養父に玄関まで促されて、俊國――無惨は目を丸くさせた。見知らぬ男が、うつむいたまま三和土(たたき)に突っ立っていたのだ。廊下の方を向く男は無惨たちが近寄ってからようやく顔を上げた。その瞼を下ろされたままだった。
 無惨はしげしげと男のなりを観察する。按摩にしては、やけに上等なもので身なりを整えていた。
 養父はその場で男と時候の挨拶を交わすと、無惨に視線をやった。

「俊國、ミョウジさんを奥座敷まで案内してあげなさい」
「はい」

 いろいろ聞きたかったが、養父はそのまま奥に引っ込んでしまった。新しい資料が入ったと今朝から落ち着かない様子だったから、続きを読みに戻ったのだろう。
 養父の足音が遠ざかるまで頭を下げていたミョウジは、「では」と腰を伸ばした

「若旦那様、なにぶんよろしくお願いします」
「はい。ああ、段が高いですから、足元にお気をつけてください」

 ミョウジの手を引くと、存外その手ー特に指先がーは厚く、固かった。歪とさえ言える。無惨は直感的に思ったことを口にした。

「もしかして、何か楽器をやっていらっしゃるのですか?」
「へえ。どの楽器かと言われると、何でもやっていた、という答えになりますが……先日、娘に箏(こと)を教えてやってほしい、と旦那様に頼まれましたので、この度伺った次第でございます」感心とばかりにミョウジは続けた。「いやぁ、わたくしがその筋の者だとよくおわかりになりましたね、若旦那様」
「勘みたいなものですよ」

 ――数百年ほど前の私もそんな手をしてましたから、などと言えるわけがない。

 奥座敷に着くと、箏が二つ並べてあった。姉はまだ来ないようだった。呼びに行こうかと足を踏み出したところで、すでに箏の前で端座したミョウジが思いついたように言った。

「若旦那様、せっかくですから聞かれていかれますか」
「箏ですか……」

 断る理由は思いついていたが、なんとなくその提案に乗ることにした。うまくこの屋敷に住みつけて、機嫌が良かったからかもしれない。ミョウジは一つ頷くと、準備をしてから箏を弾いた。

 無惨は、鬼にされてからは医者の調合した薬の再現や、人と鬼の形態(かたち)や構造(しくみ)の違いを知ることに注力していた。だからこそ様々な娯楽には見向きもしなかったし、こと遊芸に関しては、すっかり縁遠いものになっていた。
 しかしミョウジの弾いたのはそんな無惨でも、これは良(よ)いものなのだろうと思わされるようなものだった。そう言うと、男は目をつぶったまま「それはようございました」と口に笑みを作った。
 ふと思い立った無惨は男の隣に座った。不思議そうにする男に、「ではこの曲は弾けますか?」と言って子供の短い腕を伸ばしながら数曲聞かせた。
男はからりとした表情を初めて渋いものにさせた。そうだろう。先の曲は無惨が適当に作ったものだったため、譜面など存在しえないのだ。

「そうですねぇ……」

 ミョウジはまた微笑みをたたえた顔を無惨がいる方に向いた。

「旦那様次第ですが……わたくしが若旦那様に、またお会いできる機会があれば弾きましょう」

 間を開けて、無惨は含み笑いをしながら言った。

「……あなたは、存外たくましいですね」

 つまりは、次回も呼ぶよう養父たちに斡旋しろと、この男は暗に言っているのだ。自分よりも二十かそれ以上は下だろう子供に、そんなことを言い含めた男は、眉をハの字に下げて、照れ臭そうに後頭部をかいた。

「貧乏暇なしと言いますか……こちらも必死でして。お得意が一軒でも欲しいのでございます」

 養父が手すきの頃を見計らって、無惨はミョウジの話を持ちかけた。どうやら姉も師匠なら彼がいいと言っていたらしく、次回からミョウジを呼ぶことになった。「俊國もミョウジさんを気に入ったのか?」と意外そうに、そしてどこか微笑ましそうに養父が言うので、一応頷いておいた。

 特別にあの男の音色が特に気に入ったとか、また聞きたいというわけではなかった。むしろあの時に本来ならば子供にも技量が劣るなどと理由をつけて帰らせようとしていた。
 だが、よくよく考えればそう簡単に話は終わらない。ミョウジを来なくさせても、また次がやってくるに違いないのだ。それは無惨の本意ではない。ではここに通う人間をどうしても選ばなくてはいけないとなれば、無惨はミョウジが良かった。
 あの男は無惨の見た目―特に肌色だーに関して何も言えないし、無惨のことを子供だからといって言葉の端々でどこか下にみるようなものを滲ませなかったのだ。

 ふたたび無惨と相見えたミョウジは「ありがとうございます」とにっこりと笑った。そして先日通り奥の座敷に通すと、ミョウジは無惨にくだんの曲を、弾いてみせた。一度耳にしただけだというのに、すべて一音のずれもないようだった。弾き終えたミョウジは勢いよく顔をあげて、はずんだ声をあげた。

「いやぁ、若旦那様。即興であすこまでの曲が弾けるとは、感服致しましたぜ」

 無惨は目を丸くさせた。

「……それが素か?」
「や、これは失礼いたしました。課題を出されるなんて、幼年ぶりでして、思わず興奮してしまいました」
「お前の喋りやすい方で良い。私もそうする」
「若旦那様も同じでしたか」
「私は養子だからな。それらしい態度を取らなければならない」
「なるほど。若旦那様も大変ですねぇ」

 箏の前で端座するミョウジは、面のような笑みではなく白い歯を出して、クククと肩を揺らした。

「若旦那様の身の上も聞いちまったし、わたくしの話もしましょうか。弦を弾く音よりかは身になるでしょう」
「なんだ。その眼の行方でも教えてくれるのか」

 ミョウジは頷いて、「そんなもんです」と言った。

「わたくしの家は大きいお屋敷でした。ここよりも小さいもんでしたが、蓄えは普通よりもあったんでしょうね、月の無い夜に夜盗がやってきまして、うちのもん一切合財奪おうとした挙句にわたくしの両親を殺したのです。大きな騒ぎを聞きつけたのか、外は大人たちの声で賑わっていました。夜盗は最後に奥の部屋の襖を開きました。そこで縮こまっていたわたくしは、悲鳴さえあげる間も無くその男に目をやられたのです。まあ、目撃者を殺すいとまもないと、焦っていたのでしょうね」
「その夜盗はどうなった?」
「見つかりませんでした。まぁ、どこかで悪さしてるんじゃないでしょうか」

 さも他人事のように話したミョウジは、まぶたを親指で縁をなぞるようにこすった。

「若旦那様もお気をつけください。庭に高い松でもありゃあ、鼠でも泥坊でもなんでも入って来ちまいますから」
「仮に盗人が一人でもきたらどうする」
「隠れずに裏から出て、近くの家に逃げこむのが一番かと。あいつらは体が入れば天井でも床下でも漁りますので」
「鼠みたいだな」無惨は続けた。「うちの庭にも松が一つ立っている。父にも気をやるように口添えしておこう」

 姉がやってきたため、その日の会話はそこで打ち切った。


 それから、ミョウジは定期的に屋敷を訪れた。ある時は箏を、姉が望めば地弾き(三味線)や尺八、胡弓(こきゅう)なども教えに来た。母と、その知り合いの方々に仕込まれましてね、と語るミョウジは息をするように楽器を弾くだけで、表情は乏しかった。ミョウジは、自分の生業に対して特別な情を持ち合わせてはいないようだった。
 しかし無惨があれこれと無茶を投げると、ミョウジは少年のように笑って応えた。以前のように彼の知らない曲を一度だけ弾いて覚えさせたり、外国語も仕込ませてみたりした。ミョウジが際限なく物を覚える様子と、次に何を与えようかと考える時間が屋敷での無聊の慰めとなった。

 ミョウジと無惨との関係が二、三年ほど続いた。

 ある夜、無惨以外の者が寝静まったころだった。
 養父から渡された文献に読みふけるうちに、姦しい悲鳴と荒々しい足音とが廊下中に響き渡った。血のにおいが無惨の鼻をかすめた。そのうちに人の気配が無惨の部屋の前に集まってきた。

「娘は残したか?」
「手ぇ噛んできたから間違ってやっちまった」
「馬鹿野郎」

 侵入者たちの笑い声があがった。どうやら姉も養父たちも殺されてしまったらしい。なんて面倒なことを。
 せっかく積み上げてきたものを、壊されていく不快感と苛立ちで自然と無惨の眉根が寄っていった。読み終えた書物を閉ざして、机に置いた。この屋敷は破棄するしかないが、その前に憂さ晴らしとして侵入者は殺しておきたかった。

「おい、だからこの部屋には何にもねえって。さっさとおいとましようぜ」

 無惨は目を見張った。
 襖の向こうから聞こえたのはミョウジの声だった。ミョウジは落ち着いた口調で仲間らしき男達をそう諭して部屋には近づけまいとしていた。無惨が耳をすませると、口論から取っ組み合いにまで発展して、それから床に何かを落としたような、質量感のある鈍い音が響いた。「手間かけさせやがって」と悪態づいたのは、ミョウジと喧嘩していた男だった。

 襖ごと男たちを切り裂いた無惨は、返り血で服を汚しながら廊下に出た。床に視線を下ろすと体が上下に分かれた死体のなかで、一人だけうずくまった体勢を取っている男がいた。

 ミョウジだ。

 ミョウジは血が流れる腹を必死で押さえながら、困惑したように首を巡らせていた。
 お前はこいつらの仲間だったのか、それとも何か事情があるのか、そういった疑問は浮かばなかった。そんなことは、無惨にとってはどうでもよかった。

「生きてるな?」
「あ、ぇ……?」

 無惨はミョウジに寄ると、否応なく首に指を差し込んで自らの血を分け与えた。
 ミョウジは眉間に皺を作って、床にふせった。喉を潰しそうなくらい低い声で何度も何度も唸り、その鋭利になってきた爪で溺れているかのように、床板を剥ぐ勢いで引っ掻き回した。完全に鬼となった時、ミョウジは肩で息をしながら、その頭のなかを支配する、途方もない疲労感と飢餓感、そして現状への困惑に苛まれていた。
 本来ならば鬼となった頃合いで自我や記憶を失うものが多いのだが、ミョウジの思考はいたってはっきりとしていた。

「腹の傷は治ったか」

 無惨の声にミョウジはつられたように顔を上げた。目はつぶったままだった。無惨はミョウジを膝立ちにさせると、その歯牙が鬼のものになったことを確認してから、その薄いまぶたを親指の腹で撫でた。

「今度はコレを治せ。お前の体に巡る血を、力を、此処に集中させるんだ。難しいことではない」

 ミョウジは戸惑いながらも、その声が無惨のものだとわかると素直に従った。まぶたが内側から徐々に膨らんでくる。目が完全に治ったのだろう、ミョウジは眩しそうにまぶたを開いた。

「若旦那様?」

 目を何度もまたたかせ、無惨の顔を不思議そうに見つめていた。
 一体、何者なんだ、というミョウジの困惑が伝わって、無惨は鼻で笑った。

「私が何者だって良いだろう」

 無惨が子供の姿から大人の形に変わると、ミョウジは目を丸くさせた。

「だが、あえて言うのならば鬼だ。この世でもっとも完璧に近い存在。それが私だ。お前も鬼となったが……私と同類となったからといって、対等ではないことを理解しろ」無惨はナマエを指差した。「お前はその全身全霊をもって私の役に立つんだ」
「はは……鬼、か……」

 ミョウジはゆるりと笑った。口を両端から釣り上げたような、どこか楽しそうな笑みだった。「旦那にもらわれるなら本望ですぜ」と心からの言葉を口にしてから、傍に投げ出された仲間の上半身から腕を取って、その肉を貪り出した。

  

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