしい。不思議そうにするナマエに、鱗滝が言った。

「香り袋を少し遠くへやってくれ」
「へ?」

 ナマエは目を丸くさせた。あ、そういえば、そんなものをもらっていたという気づき。だからあの鬼はああいう態度を取っているのかという納得。そして、――なぜ、香り袋を遠ざける必要があるのかという疑問。

「いいの?」
「いいから」

 語気が強まるのを感じて、ナマエはうなずいた。これ以上ごねると拳骨(痛い)を受けた挙句に懐から香り袋を持って行かれるのはわかっていたため、ナマエは不安な気持ちを抱えたまま従った。

 家に戻ると、意外なことに床に伏せって子猫のようにくうくうと、あの鬼が健やかに眠りについていた。

「う、鱗滝さん。その子、なに?」
「炭治郎……さっき此処にきた子の妹だ」
「鬼だよね」
「ああ」
「一緒に、暮らすの?」
「ああ。あの兄が夜明けまでに山を下れたらな」
「本当に?」

 鱗滝の天狗の面越しから険の入った視線を感じて、ナマエは口を閉ざした。どうやら彼の中では決定事項らしい。
 自分のような人間でも、鱗滝は鬼狩りとして育ててくれたのだ。ならばあの炭治郎とやらもどのような結果となっても、きっと、ここで修行を積むことを許される。そして、自分はこの鬼の子と、これから一つ屋根の下、やっていかなくてはいけなくなる。
 正直、怖い。
 先ほどから少女が寝返りをうつ音を聞くたびに、ナマエの体が情けなくびくりびくりと震える。
 怯えるナマエの傍で、鱗滝は鬼が睡眠をとるとは、たしかに他の鬼とは違うらしい、ーーと、冷静に分析した。

  

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -