無惨が襖を開くと、人間の首に顔を埋めた男がはじかれたように振り向いた。男に抱えられていた人間は、刀を握っており、着ている羽織などは全て血に染まっている。すでに事切れているようで、人形のように力なく男に体を預けていた。

「旦那!?気づかずに申し訳ねえです」

 男――ナマエは、無惨の姿を認めるや否や口を赤で汚したまま慌ててその人間を放りだそうとした。それを無惨は片手を上げて「そのままで良い」と制し、ナマエの隣に片膝を立てて座り込んだ。
 視線でナマエにさらに喰べるよう促してから、無惨は周囲を見渡した。
 ナマエに住処として与えた家中血が染み込んでおり、この部屋もどちらのものとは知れぬ肉片が散って相当汚れていた。先の戦闘で消耗したナマエはひたすら腹が減っていた。何かをずるずると啜ったり、こりこりと砕いたりする音を立てながら、抱えていた人間をその骨まで舐める勢いで喰らいついていた。
 鬼となってから人間の頃の記憶は無惨と出会った頃のものしか覚えていないらしいが、特に躊躇もなく犬のように喰う姿は妙に愛嬌があった。

「箏(こと)も三味線もないのか」
「へえ」ナマエは口の中のものを飲み下してから頷いた。「柱というだけあって、こちらの手の内はほぼ看破されましてね、楽器は戦い中に全部壊されました」
「何人だ」
「二人です。これと……もう一人の方はもう食べちまいました」

 ナマエは唇を拭った。

「柱が会敵して一晩で戻ってこないとなれば明日にでもまた援軍がくる。このまま喰いつづけていけば上の者はいなくなり、後継を育てるものが消えて、鬼狩りは殲滅寸前まで追い込めるでしょう」
「そうか」

 実際、この数年でナマエが殺した柱は合わせて六人ほどだった。内部も今混乱状態だろうし、追い打ちをかけるのなら好機だーーああ、勿体無いことをしたな、と無惨は思った。

「また強くなるな、お前は」
「鬼月入りも近いですかい」

 ナマエは民間人も普通の鬼狩りも、運良く出会ったのだという稀血も喰べていた。それでもこの男は当たり前のように飢餓感に苛まれて、人間を喰べた。今のナマエならば、下弦ではなく上弦に匹敵する。これからも喰っていけば、それ以上に育つだろう。

「……旦那?」

 無惨の雰囲気が変わったのを察したナマエは、すこし戸惑ったような様子で視線をやった。無惨は冷めた目でナマエを見つめ返した。
 ――ああ、勿体無い。鬼殺隊が殺せるかもしれないという好機を逃すのも、お前の瞳がもう見れなくなるのも。

「ナマエ、お前自身に一応聞いておくが……、お前は私の支配からもう逃れられるな?」

 ナマエは相変わらずのへらりとした笑みだったが、その内面に動揺が走った。

 無惨は時折他の鬼からその肉片をもらう。細胞をーーその中にある遺伝子の配列を見るためだ。鬼として優れた能力を発揮したナマエの標本も定期的に調べていた。それを観察するうちにナマエの体が最近、おかしな進化を遂げているのが判明した。
 彼の体は無惨が植え付けていた呪いを、細胞ごと侵食してきているのだ。その兆候として時折場所や思考が明確に把握しきれなくなってきている。こればかりは無惨は看過できなかった。

「ええ」

と、ナマエは迷いなく頷いた。

「ならば今日明日のうちに命を絶て。やり方は、一任する」
「……分かりました」

「夜が明けたら、すぐに」とナマエは続けた。
 ナマエが「何故」という疑問で満ちているのは伝わったが、無惨はそれを了承した。ナマエの言葉は疑問に満ちながらも、決して死を恐れるような感情はなかったからだ。
 ナマエは深呼吸をすると、障子を見つめた。動揺を疑念を押し込むと、今度はその横顔と違わず晴れ晴れとした気持ちになっていく。

「お前は死ねるのが嬉しいのか?」

 ナマエは眉をハの字に下げて、照れ臭そうに肩をすくめた。

「ええ、そうです。……この間ね、アンタと会う前の、賊として過ごしていた頃の記憶を思い出したんです。今となってみると、あの頃も案外悪くはなかったんです。お天道さんの下で馬鹿やってばかりでしたがね。それがひどく懐かしく思えまして。ああ、戻れるんだなって思うと、浮つくのかもしれません」無惨を横目に、ナマエは続けた。「それに俺が死んだら、旦那も満足するでしょう?一石二鳥です」

 ナマエは本心からそう言っているようだった。

「そうか」と、無惨は消え入るような声で言った。

「お前なら、迷わずそうするだろう」

 ナマエはその日初めて、笑みを崩した。痛ましいものをみるような顔をしていた。

「ああ、そうでしたか」
「“そうでしたか“?どういうことだ、ナマエ」

 いうように促すと、ナマエは言った。

「旦那、実のところ俺は少し不思議でした。俺が邪魔ならここに来て、とっとと殺しちまえば良かったじゃないですか。夜明けを待ついとまもなく。だけど旦那は死に方を俺が自分で死ぬようにした」ナマエは落ち着かないように、その人差指で手の甲を叩いた。「……旦那も、俺と話したかったんですね」

「――でも、安心いたしました」と、ナマエはまたにこりと笑みを浮かべて、無惨の様子を伺うように見つめ返した。

「続きを言ってみろ」
「……それでも旦那は変わらねえところです。姿形を変えようともね。アンタ、そんな俺でも、俺が死ぬまで満足できないでしょう」

 ナマエはおろした雨戸の隙間からわずかに差した、床にまっすぐとひかれた日の光の線を見つめて、目を細めた。

「はあ、眩しい」

 つきものでも落ちたような、穏やかな面差しだった。ナマエは立ち上がって、二歩ほど進んでから足を止めた。無惨の陰鬱な視線を背中に受け止めながら、口を開いた。

「旦那。俺は先に地獄の横丁で待ってますんで、時が来たら気兼ねなくこちらに来てくだせぇ」

 それからまた迷いない足取りで外に向かった。待ちきれないといった様子で、素足で、彼は雨戸をあげて、日向に出る。灰となっていく彼の体が、障子紙のように朝日を透かした。中身のなくなった衣類が床に落ちて、呆気なくばさりと音を立てた。

 無惨は、日向が伸び切るかどうかの境界線に立った。
 
「お前の言っていることは合っていたよ」

 実際、無惨はナマエが自分の支配から免れるとわかってからは、その末恐ろしさに苛まれていた。ナマエがいなくなった今、その緊迫感“は“霧散した。

「危険因子は排除するに限る。私は自分の選択に後悔はしていない。本心から、これで良かったのだと思えている……」

 言いつつ、頬をくすぐる髪を一房切った。それを束ねてから男の着物に乗るように放り投げた。すると日に当たった無惨の黒髪はすぐに崩れて灰となり、ナマエのものと混ざってしまった。花も楽器も特に好まぬ奴だったから、餞別ならばこちらのほうが喜ぶだろうと思った。
 無惨は自分の行動に戸惑いを覚えていた。こんなことを他の忌々しい同類にしたことはなかった。
 仕方がないのだ。男の最期を見てから、ずっと髪を放り投げた指先が痙攣していた。自分を苛んだ緊迫感から解放されたというのに、頭が冴え渡るどころか、胸のうちがざわついて仕方がなかった。

 ちらちらと、あの男が外に出る前の背中が何度もまぶたの裏でよみがえる。あの男が、自分のためだと迷いなく死んでゆく姿が、何度も繰り返される。煩わしいことこの上なかった。
 アレはただの手足だ。他のものよりもすこし使えたものだから、きっと勿体無いと思っているだけなのだ。明日にはこの震えはもう、治っている。

「これで良かった。そうだろう?」

 無惨の問いに、男の残滓は何も答えず静かに風にさらわれていった。

  

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